第一話


「—い、玲、おい寝すぎだぞ」


 肩を強く揺さぶられた大神玲おおかみれいは完全に突っ伏していた机から億劫そうに身を起こす。


「あれ?なんでこんな人いないの?」


 教室に人の気配はなかった。外の廊下にも通り過ぎる人影はない。グラウンドから聞こえてくる掛け声以外普段騒がしい学校の面影を伝えるものはなかった。


「六時間目からずっと寝続けてたんだよ。もうみんな帰ってる」


 外を見てみればもう太陽の姿は消え、残光だけが未練がましく残っている。


 呆れたように眺めてくる友人、土橋優斗の言葉を聞いてぐっと体を伸ばした。


「途中で起こしてくれればよかったのに」


「玲が寝るなんて珍しいだろ?起こすのも悪いと思ってな」


「優しいかよ」


 頰をかいていた悠人にそう言ってやるとうるせえよと背中を叩いてくる。叩く力も軽く、照れ隠しなのが丸わかりだ。


 これで察せないのだから彼も彼女たちも随分な鈍感に違いない。あるいはお互いに鈍感であることを楽しんでいたのか。


 だとすればあんなことになったのは哀れという他——


「玲、まだぼうっとしてるのか?早く帰ろうぜ」


「ああ、だな」


 頭を振って浮かんできた不可解は思考を振り払った玲は優斗に習って学生鞄を掴む。


「そういえば、お前の彼女たちはいいのか?」


「俺の彼女じゃないけどな。三姉妹ならそれぞれ用事があるとかで、レーナは……ちょっとな。会長は里無先生に呼ばれてる」


 彼女じゃないけどと言いながらも口にした女の子たちは傍目から見ても優斗に惚れている子たちだ。


 美人揃いで去年のミスコンは家族対決になるとも言われた幼馴染の華滝三姉妹に、転校初日から校内の男子の心を掴んだハーフの美少女レーナ。


 そして、大企業の経営者の父とモデルの母を持つ生徒会長の葵。


 里無に呼び出されているなら会長はもうダメだな。頭の中で何かがつぶやいた。


「それに、先に玲と約束してたしな」


「律儀な奴め」


 ずっと女の影が絶えなかった優斗は以前ほど彼女らと会っていないようだ。訳を聞いても特にないと言われるばかりで……。


 ——こいつ自身もわかっていないのだから仕方ないだろう。


 なんだ?


 今度ははっきりと声が聞こえた。声の主を探そうと玲は周囲に視線を走らせる。


「今なんか聞こえなかったか?」


「は?なんだよ、怖い話?」


 聞こえなかったのか。優斗の怪訝な表情を見て判断した玲は誤魔化すように笑い立ち上がる。


「いや、なんでもない。さっさと行こう」


「ああ、おう」



———————


 優斗と途中で別れた玲は目に入った公園のベンチに座ってズキズキと痛む頭を抱えた。


 日暮れが早まったせいか比較的早い時間であっても幼児の姿は見えない。


 風邪でも引いたのかもしれない。ただ身を焼く行き場のない焦燥感が簡単に片付けることを許さなかった。


 スマホを確認するまでもなく今日の予定は特にない。オンラインの課題もすでに処理しているはずだ。


「なんだってんだよ」


 募る焦りと頭痛に小さくぼやいた玲は立ち上がり自販機に向かう。

 

