路地裏の戦闘
意識を戻したのは何かに蹴られる痛みだった
。腹部からの信号で段々と目が覚めてくる。
鼻をつく異臭の刺激で思わす目を開けた俺は眼科の視力検査で強いレンズを入れられた時のような歪んだ視界に思わず目を閉じた。
「兄貴!こいつ生きてましたよ」
「なんだ」
足音と酒臭い吐息が近づいてくる。女物の香水の残り香が酔っ払いの吐瀉物の臭いと合わさって吐き気を催させる。
「おいガキ、起きろ」
揺さぶれ渋々目を開けた俺は歪んだ視界の中で覗き込んでくるスキンヘッドに思わずたじろいだ。
「裏口で寝られてたら迷惑なんだよ。とっとと消えろ」
「すいません」
反射で謝った玲は歯を食いしばりながら脚に力を込めた。
腹が鳴っていた。月が南中しているので今は深夜0時ちょうどくらい。昼から何も食べていないことと男子高校生の生態を考慮すれば空腹でも不思議ではないとはいえ——。
「汚ねえ。よだれ垂らしてやがる」
野卑な声で罵られ初めて口元から垂れる涎の存在に気づいた。寝ている時に垂れたとは思えないが。
ふらつく足取りで立ち上がった玲は壁に手をついて体を支えながら千鳥足で歩き出す。
手が汚れているのも構わずコンタクトを乱暴に外した。親譲の近視でかなりの不自由を被っていたはずの視界はゴキブリの脚の動きを捉えられる。
鼻もそうだ。単に臭いに敏感になっただけではなく風向きも気圧も感じ取れるようになった。
前から近づいてくる存在を無意識に避けようとした玲は足がもつれ肩がぶつかってしまう。
「すいません」
再び感情のない謝罪を口にし、そのまま歩き去ろうとした玲の肩が掴まれる。
振り返ってみれば玲がぶつかった男が青筋を立てながら睨みつけていた。
「すいません。じゃねえよクソガキが」
「すいません」
「ガキ、前歯へし折られたいのか?」
失言だった。口にしてからようやくそのことに気づいた。空腹に苛まれていようと握りしめられた拳を見れば休暇をむさぼっていた危機感も遅い警鐘を鳴らし始める。
「ごめんなさい。わざとじゃないんです」
「当たり前だ。わざとなら前歯じゃすまさねえ」
騒ぎを聞きつけて先ほどの二人も来たようだ。ドタドタと品のない足音が聞こえてきた。
「佐々木さん!どうしたんですか?」
「このガキがぶつかってきやがったんだよ」
少なくともお前も避けてはいないだろ。口の中で呟いた玲は3人の顔に視線を配る。
それぞれが動き逃げ場がないように囲んでいる。走って逃げるわけにもいかなそうだ。
「その制服、青花高校の制服だな」
よくご存知で。この制服は都立青花高校の制服である。玲が何か言う前に佐々木とやらは言葉を続ける。
「俺だって鬼じゃねえ。10万だ。即金じゃなくていい。払えるな?」
「……」
「どうせパパに頼めばそのくらい簡単に用意できるだろ?」
何も言わず立ち去ってしまいたかったがそれもできない。
それよりこのシチュエーションがまずかった。段々と整理されてきた脳内は自分のものではない、どこかのおっさんの記憶が蘇ってきた。
浮かび上がる光景は狼男が人間の腕をほおばる映像。ほとんどグロイスチルかエロいスチルしか覚えていない前世の自分を脳内で殴り倒しながら目線で周囲に助けを求めるが、路地に立っていた浮浪者のような男性は無言で奥へと消えていった。
「わかりました。一週間以内に持ってきます」
嘘だった。払う気なんてさらさらない。この場を逃れるための方便。そこまで声が震えなかった自分をほめてやりたい。
「それはよかった。ならもう行っていいぞ」
「……ありがとうございます」
笑顔を作り慣れていないのかどこか歪んだ笑みを浮かべた佐々木。どこか引っかかったが疑問を持つ前に歩き出した。
道を開けるように脇に寄った佐々木の横を通り二歩進んだ時だった。
コンクリートが踏みしめられる音が聞こえ反射的に前に飛び出そうとするが遅い。
強力な一撃を背中にくらい膝をついて倒れ込んだ。
「お前、俺のこと馬鹿だと思っただろ」
佐々木は玲の背を踏みつけながら抑揚のない声で言った。
「どうせ誤魔化せるってか?そういう態度が一番ムカつくんだよ。おい、聞いてるのか?」
足された一言は呆然と口を開けている玲の様子を見てのもの。出血している自らの手を見た玲の表情は驚愕から絶望へと染め上げられていく。
「逃げろ」
「あ?」
「さっさと逃げろ。俺が抑えられている間に!」
「何を言って……」
——狼男の変身のトリガーは血と満月。
図らずもこの場はどちらも揃っている。抗議や謝罪、命乞いではなく逃げろと言った玲に珍獣でも見るような視線が集まる。
それにいちいち対応している時間は残されていなかった。
「なんだ!」
玲の周囲に熱のこもったモヤが広がり、佐々木は声を上げて飛び下がった。
その間にも苦しげに丸まった玲の体毛は爆発的に増加し、骨格も変形し始める。鼻は前に飛び出し、耳は長くなる。
手の爪は異常にがなくなり指は縮まった。毛皮というべき範囲まで伸び切った体毛と発達した筋肉が鎧のように全身を覆う。
「がぁぁぁぁあああGrrrrrrrrrrr」
途中まで人間の声で悲鳴を上げていた玲の喉が変質する。人間の声帯とは異なる発達を経た喉が低い唸り声を上げた
「なんだ、あれ」
逃げなくてはならないと分かっていた佐々木たちも動くことが出来ずその場に縫い付けられたように立ち尽くしている。
ゆらりと陽炎のような動作で玲が、いや玲だったはずの化け物が立ち上がった。
犬歯を鋭く尖らせ奇妙に丸まった姿勢で佐々木を睨む目は人間のものとは違う輝きを持つ。
「Grrrrrrrrrrrrrrrr!」
満月の夜狼の咆哮が響き渡った。
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