※※

「まったく、僕だって暇じゃないっていうのに何でこんなこと……」


 静まり返った廊下に、カツカツカツという気忙しい足音と大した内容がないグチだけが響いていた。


「この後の尋問役をおおせつかっているのに、なんっで僕がお前達なんかを迎えに行かなきゃならないんだ……!」

「だったら、素直にそうやって白浜しらはまのおいちゃんに言っちゃえば良かったのにぃ〜!」


 錬力犯罪対策室は警察の一組織だ。そこから考えると本来ならば錬対の捜査室は警視庁にあるのが本義なのだろうが、様々な事情から錬対は錬力学研究所の隣の棟に本拠地を置いている。


 警視庁にも捜査室はあるらしいが、向こうは出張所という感覚で運用されているらしく、一般警察からお呼びがあった時や合同捜査になった場合にこちらと中継ぎをするために置かれているのだという。普段白浜や黒浜くろはまが仕事をしているのも、研究所の隣の棟、通称『別棟』の捜査室だ。


 内村うちむらの案内に従い、雷斗と杏奈は別棟の地下廊下を歩いていた。


 ──別棟の地下にこんな場所があるなんて知らなかったな。結構深いよな、ここ。


 この階までは専用エレベーターで降りてきたのだが、階数表示は『B5』とされていた。研究所も別棟もその大部分を顔パスで行き来できる雷斗だが、さすがにこんな場所まで来たことはない。


「白浜先輩に命じられたんだ! 拒否できるわけないだろう!」


 雷斗が興味深く周囲を観察している先で、杏奈が無邪気に内村に絡んでいた。いや、あれは無邪気を装っているだけで内心は邪気ありまくりだと雷斗には分かっているのだが。


 ──でも、ただ『嫌いだから絡んでイビってる』って感じでもないんだよなぁ……


 天然ドジっ娘モード特有のどんくさい歩き方をしている杏奈が何もない所ですっ転ばないように気を配りながら、さり気なく雷斗は杏奈を観察する。


 内村と顔を合わせてから、杏奈はキッチリと天然の皮を被り直していた。ボサボサの黒髪と分厚すぎるメガネ、野暮ったく着込んだ制服姿からは、とてもじゃないが杏奈が『雷撃のライトニング直観・インサイト』などという御大層な名前で呼ばれる実力者であるようには見えない。雷斗でさえそう感じるのだから、昨日初めて杏奈と顔を合わせた内村には余計にそうだろう。


「え〜? おいちゃんが怖いからぁ〜?」

「違う!! 僕が白浜先輩を尊敬しているからだっ!!」


 その証拠に、内村は明らかに昨日よりも口が軽かった。杏奈を見下す態度も、昨日に輪をかけて隠そうとしていない。


「白浜先輩は凄いんだぞ! お前らみたいなガキは本来口をきけないような地位にいらっしゃる方なんだからな!」


 今までこちらを見ようともしなかった内村が、その言葉を発した瞬間だけ杏奈を振り返る。チラリと見えたその横顔はどこか誇らしげだった。どうやら内村は心底本気で白浜を尊敬しているらしい。


「32歳にして警視正、錬力使いとしても一級プルミエの位階持ち。頭脳明晰にして文武両道、現場での指示も冴えればデスクでの解析力もすごい! おまけに刀を抜けばどんな犯罪者だって敵じゃないんだ!! さらに人望もある!! こんなにできた人は中々いないっ!!」


 ──えええ……何かコイツ、メッチャ熱く語るんだけども……


 わざわざその場に足を止めてこちらを振り返り、グッと拳を握って熱演する内村からは『尊敬している先輩について語る』という以上の熱を感じた。暑苦しいというよりも、むしろ行き過ぎていて怖い。


 こういうのを『信者』と呼ぶのだろうか。確かに前に黒浜から聞いた話によると『白浜は男女問わず人にモテる』ということではあったが。


 ──確かにおっちゃんの凄さは分かってるけど、そこまで語るほどかぁ……?