 慌ただしい足音が聞こえてきたのはちょうどその時だった。


 なんとはなしに視線をやった玲は凍りついたように足をとめる。


「——は?」


 先頭を走っていたのはところどころ焼け焦げた戦闘服を着たケモ耳の美女。


 目を引いたのはわずかな覗く豊かな胸だ。


 破れかけた戦闘服は元々露出度の高い衣装だったらしく右胸は頂上以外ほとんど顕になっている。


 黒い戦闘服と白磁の肌との対比は素晴らしい。機能性の高いわずかに服が肉に食い込んでいる部分など驚嘆に値する。


 ケモ耳の完成度も傑出している。近年のコスプレ技術の進歩には目を見張るものがあるが、加工なしでここまで自然に表しているのは、現実離れした執念があってこそだろう。


 検索エンジンにヒットしたら誰でも狂喜乱舞でお宝にすること間違いなしのカットだ。


 玲とて歓喜し、フォルダに入れておくレベルのもの。本能に従って目に焼き付けようとしていたが付き従っていた男の物騒な声に我に返った。


「邪魔だ、小僧!」


 弾かれたようにそちらをみれば、二人の男は真ん中の女より人間から離れていた。


 全身が硬質な体毛に覆われ、鼻も犬科の動物のように伸び、耳の形も変化している。


「狼男?……っまずい」


  目の前の光景に圧倒されてた玲は逃走の機会を失った。まさしく人間離れしたスピードで迫ってくる狼男。一撃で済ませようと堅い意志のこもった拳は必殺の一撃。


 遅れて足を動かし始めた玲にかわしきれるものではない。


 火事場の馬鹿力で正中線に当てられることだけは防いだものの、拳は玲の体を捉えた。肋骨が砕けそうな衝撃を伝わり、たまらず後ろへ吹き飛ぶ。


 砂場に転がった玲は内臓が掻き乱されるような苦痛に鈍い悲鳴をあげた。


 制服に砂をまとわりつかせながら転がる玲の前に立ち、狼男は酷薄な表情で振りかぶった。


 右手の爪は長く、鋭い。人間の肉など容易に切り裂く凶器だ。


「いや、お前、まさかじゃあ、俺は……どうして?しかもなんでよりによってこいつに?」


「なにをぶつぶつ言っている?」


 しかし、玲の表情に絶望はない。むしろ浮かんでいるのは納得の色だ。


 視線を狼男に合わせず、ただ支離滅裂なことを口にしている。


「思い出した。思い出したんだよ。そうだ、ここだ、この場所だ。あの会話がイベントフラグになったのか?」


 知っている。そう、玲はまさしくこの世界を知っていた。


「なにを言っている?」


「会えてよかったって言っているんだよ。火華!」


 その言葉に狼男の表情が変わった。眉間にシワを寄せ牙を剥き出しにして威嚇する。


「その名をどこで知った⁈」


 早まったか。興奮と衝撃に歪んでいた玲の表情が固くなる。


 しまった。黙っていればここは生き残れたはずなのに。


「答えないか、小僧!」


 激した狼男の拳が振り下ろされる。流石に二度目の奇跡は期待できない。


 狼男の正確な拳は玲の頬を捉える、その寸前で拳が止められた。


「火華様!」


 拳の止めた者の名を狼男が困惑したように口にする。


 狼男に反応せず火華はしゃがみ込んで玲に視線を合わせた。生まれながらの捕食者の視線に一時的に忘れていた恐怖が再燃した。


「恐怖の臭いがするぞ」


 豊満な肉体に見合う肉感的な声で火華は囁いた。最初に抱いた劣情は消え、被捕食者として本能的な恐怖が生まれた。


 それでも、目元が動き睨みつけてしまったのはこれからの運命を知ったからか。


「面白い。実にいい匂いだ。連れて行け、これにする」


 やばい。次になにが起こるか知っている玲は痛む体に鞭打って立ちあがろうと足を動かすが、


「動くな」


 面倒くさそうな狼男が軽い動作で小突いただけで玲はたまらず悲鳴を上げた。


「セイ、残れ」


「はっ」


 火華から命じられた狼男が硬い声で頷いた。彼の未来を知っていた玲は自らを拘束する狼男に訴えかける。


「俺を離して、3人で逃げればいい。きっと逃げられる」


「……」


 狼男は無言で腕を締め上げる力を強める。掠れた悲鳴を狼男は玲を荷物のように抱えた。


  飛ぶように過ぎていく景色と体に伝わる衝撃に耐えながら玲は、今世で玲と名付けられた男は必死に記憶を辿っていた。


 思えばふと奇妙な既視感を覚えたことは何度もあったのだ。それがよりにもよってこのタイミングで思い出すとは。


 いままで生きていたのがエロゲか、それに酷似した世界だったと知った時どうすればいいのか。


 答えはわからない。


 だが何か行動しなければいけないことは確かだ。この世界はただのエロゲではなく、スチル最高、シナリオ最悪な『白濁の女魔法戦士』の世界だ。


 ——冷静に考えてみると名前からしてまともじゃない。まともなエロゲなんてプレーしたいかと言われれば別段そうでもないが。


「止まれ」


 火華の一言で狼男が急停止した独力で慣性を殺しきれなかった玲は汚い路地裏に放り出される。


 ブレザーで泥水を跳ね上げながら転がり、そのまま背中を壁に叩きつけられた。


 記憶を取り戻した衝撃で忘れていた痛みが再燃し玲は苦み走った表情で奥歯を噛み締める。


「口を開けておけ」


 続く火華の言葉に従い、うずくまっていた玲は強引に膝立ちにされ口を開けさせられる。


 自分で開けられると主張しようとしたが、口を開けているせいでまともな言葉にならない。


 拘束されている玲の前で火華は自らの腕を噛んだ。容赦なく腕を肉を小さく噛み切った火華は自らの肉片を玲の方の中に放り込み、口を閉じさせるように合図した。


 口の中で鉄の臭いが広がる。生肉特有の異様に柔らかな歯ごたえに吐き気を催した。


 口を開けて吐き出そうと試みるがガッチリと抑えられ顔を動かすこともできない。


 わずかに流れ込んできた鮮血が度数の強いアルコールのように玲の喉を焼く。熱は喉を下り胃に落ちる。


 胃から全身に伝わるのに大した時間は掛からなかった。


 一瞬動きを止め、無抵抗になった隙に狼男は玲に口の中の肉を強引に飲み込ませた。


 再び玲の全身に熱が伝わる。


「グアォァアアアア!」


 体が焼け落ちたかと錯覚した玲は喉を絞って絶叫した。


 先ほどの熱がじんわりと体を温める焚き火の熱だとしたら今度の熱は服ごと焼き払う火炎放射器の熱だ。


 体に雷に打たれたような衝撃が走り背骨に違和感を覚えた玲は体を丸めて蹲った。


「やはり拒絶反応は限定的だな。因子も入れろ。いい素体だ、身元のわかるものを抑えておけ」


「連れて行かないのですか?」


「いまは荷物を抱えて動く余裕はない。だがすぐにこいつの方から会いに来るだろうさ」


 頭上で交わされる会話も耳に入らず玲の意識はそのままブラックアウトした。

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