流星流転

沙羅双樹

第1章 不倫の代償

第1話 仮想空間と現実

 鏡に映る腫れぼったいクマのできた一重の瞳に鬼谷ふみ子はため息をついた。

 クマができているのは、昨夜メタチャットに夢中になっていたからだ。

 メタチャットとはアバターを通してチャットができる仮想空間だ。ふみ子は有料会員になって「アンドロメダの議論帝国」という自分の部屋を持っている。自分の部屋を持つと気に入らない人を強制退出させられる権限を行使することができる。でも、気に入らないからといって退出させまくっていると、自分の部屋に遊びに来てくれる人も減るわけで、大義名分が必要になるのだ。最近、ふみ子の頭を悩ませているのが、自分は変態だと自己紹介する人がいるということだ。しかし、彼はそれ以上のことは言わず、真面目に議論するから強制退出させるほどではないのかもと思い始めている。ふみ子のアバターは白い狐のお面をつけた、巫女すがたである。


 昨夜は、白いマントに仮面をつけたエスパー777がAIの意見集約システムで政治家こそリストラするべきだ。同時にベーシックインカムを導入して、公平な社会を構築できるという意見に真っ向から反対したのが、その変態だと名乗る黒いスーツ姿にサングラスのスカイスナイパーで、リーダーがいなければ、だれが反対の意見を言う人をなだめるのか、ベーシックインカムでだれも働かなくなったら税収がなくなって、ベーシックインカムの財源もなくなるだろうという。エスパー777はだからこそ早く電子政府を実現するべきだと主張していた。


 ふみ子はどちらを支持するか迷っているうちに夜は更けて、目の下にはクマができたのだった。ふみ子は派遣社員で社会の低層にいる。だが、メタチャットでは管理人をしていて、気に入らない人を追い出す権限を持っている。現実では肩身の狭い思いをしているが、ネットでは居場所が確保されているという思い込みが、メタチャットに夢中になっている理由だった。


「朝ごはん食べないの?夜は12時前に寝なさいと何度も言ってるでしょ!」

 母の小言で我にかえったふみ子は急いで口紅をひき、自分の部屋をでた。

「お母さん、今日は朝ごはんはいらない、そのかわり、今日から心を入れ替えて12時前に寝るから。8時には帰ってくる。行ってきます。」

 ふみ子の両親が幼いころに離婚して、祖母に引き取られ、祖母が亡くなってから、また母と一緒に暮らすようになっていた。

 母の顔はみずに、ふみ子はアパートを出た。近くに梅が咲いていてほのかに香りを漂わせ、メジロが木の枝にとまり、春の訪れを告げている。


 今回も契約が更新できるだろうか?それとも、ハローワークで正社員になる道を選んだほうがいいだろうか?母は結婚するか、正社員になって、早く自立できる道を選べという。ふみ子には結婚できる恋人がいるわけでもないし、結婚相談所に足を運んでいるわけでもないし、マッチングアプリにも抵抗があった。では、自立する道を選ぶとして、正社員として受け入れてくれる会社があるのだろうか?


 満員電車の中でおなかがグゥーと鳴った。ふみ子は恥ずかしさに耐えて、水天宮の駅を降り、派遣先の会社へと向かった。急成長しているITのベンチャー企業だ。

 オフィスが入っているビルのカフェでパンとコーヒーを買おうと並んでいると、正社員の太田晃一が近寄ってきた。


「鬼谷さん、悪いけど、千円貸して。俺、財布忘れてきちゃったんだよ。スマホもチャージしてなくて、クレジットカードも持ってないんだよ。」

 太田晃一は派遣社員のふみ子にも親切に接してくれる、小太りの愛嬌のある丸顔で、ちょっと抜けてるところが憎めない人だった。


 ふみ子は笑顔で千円を渡した。

「しっかりしてくださいよぉ。返すのはいつでもいいですからね。」

「サンキュー。助かった。クマができているけど、眠れなかったの?」

「ええ、メタチャットにはまっていて、夜寝るのがおそくなってしまって・・」

「メタチャットってゴーグルつけてるの?」

「いえ、私はアバターで音声は切っています。」

「へぇ、俺はバトル系のオンラインゲームにはまっている。」

「私は運動神経が悪いので、バトル系ゲームはダメですねぇ」

「よかったら、そのメタチャットに俺を招待してよ。ゲスト出演するからさ」

「いいですよ。あとで、メールアドレス教えてください。」

「うん。じゃぁ、あとでね」


 ふみ子がラウンジでコーヒーとパンを食べていると、派遣仲間の相田陽菜が隣に座った。相田陽菜はスラリとした長身に長い髪を束ねているシャープな顔に似合わず、冗談が好きでふみ子とはプライベートな話もするいい友達だった。


「オハヨー。みちゃった」

 相田陽菜はニヤリとした。

「何をみたの?」

「太田さんと仲良く出勤しているところ」

「あー、太田さんに千円貸してあげただけだよぉ」

「それだけ?」

 相田陽菜は探る目つきをしたが、ふみ子は動じなかった。

「ウン。それだけ」

「ねぇ、私、太田さんに関するある噂を聞いたんだけど、興味ある?」

 相田陽菜は声をひそめた。

「噂?うーん、千円貸したし、そうだね、興味あるかも・・・」

 ふみ子も声をひそめた。

「太田さんってね、御曹司なんだって、この会社にもコネで入ったんだって」

「それ、噂でしょ。クレジットカードも持ってないんだよ」

「持ち歩いてないだけかもしれないよ。平社員にはツッケンドンで有名な企画の青野さんが太田さんには愛想がいいのを不審に思った人が、青野さんに理由をきいたら、

 ・・太田さんはね、御曹司なのよ。高田常務や社長も太田さんには気を使っているらしいわよ・・ってきいたんだって」

「青野さんって、あの企画のモデルのようにきれいな人?」

 ふみ子と青野真央は話したことはないが、長身で整った目鼻立ちの青野真央のことは知っていた。

「そう、何人もの男性社員が青野さんといい関係を築こうと話しかけたり、誘っても、ツッケンドンに断られているんだけど、太田さんには愛想がいいんだって。太田さんを狙っているんじゃないかっていう人もいるらしいよ」

「でも、青野さんが仮に太田さんを好きだとしたら、私なんか、相手にされないでしょ」

 相田陽菜はニコっと微笑みをつくった。

「うん、普通はそうだけど、神様ってとんでもないドンデン返しを用意しているかもしれないでしょ」

「私にわかっているのは、神様は私のことなんか好きじゃないってこと、神様になんの期待もしてないよ」

 ふみ子はため息をついて、残りのパンをコーヒーで流し込み、相田陽菜と連れ立って営業部にある自席についた。



 



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