「でもさぁ、おいちゃんが早い段階で警視正になれたのも、一級プルミエの位階が取れたのも、黒浜のおいちゃんのおかげって話じゃなかったっけぇ?」


 若干引き気味の雷斗に対し、杏奈はあくまでド天然なマイペースさを崩さかなった。顎下に伸ばした右の人差し指を当ててどこともつかない宙に視線を投じた杏奈は、一切空気を読まない無邪気な声音で続ける。


「特殊錬力を使える黒浜のおいちゃんにさっさと色んな事件を押し付けたくて、そのために錬対の上層部は黒浜のおいちゃんの位階を上げたがってた。で、そうなると相方にして護衛官である白浜のおいちゃんと釣り合いが取れないから、自動的に白浜のおいちゃんの位階も上がったって噂……」

「そんなはずない」


 そんな杏奈の声を断ち切る言葉は、殺意とともに放たれた。


「そんなふざけた話が事実であってたまるものか」

「っ!!」


 ドスの効いた声が響くと同時に充満した殺気に雷斗は思わず身構える。反射的に前へ出る足を止められたのは、一瞬早く杏奈が体に隠すようにして雷斗に『動くな』と合図を出したからだった。


 ──いやでも何だよ、このエゲツねぇ殺気……!


 重力が変わったかのようなプレッシャーが全身にのし掛かる。とてもじゃないが五華いつはな学園の応接室でチワワよろしくキャンキャン騒いでいた人物が発する圧ではない。


 ──あの時は実力を隠していた? いや、今のアンナの発言があの時以上にこいつの逆鱗をえぐったのか……!?


「えぇ〜? でも、ある程度は事実じゃなぁい?」


 だがその殺意を前にしても杏奈は無邪気なままだった。


 まるで本当に何も分かっていないかのように、コテリと今度は反対側に首を傾げて杏奈は歌うように言葉を続ける。


「私、坊っちゃんよりおいちゃん達と付き合い長いけど、錬対の中で重宝されてるのって、やっぱ黒浜のおいちゃんって感じだったしさぁ? あくまで白浜のおいちゃんはって感じでさぁ?」


 今の杏奈は雷斗に背中を向けているから、雷斗からは杏奈の顔が見えない。たとえ見えていたとしても、その表情は長い前髪と分厚いメガネに隠されて一切見えなかったことだろう。


 だが語調と雰囲気で、雷斗には今、杏奈が無邪気を装った下で悪魔のようにわらっているのが分かる。


「だから、本当にすごいのは、白浜のおいちゃんじゃなくて」

「っ……そんなことをバカなヤツラが言い出すからっ!!」


 声が音になる一瞬前、雷斗は考えるよりも早く内村と杏奈の間に割って入っていた。


 その瞬間、全てを断ち割るかのように金切り声が響く。充満していた殺気が炸裂し、その全てが雷斗に……雷斗の背中に庇われた杏奈に向かって叩き付けられた。


「だから白浜先輩の相方に黒浜廉史レンジはふさわしくないんだっ!!」

「っ……!!」


 肌を裂かれるような殺気に全身がビリビリと震える。同年代よりガタイが良くて鍛えている雷斗でこうなのだ。これが杏奈に直撃していたら、それだけで杏奈はこの場にくずおれることになっただろう。


 ──何で、こんなに、こいつは……


 ギッと殺意がこめられた視線を杏奈に代わって受け止めながら、雷斗は違和感に顔をしかめた。


 ──白浜のおっちゃんに、固執してるんだ?


 思えば内村が殺気を醸し始めたのだって唐突だった。杏奈が白浜を軽んじる言葉を口にして即刻、というリズム感だったと雷斗は思う。


 いくら尊敬している相手とはいえ、白浜と内村はバディを組んで日が浅い。錬対における白浜と内村の関係性を雷斗は知らないが、近しい間柄であったならば今までどこかで顔を合わせているはずだ。


 つまり内村は白浜とそこまで近しい間柄にある人間ではない。だというのにこのリズム感でここまでの殺意を叩き付けてくるほど内村が激怒することに雷斗は違和感を抱いている。


