おぼえてないのは彼女だけ②

 僕の名前は村上康介。

 いまだに、記憶喪失だ。


 時は流れて、放課後である。

 夕日が差し込む誰もいない教室で、僕はひとりで床を磨いていた。

 これは記憶がなくなる前からの日課だ。


 窓を開け、はたきで埃を落とし、箒で床を掃き、雑巾で拭く。ひとつひとつ手順を踏む。少しずつ、しかし確実に汚れが落ちていく様子を見るのは気分がいい。


 ただ、人に見られると色々と気を遣われるので、こうして放課後にこっそりおこなっている。


「ほんと、毎日エラいよね」

「うおわ!!」


 急な呼びかけに驚いて、情けない叫び声をあげてしまった。


「やっほー。コースケ。お疲れ」


 立っていたのは一ノ瀬あおいである。夕日に染められた彼女の顔は幻想的な美しさを醸していた。


「ああ、お疲れ……」

「部活終わったから、一緒に帰ろ?」

「お、おう……」


 柔らかな表情に思わず見とれる。

 これが僕の彼女だなんて、改めて信じがたい話だ。


「部活、今忙しいのか?」

「いやー。コンクールまでまだ時間あるから、腕がなまらないように筆動かしてる感じかなー」


 家までの道を歩きながら、雑談を交わす。何気ないワンシーンだが、僕にとっては地雷原をあるくような緊張感があった。


 なにせ彼女のことを何一つおぼえていないのだ。どこでボロがでるかわからない。事前に調査した彼女の情報と常に照合しながら言葉を選ぶ必要がある。


 一ノ瀬あおい。僕の隣の隣のクラスに所属。容姿端麗、品行方正、学業優秀と三拍子揃った優等生。部活は美術部で、専門は水彩画。その腕前はプロも参加するコンクールで入賞するレベルらしい。


 ……なんというか、知れば知るほど僕とは生きる世界が違う。


 断っておくが、僕には彼女と釣り合うような容姿も才能もない。裕福な家庭なわけでも、人脈があるわけでもない。何の変哲も無い高校生だ。


 どうやって僕はあおいと付き合うにいたったのだろう。間違いなく正攻法ではないだろう。せめて合法的な手段であることを祈るばかりだ。


「……そういえばさ、今日の昼休み、恭子ちゃんと話してなかった?」


 あおいが急に足を止める。表情が少し不機嫌そうだ。


 下山恭子は僕と同じクラスの女子だ。あおいの友達で、部活も同じ美術部。あおいの情報は基本的に彼女からそれとなく聞き出したものである。


「え、まあ」

「なに話してたの?」

「い、いや……別にいいだろ」


 言えない。情報収集だなんて言えるはずもない。

 煮え切らない態度に、あおいの唇がとがる。


「ふーん。そうですか」

「なんだよ」

「そうだよねー。恭子ちゃん、かわいいもんねー」


 ま、まさかこれは……!!


「お、おい……あおい?」

「ふんっ」


 嫉妬である!!!

 ぷいっと逸らされた横顔!! わざとらしいふくれっ面!! やっかみを見せることで逆説的に相手への愛情を表現する必殺の疑似餌である!!

 あざといとは分かっていても引っかからざるをえない!!


「いや、誤解だ! 僕に浮ついた気持ちはない!」

「えーじゃあ証明してよ」

「しょ、証明?」

「デートしよ! 今週末!」


 あおいはくるっと満面の笑みにきりかわった。


「……もしかしてそれ言いたかっただけか?」

「あ、バレた? ちょっと焦らせようと思って」


 口元を隠し、いたずらっぽく笑っている。


 この笑顔を向けられたら、誰もが思うはずだ。


 こんなにかわいい彼女、会話が地雷だらけ程度で手放せるわけがねぇ!


「じゃあ、また後で連絡するね!」


 僕の家の前で軽く手を振りあって、僕とあおいは別れた。


 しかし、今週末か。ちょうど良かった。

 僕は当日の計画を練りながら、自宅の扉をあけた。

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