※※※※

 とある少女の話をしよう。とても平凡な少女の話を。


 少女が生まれたのは、貧しく、まだまだ若い女の下だった。父親は誰か分からなかったらしいが、今となってはどうでもいい話だ。


 女が少女を産んだのは、お金も考えもなかったからだ。女は中絶という道を知らず、考えもせず、ただの流れで少女を産んだ。


 頭が空っぽな女は、子供を産んでからの方が金がかかるという簡単なことさえ分かっていなかった。


 女は困った。困った末に、ぽんっと考えた。


 お金がかかるこの生物を売って、お金にしてしまえばいいのだと。


 女は仕事仲間から聞いていた。


 錬力学研究所。あそこに珍しい人間を持っていくと、すごく良い値で買ってもらえるらしい。多分実験動物として使ってるんだ、と。


 女はその話を疑うことなく、碌に面倒も見れていない子供を錬力学研究所に持っていった。場所だけは分かったから、真正面から押しかけた。


 そして受付で言ったのだ。


「この子、珍しい子なんで、いいお値段で買ってください」


 本当に裏で珍しい子供も実験用生物も買い付けていた錬力学研究所は、すんなり子供を受け取り、ひとまず検査にかけた。


 その結果、子供も母親も、錬力学研究所に収容された。


 子供はその異常なまでに活性化していた脳から、将来有望な駒になることを見込まれて。母親はそんな子供を産んだ貴重なサンプルとして。


 子供が物心つく頃には、母親はすでに死んでいた。実験データは破棄されていて残されていないが、繰り返された実験に耐えきれずに壊れたのだという噂だけがまことしやかに研究所の中では流れていた。


 子供の元には、母親が研究所にやってきた時に持っていたつげ櫛だけが残された。その櫛に特に感情を抱くこともできず、子供は着実に化け物に成長していった。


 子供が母親の遺品である櫛に何らかの感情をいだくようになったのは、彼女に『友達』ができてから。


 その友達が母親の遺品で、少女の髪をいてくれるようになってからだった。




  ※  ※  ※




「ふっ……ぅ……つぁ……!!」


 頭が砕け散りそうなほどに痛んだ。いや、いっそ砕け散ってくれた方が幸せなのかもしれない。


 必死に目を閉じても視界にチカチカと星がまばたく。大した音など発生していないはずなのに、耳に飛び込む自然音が鼓膜を突き破って脳をグチャグチャに蹂躙していくような気がした。


 体の下にある古びたコンクリートの匂いや、大気に微かにまじった雨のニオイに吐き気が込み上げてくる。体をなぶるそよ風に汗だくな体が引っかかれて全身の痛覚が悲鳴を上げていた。その痛みがまた脳に回り、頭痛がさらに加速する。


 脳のオーバーワーク。


 五感から並の人間よりもはるかに多くの情報を拾える杏奈アンナは、常に脳を大量の情報に侵されている。さらには人よりも回転数が早い思考回路は、その分脳に多大な負荷もかけている。


 杏奈の脳は、そのスペックを支えきれるだけの耐久性を持っていない。拾える情報の全てを受け止めきれるほどのキャパシティを、杏奈の脳は持っていないのだ。


 だから普段の杏奈は、一番情報を拾う視覚をわざと白濁させて軽く度も入れたメガネと長く伸ばした髪で塞いでいる。


 髪は同時に聴覚をふさぐ役割も担っていた。野暮ったささえ感じさせるほどにきっちりと纏う制服は触覚をふさぐためのもの。メガネによってスイッチする天然な性格は、思考処理速度を通常の半分以下まで落としていることで発生する副産物だ。


 そうしていなければ、杏奈の脳はあっという間に情報の海に呑まれてバーストしてしまう。


 その限界の兆候として現れるのが、この常軌を逸した頭痛だった。


 メガネを外してフルマックスモードになってから頭痛でダウンするまでの間を関係者達は『タイムリミット』と呼び、頭痛の予兆を杏奈が察すれば、どんな状況でも杏奈は速やかに現場から下げられる。状況によってはその場で即座に麻酔薬を打たれて意識を失い、完全に脳の疲労が回復するまで数日間眠り続けることになる。


 以前はその『タイムリミット』を伸ばすために無理な実験に付き合わされてよく頭痛にさらされていたが、最近では杏奈がよりになったおかげかここまでの頭痛に遭遇することはなかった。


 あるいは、研究所側がようやく気付いたのかもしれない。


 この頭痛は、杏奈の寿命を……より正確に言うならば杏奈を『電撃の直観ライトニング・インサイト』として運用できる期間を縮めてしまうのだと。


「あっは! 資料で見た時はどんな嘘だよって思ってたんだけど。まーじでこんな風になるんだ?」


 それでも杏奈は、その痛みにあらがって無理やりまぶたをこじ開けた。痛みに痙攣する体を叱咤して顔を上げれば、見覚えのある顔がそこにある。


内村うちむら……潤平ジュンペイ……っ!!」

「よく覚えてるねぇ、そんな状態なのに」


 学生と言われても通用しそうな童顔に内村は薄っすらと笑みを浮かべていた。そんな内村の隣には榊原さかきばらハヤテがいる。颯は壮年の男の左腕を背中で捻り上げ、右手に握った剣を男の喉元に添えていた。激しい頭痛で視界が朧げになっている中でも、拘束されている男が錬力省のトップである柏田かしわだ錬力相だということは分かる。