 ──それに、クロさんがおっちゃんの相方にふさわしくないって断言してくるなんて、どう考えてもおかしいっつーか……言える立場じゃねぇだろ。


「……やぁだねぇ」


 言いしれない違和感に雷斗は体を固くする。


 だがその後ろからヒョコリと顔をのぞかせて内村を見遣った杏奈は、相変わらずニヤニヤと嗤っているようだった。


「それって、嫉妬?」


 杏奈の言葉に内村の殺意がより一層深くなる。その圧に思わず雷斗は杏奈を再び背に隠そうと動いたが、杏奈はなぜか雷斗の背に庇われることを良しとはしなかった。


 杏奈を後ろに押し込めようとする雷斗の腕をスルリとかわした杏奈は、クスクスと声を上げて無邪気に笑う。


「仕事に絡んだ大人の嫉妬って醜ぅい」

「……これはそんなんじゃない」


 そんな杏奈の声を否定する内村の声は、地の底から響いているかのように低かった。あまり杏奈には聞かせたくない、ドロドロとした感情が詰まった声だ。


「僕の方が、白浜先輩の相方にはふさわしいという事実が言いたいだけだ」

「それだけの実績が、坊っちゃんにはあると?」


 だが杏奈がその声に怯むことはなかった。むしろどこか楽しんでいるかのように、杏奈は内村の言葉を切り返す。


 対する内村は、怒りの中に傲慢さをにじませ、顎を軽く上げて杏奈を見下ろした。


「僕は錬力使いの名門、清白すずしろ一族の血を引く人間だ。学校の成績だって常に首席で、錬力犯罪対策室にだってエース抜擢されてるんだぞ。そんな僕が、白浜先輩の相方にふさわしくないはずがない」

「で? 錬対における実際の戦果は?」

「当然上がっているに決まっているだろうが」

「具体的に言えないのぉ? 黒浜のおいちゃんはいくつも武勇伝を聞かせてくれたのになぁ〜」

「口が軽い黒浜廉史と違って、僕は部外者に機密情報をペラペラ喋るつもりはない」


 叩き切るように言葉を投げつけた内村は、キッパリ言い切るとクルリと背中を向けた。カツカツカツという気忙しい足音が再び地下廊下に響き渡る。


「無駄な会話に時間を取られすぎた。さっさと行くぞ」

「はぁ〜い!」


 険を隠そうともしない内村の声に杏奈は素直に返事をした。『こちらを置いていくつもりなのか』とツッコみたく勢いで内村は廊下を進んでいるのに、杏奈はそれに文句を言うこともなく、さらに絡みにいくこともなく、ルンルンと機嫌が良さそうに内村の後を進んでいく。


 ──わざと仕掛けたよな、今の。


 その『ご機嫌』の理由に、雷斗は何となく推測がついていた。先程の白浜を軽んじる言葉が本心からのものではないことも、当然理解している。


 ──ってことは、この坊っちゃん、もしかしなくても……


 雷斗は一度内村に向けた視線を杏奈に引き戻す。


 そんな雷斗に気付いた杏奈は、口元にだけ小さく笑みを刷くとヒラリと左手を振ってみせた。一瞬だけ袖の中から覗いた指には、杏奈が事件現場で装着する指輪マイクがはめられている。


 その意味を理解した雷斗は、杏奈にだけ分かるように浅く顎を引いた。目ざとくその仕草を見留た杏奈は、一瞬だけ笑みを深くすると再び天然の皮を被り直す。


「白浜先輩はこの部屋にいる」


 内村の案内が終了したのは、さらに数分廊下を進んだ後だった。殺風景な景色の中にある他と変わり映えしないドアを指さした内村は、無愛想に言い放つとさらに廊下を奥へ進んでいく。


「敬愛する白浜のおいちゃんへの報告はぁ〜?」


 杏奈が無邪気に絡むが、内村がその声に応えることはもうなかった。『もはや任務は完遂した。もう関わりたくない。1秒でも早くコイツから離れたい』と背中だけで語りながら、内村はさらにスピードを上げてツカツカツカと廊下の先へ進んでいく。


