おぼえてないのは彼女だけ①

 僕の名前は村上康介。

 多分、記憶喪失だ。


 一ヶ月ほど前、僕は交通事故に遭った。高校からの帰り道、軽自動車に吹っ飛ばされたのである。


 幸い大事には至らなかったが、頭を強く打ったらしい。医者からは記憶に不具合が生じているかもしれない言われたけれど、蓋を開けてみれば心配するほどのことではなかった。家族・親戚・交友関係など、生活を送るのに必要な記憶は何一つ抜け落ちていない。


 ではなぜ僕がいまだに記憶喪失を自称しているのか。

 理由は一つ。一ノ瀬あおいの存在である。


「おはようコースケ! 今日も良い天気だよ!!」


 玄関の扉を開けると美少女がいた。一ノ瀬である。


「おはよう……どうしてここに?」

「え、一緒に学校いこうと思って」


 一ノ瀬がキョトンとした顔をしている。長い黒髪に雪のように白い肌。大人っぽい整った顔立ちをしているが、大きな瞳とややたれ目気味の目尻にあどけなさが残っている。


「……え、なんで?」

「え、そりゃ……私、彼女だし?」


 照れ隠しなのか、ぷいっと目線を逸らした。白い頬に赤みがさしている。


 一ノ瀬あおい。僕と同じ高校に通う高校二年生。

 道行く誰もが振り返る、正真正銘の美少女である。


 信じられないことに僕の彼女だ。

 さらに信じられないことに、僕はその事実をおぼえていない。


 これが、僕が記憶喪失たるゆえんである。


 他のことは何一つ忘れていないのに、彼女のことだけは一つも思い出せない。


 どこで出会ったか、きっかけは何だったか、いつから付き合っているのか……。その全てが謎だった。


 事故で恋人の記憶を失う。これだけ聞いたら結構な悲劇だ。


 ただ、僕には悲劇のヒーローを気取るにはやや後ろめたい事実があった。


「あの水族館リニューアルするらしいね!」


 高校までの道すがら、一ノ瀬が楽しそうに話す。


「へ、へえ……そうなんだ」

「あれ、おぼえてない? 隣町のやつ。前行ったじゃん」


『前行ったじゃん』


 その言葉に心臓がぎゅっと縮まる。

 や、ヤバい……!!


「どうしたの? コースケ、なんか今日変じゃない?」

「え、いや、そんなことないぞ! また行きたいな!!」

「う、うん」


 白状しよう。

 僕は、一ノ瀬の記憶がないことを、彼女に伝えていない。

「おぼえているフリ」をしているのである。


 なぜか、なんて野暮なことは聞かないでほしい。


 だって、「おぼえてない」っていったらフラれるかもしれないではないか!


 あの病室から既に一ヶ月が経過している今、今更「ごめん。実は僕君のことおぼえてないんだよね(笑)」などと言おうものなら、


『おぼえてないのに付き合うとか、完全に顔目当てじゃん。サイテー』


 などと何の言い逃れもできない正論ビンタによって昏倒させられ、間違いなく関係が破綻するだろう。


「じゃあ、コースケ。私職員室に用事あるからここで」


「ああ、一ノ瀬。また後で……」


 一ノ瀬が少しムッとする。とがめるように口をとがらせた。


「……一ノ瀬って、急に他人行儀じゃない? あおいって呼んでよ」

「……!!」


 名前呼び!

 古より使い古されているにもかかわらず未だに人々の心をつかんで話さない、恋人イベントの金字塔である!!


 気恥ずかしいが、ここで名前を呼ばなければ、怪しまれる。ここはいくしかない。

 口元がひくつくのをこらえながら、決死の覚悟で口を開いた。


「あ、あおい?」


 彼女の口元にじわじわっと隠しきれない喜びが浮かぶ。

 思わず見惚れてしまった。


「……うん! また後で!!」


 一ノ瀬……もとい、あおいはニコニコしながら走り去って行った。


 僕にだってこの関係がいびつであることはわかっている。


 しかし、こんなチャンスは二度とない!

 こんなにかわいい彼女、いっときの正義感で手放してたまるか!!


 僕は決意を新たに、風を切って教室に向かった。

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