「も、目的、は……っ!?」


 口を開いても呂律がまともに回っていない。本格的にこれはマズイと、なけなしの理性が呟く。


 それでも杏奈はキッと内村達を睨みつけた。


 ──負けたくない。


 今の自分は『ライトニング・インサイト』だ。錬対から事件解決を命じられた、錬対の切り札、その片翼だ。


 雷斗はあの場で、あれだけ体を張って戦った。ならばその対である自分が、こんなに大切な場面でうずくまるだけでいられようか。


「目的は、何だっ!?」

「陳腐なことを訊くよねぇ。もう分かってるんじゃないの?」


 必死に起き上がろうとする杏奈に内村は冷笑を落とした。纏う雰囲気が初めて会った時と変わっていないことがいっそ恐ろしいくらいに、この男は徹頭徹尾杏奈のことを見下している。


「僕達はこの国を引っくり返したいんだ。僕達、選ばれた民である錬力使い達が、もっと自由に、もっと豊かに暮らせる国にしたいんだよ!」


 そんな内村の言葉を聞きながら、杏奈は震える体を焦れったいくらいゆっくりと起こした。杏奈の本能がその動きに全力で警鐘を鳴らしているが、杏奈はそれを理性で切り離す。


「僕達は凡人にはない才を持って生まれてきた。だというのに現状、この国ではその特権を僕達は生かすことが許されないんだよ。才ある者である僕達は、なぜか国に飼いならされ、才も何もない凡人どもに奴隷のように使われる」


 内村の演説に、颯は顔を輝かせていた。恐らく颯は心の底から内村に心酔しているのだろう。もしかしたら彼の中には犯罪を犯している意識はないのかもしれない。ただただ、信仰している神に酔いしれているだけで。


 ──そういう人間を止めるのが、一番難しいんだがな……!


 杏奈は内村、颯と視線を巡らせ、最後に柏田を見やる。


 柏田は場違いなくらいに落ち着いていた。内村の言葉に眉のひとつも動かさず、喉元に突きつけられた刃にさえ興味がないかのように静かに瞼を閉じている。


 ──もしかして、これも……?


 その様子に、とある推論が杏奈の中で組み上げられる。


 ──だったら私は、余計にこんな場所でくたばるわけにはいかない……!


 杏奈は内村に気付かれないようにキリッと奥歯を噛み締めた。そんな杏奈の変化にも、手元に囲った柏田の異様な落ち着きぶりにも気付いていないのか、内村は熱に浮かされたかのように高らかに言葉を続けた。


「そんなの、間違ってるだろ。才ある僕達こそが、非凡なやつらを支配してあげる。その形態の下でこそ、真実の幸せは実現するというもの」


 上半身を起こした杏奈は、次いで足に力を込める。ゆっくりと、ゆっくりと体が持ち上げられると、逆に頭からは血の気が抜けていくのか、頭痛に加えて視界がクラクラと揺れ始めた。


「なぁ、『ライトニング・インサイト』。君はある意味、僕達以上に才に恵まれた人間だ。僕達以上に選ばれた人間だと言える」


 そんな杏奈に向かって、内村は優雅に片手を差し出す。


「才ある者として、僕が言っていることが君には分かるだろう?」


 今すぐ気絶してしまえたら、どれだけ幸せだろう。


 そう頭の片隅で考えながらも、杏奈は一歩、二歩とよろめきながら己の足で立ち上がった。頭が痛すぎて、全身がガクガク震えていて、もう何が何だか分からない。さっき組み上げた推論さえ、バラバラに砕けて痛みの海に消えてしまいそうだ。


「ともにこの国を改革しよう。お前には僕の手を取る資格がある」


 だがどれだけコンディションが悪かろうが、その手が不愉快極まりないものだということだけは、ハッキリと分かる。


「ハッ!」


 だから、杏奈はわらってやった。


 その声がさらに己の脳を痛めつけると分かっていても、嗤い飛ばさずにはいられなかった。


「世間の仕組みも分かってないような甘ちゃんが、中二病じみた妄想語ってんじゃねぇよっ!!」


 さらに震える体に鞭を打ち、差し出された手を全力で叩き落とす。不意打ちだったおかげなのか、あるいは日々目撃している雷斗ライトの手刀を参考にしたおかげか、内村の手は呆気ないほど簡単に杏奈の前から遠ざけられる。


「錬力使いは、確かに単独で強い。だがたった独りで何ができる? ただ力を振るう以外に何ができる?」


 杏奈の今までの人生は、ずっとこの『雷撃の直観』に振り回されてきた。この能力さえなければ自分がこんな人生を歩むことはなく、ただ世界を感じて思考を回しただけで命の心配をしなければならないような状況にだって陥ることはなかった。