「アンナ」


 そんな内村の背中を見送っている杏奈へ、雷斗は目の前にあるドアの取っ手を掴みながら声をかけた。


 その中に含まれている感情を的確に読み取った杏奈は、前髪をかき上げながら雷斗が開いたドアの隙間へスルリと身を滑り込ませる。


「よぉ、手間ぁかけたなぁ」


 部屋の中は、薄闇に沈んでいた。何かの制御室なのか、ドアがある壁以外の三方が機材で埋められている。照明はついておらず、突き当りの操作盤の上の壁に取られた窓から入り込んだ光だけが光源だった。その光も自然光ではなく、眩しすぎるほどに白い照明の光だ。


 窓は向こう側の空間の横手に設けられているのか、天井も床も雷斗がいる位置からは伺うことができない。ただ反対側にある白い壁が見えているだけだ。


「あんな感じで良かった?」


 白浜は奥の操作盤の前に置かれたパイプ椅子に腰掛けていた。ヒラリと手を振りながら杏奈を振り返った白浜の左耳には、現場で使われるインカムがはめられている。そのインカムが通話状態にされていることは、白浜の耳周りにぼんやりと赤い光が纏わりついていることで分かった。


「おー、助かった」

「やっぱりあれ、アンナを使った誘導尋問だったのかよ」


 雷斗がドアを閉めた瞬間、杏奈を取り巻いていたポワポワした空気は綺麗に霧散していた。メガネを片手でむしり取り、反対の手で髪を後ろへ流した杏奈はツカツカと白浜に歩み寄る。


 その後ろを追いながら、雷斗は白浜に向かって問いを投げた。


「てことは、あいつは?」


 杏奈の指輪から拾った会話音声は、白浜の元に届けられていた。恐らく白浜がわざわざ内村を案内役として派遣したのは、自分がいない場所で内村が杏奈に対してどう振る舞うかを確認したかったからだろう。初手であからさまに杏奈を見下していた内村ならば、杏奈と差し向かいにされればボロを出すと考えたのかもしれない。


「そう。の第一候補だったわけ」

「内通者ってことか」


 確かに、黒浜が重傷を負わされた一件も、先日の深見台美術館の一件も、こちらの情報が相手に漏れすぎていた。錬対の中に内通者でもいなければ、あんなピンポイントな対処はできない。


 白浜も杏奈も、そのことについてはあらかじめ予測ができていたのだろう。白浜は己が置かれた状況から、杏奈は渡された捜査資料から、その候補者として内村に目を付けていたらしい。


「黒浜暴行の状況について証言したのがあいつだったらしいな。同じ現場にいて一番軽傷だったのもあいつだったと」


 白浜の隣に並んで立った杏奈は、窓の向こうへ視線を投げるとキュッと顔をしかめた。五感が鋭い杏奈の視覚には、この明暗差がきついのかもしれない。


「あいつは俺の前ではキレーに猫被ってやがるからな。錬対の人間相手にも、優秀な後輩としてのツラを崩さねぇ。心の内を引き出すためには、普段錬対にいない人間の協力が必要だったっつーわけだ」

「にしても、ちょっとバカじゃね?」


 杏奈の後ろを追うように部屋の中を進んだ雷斗は、杏奈の隣に並びながら白浜へ視線を投げた。


「アンナの立ち位置も、その実力も、あいつは昨日知ったわけだろ? その上であんなこと言ってくるなんてバカの極みだろ。頭いいヤツなら、アンナの立場が錬対長官と張るもんだって分かりそうなもんなのに」