 この力を使えば、自分を狭い檻に押し込める何もかもを壊せるんじゃないかと考えたことが、今まで一度もなかったと言えば、それは嘘になる。


 支配を受ける不自由も、理不尽も、怒りも、杏奈は嫌になるほど知っている。だから内村達が根本に抱えている気持ちだって、杏奈には分かるのだ。共感できて、しまうのだ。


 そう、本当に最初から、杏奈には全てが見えていた。深見台ふかみだい美術館で捜査資料を読み込んだ、あの時から。


『イトくんは、私がいたから五華いつはな学園に入学。私がいなければ、もっと他に選択肢があったんじゃないの?』


 うっかりそんな問いを雷斗にこぼしてしまったのは、杏奈自身が彼らの心情に触れて、一瞬揺らいでしまったからだ。


 決して彼らを許してはならないと理解していながらも、その動機の根本には杏奈にも共感できる部分が多々あったから。己が負わされた不自由のせいで、大切な人にまで不自由を強いるような事態になっているのだと、知っていたから。


 それでも杏奈は、ここまで捜査を進めてきた。


 その理由には、雷斗がくれた言葉が多分にあったけれども。


 それ以前から杏奈には、分かっていることがあったから。


「この世界を作り上げているのは、お前がさげすむ凡人だ。凡人達が協力しあって、努力して作り上げた世界に、私達は乗せてもらっている。ただそれだけだ」


 杏奈には、常人よりもずっと広くて、ずっと深い世界が見えている。


 だから、ただ、純然たる事実として


 どんな能力を持っていようとも、あるいはどんな能力を持っていなかろうとも、この世界で生きている人間は皆、所詮はただの『人間』だ。+αにどんなモノが載ってくるかだけで、基本的な部分は皆、変わらない。


 食べて、寝て、笑いあって、怒って、泣いて。


 そんな根本的な部分は誰も何も変わらなくて、世界はそんな変わらない部分が重なり合ってできている。


 そんな、誰もが肌で感じて、当たり前の体感として知っていることを杏奈に教えてくれたのは、他ならぬ雷斗ライトだった。


 杏奈を『幼馴染』と呼んでくれる、たった一人の少年だった。


「それを愛おしく思い、守ろうとした。それが今の錬力学社会の成り立ちなんだよ、甘ちゃん」


 杏奈は内村を鋭く見据えたまま、鋭くわらってやった。


 世界の全てをその頭脳で解体する『雷撃のライトニング・直観インサイト』として。たった一人の大切な幼馴染に支えられたただの一人の人間として。


 絶対の確信とともに杏奈は内村へ否を叩き付ける。


「……っ、お前とは、分かりあえると思ったんだが」


 そんな杏奈に対して、内村はジワリ全身に狂気をにじませた。


「僕の思い違いだったようだな……っ!!」

「っ……!!」


 その狂気にあてられたかのように、突き抜けるような一際強い痛みが頭に走る。その痛みに今までだまし騙し支えていた膝からついにカクリと力が抜けた。


「我らの壁となるなら砕かれて消えろっ!!」


 内村が制服の内側から拳銃を抜く。錬力使いにとってはチャチな玩具オモチャでも、杏奈にとっては立派な凶器だ。


 杏奈の言葉から説得は無駄だと覚ったのか、あるいは頭に血が上っているのか、内村は脅しではなく本気で杏奈を殺そうとしている。立っていることさえできなくなった今の杏奈など、内村にとっては射撃練習用の的より簡単に仕留められる存在なのだろう。


黒浜くろはま


 そう思った瞬間、だった。


 初めて聞く声が、知っている名前を呼ぶ。


「もういいか?」

「へぇ〜い! わだちんのご協力に感謝!」


 次いで響いた声に、杏奈は己の推論が正しかったことを知る。


 ──を作り出すことには、成功した。後は、向こうに任せれば……


 そう考えた瞬間、杏奈に拳銃を突きつけていた内村の腕が肩から外れて宙を舞った。一瞬だけ視界をぎった赤い閃光に、再び頭をかち割られるような痛みが杏奈を貫く。


「アンナッ!!」


 だがくずおれた体がコンクリートに叩き付けられることはなかった。


 歳のわりにがっしりとした腕。いつだって杏奈を安心させてくれる熱が全身を包み込み、大きな手が杏奈の目と耳を塞ぐように回される。


 空を裂くような絶叫も、彼の声ならばいつだって、杏奈には絶対の安全材料として心地よく耳に響く。


「イト」


 その熱を感じた瞬間、フッと痛みが軽くなったような気がした。ほぅっと、安堵の息が抜けていく。


 彼の存在はいつだって、杏奈を守り、安心させるばかりで、杏奈を傷付けることは決してない。


「来てくれるって、信じてた」


 そう呟いた自分の唇が、痛みになぶられている中でも柔らかく笑み崩れているのが、杏奈には分かった。

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