「そもそも、そこが分かる人間なら、クロを潰して俺の相方の座をもぎ取ろうなんてこたぁ考えねぇよ」


 そう答えた瞬間だけ、白浜の顔から表情が消えた。


 冷え冷えとした空気の中にあるのは、先程内村が向けてきた圧なんて心地良いそよ風に思えるほどに暗く研ぎ澄まされた殺意だ。


 ──そりゃそうだ。


 白浜の逆鱗に触れたがる人間なんてどこにもいない。


 だというのに、白浜に固執しているらしい内村は、白浜に近付くために初手で白浜の逆鱗を引きちぎるような真似をしている。


 ──好きな人のことって、無意識のうちによく観察してるはずなのにな。


 憧れや執着は観察眼を曇らせるということなのだろうか。ならば捜査官にとってそれらの感情は邪魔な代物としか言えないのかもしれない。


「なぜそんな人間を、わざわざ尋問官に?」


 そんなことを考える雷斗の隣で杏奈が淡々と声を上げた。そんな杏奈の視線は窓の向こう側に固定されている。伏し目がちな瞳は隣室の下方を注視しているようだった。


「あいつが黒ならば、雨宮あまみや詩都璃しづりとは共犯関係だ。おまけに清白の血縁ならば、雨宮とは縁者になる。そういう人間は真っ先に尋問官からは外されるはずだが」


 杏奈の視線の先を追った雷斗は、窓の向こうにある部屋がただの部屋ではなかったことにようやく気付く。


「何か思惑が?」


 隣の部屋は、だだっ広い貯水槽のような造りをしていた。縦に長い空間の下……ちょうどこの部屋の2階層下にあたる位置にある水面の中央には、四角い浮島が浮かべられている。


 その中央に、雨宮詩都璃はいた。ポツンと置かれた椅子に座る詩都璃は特に拘束されているようには見えない。深く椅子に腰掛けてうだれた姿からは、意識があるのかどうかさえ定かではなかった。表情をうかがうには詩都璃との距離が遠すぎる。


 ──物質透過の錬力に対する特殊牢ってやつか。


「クロの一件で、この尋問の適役があいつしかいなくなったってのもあるんだが」


 白浜が短く答えた瞬間、窓のちょうど対面に当たる部分がパカリと開いた。恐らく作業用のドアがあったのだろう。ドアの向こうから現れたのは、フワフワと明るい茶色の髪を揺らした錬対捜査官……内村だ。


 内村は一度確かめるように水面へ視線を投げると、こちらに向かって大きく手を振った。それに白浜が同じように手を振り返すと、内村は背後に用意していたハシゴを水面に向かって降ろす。


「ちぃと、どう動くのか、様子が見たくてな」

「……せっかくイトが捕まえた上に、私が拘留に知恵を貸したのに」

「ワリぃな、先に謝っとく」


 ──ん?


 思ったよりも身軽な動きでハシゴを降りていく内村を眺めながら、杏奈と白浜の間で言葉が飛び交う。


 必要最低限な応酬から雷斗が二人の思惑を全て汲み取ることは、もちろんできないわけなのだが。


 ──何か、この後、雨宮詩都璃が脱走することが前提になってね?


「イト。この中にいれば、理論上、雨宮詩都璃は脱走できないはずなんだ」


 雷斗が首を傾げたことに気付いていたのだろう。杏奈は窓の向こうに意識を据えたまま雷斗に向かって言葉を投げた。


「雨宮詩都璃の錬力は、あくまで『透過』のみ。己を透過させて障害物をすり抜けることはできても、その障害物そのものの性質を変性させることはできない。まぁ、仲間を現場に引き入れたり、展示ケースの中から標的物を取り出せたりしていた辺りから察すると、正確には己と、己の手が触れたある程度の大きさの物体までならば透過させることができるのかもしれないが」


 詩都璃の錬力を用いれば壁をすり抜けて部屋から抜け出すことも、床をすり抜けて階下へ逃げ出すこともできる。だが詩都璃は水上や空中を歩行できるわけでもなければ、水中や土中で呼吸ができるわけでもない。


 詩都璃の『すり抜け』は使用の前提として『人間が歩行できる足場があること』と『すり抜けた先に人間が生存していられる環境があること』の二点が満たされていなければならない、というのが杏奈の推察だった。


「現在雨宮詩都璃が置かれた部屋は、下層50メートルに渡って水が入れられている。フロートから壁まではおおよそ25メートル。排水設備等は底の部分に設置されていて、壁面の向こう側はいずれも土だ。本来の用途は貯水槽だな」

「下へも横へもすり抜け先がない上に、人が歩ける地面もない」

「たとえ壁際まで泳いだとしても、出入り口は今内村が使っているあの一箇所だけで、ハシゴは取り外されて外に保管されている。雨宮詩都璃に逃げ場はない」

「……内通者がいない限り?」

「そういうことだ」


 つまり杏奈と白浜は、共犯関係にあると予想される詩都璃と内村をあえて接触させることで双方の動きを探りたい、ということだろうか。


「でも、そんな分かりやすすぎるマネするか?」


 杏奈がそう言うならば雷斗ごときが疑問を呈しても無駄なのだろうが、それでも言わずにはいられなかった。……というよりも雷斗は、『俺ごときに分かることにアンナが気付かないはずがない』と思ったことほど積極的に口に出すことにしている。


「この尋問の後に雨宮詩都璃がこの場から逃亡したら、真っ先に疑われるのが接触してた尋問官じゃね? そんなことも分かんねぇバカなのか?」

「バカかどうかは分からないが、動きはあると私は踏んだ。白浜もどうやら同じ意見らしい」


 杏奈の視線は相変わらず窓の向こうに据えられていて動かない。そんな杏奈が見つめる先で、ハシゴを降りきった内村が水面の上に起立していた。


 どうやら内村の錬力は水属性であったらしい。足元から波紋を作り出しながら、内村は地面を歩く時と変わらない足さばきで詩都璃が置かれたフロートに向かって進んでいく。


 ──なるほど? あの障害を越えられる錬力使いが、今の錬対にはあいつしか残ってねぇってことね。


「……どうにも、全体的に動きが杜撰ずさんでな」


 変わることなく観察を続ける杏奈の代わりに白浜へ視線を投げれば、敏感にそれを察した白浜が低く呟いた。白浜も白浜で視線は部屋の向こうに据えられたまま動かない。


「バレてもいい、というよかは……最初から短期決戦って印象だな。取り押さえられる前に目的を達するつもりって感じ、か? あるいは」

「あえて自分達の素性をにおわせている。イタズラが親にバレれば怒られると分かっていながら、自分が何をしたのか親の前でにおわせる子供に似た行動だ」

「錬対の捜査官と、五華いつはな学園の生徒がつるんで錬力犯罪やっといて、あからさまなにおわせって……」


 それこそ、幼稚園児でも『やったら絶対ダメなこと』と分かりそうなものだというのに。


「そう。だからこそ、動きが見たかったんだろう? 白浜。やつらの動機を知るために」

「おーよ。バカなやつらの次の動きを押さえるためにな」


 顔を引きらせる雷斗へ、一瞬だけ杏奈の視線が向いた。その瞳は相変わらずヒヤリと冷えている。


 その瞳に常とは違う感情が載っていたことに気付いた雷斗は、思わず杏奈をまじまじと見つめた。


 ──怒ってる?


 杏奈と視線が合ったのは本当に一瞬だけだったが、雷斗が杏奈の感情を読み間違えるはずがない。


 杏奈は今、錬力犯罪に対するものでも、バカをやる捜査官や生徒に向けるものとも違う怒りを、この事件に向けている。


 ──もしかしてアンナ、犯人側の動機についても、もう推論立ってるんじゃ……


 だが杏奈がそれをあえて口にしないということは、恐らく何か理由があるのだろう。杏奈は錬力犯罪の解決を強いられている立場で、自ら積極的に捜査に協力しているわけではないが、私情や気分で責務を放り出すような人間ではないのだから。


『白浜先輩、被疑者・雨宮詩都璃と接触しました』


 不意に部屋のスピーカーから内村の声が響いた。


 窓の向こうへ視線を向け直せば、内村は浮島に上陸し、椅子に腰掛けた詩都璃の前に仁王立ちになっている。


 いつの間にか顔を上げていた詩都璃は、この距離からでも分かるくらい内村に怯えていた。すがる物を求めるかのように、詩都璃の両手が胸元を握りしめている。


 ──さて。その怯えは錬対捜査官に対するものなのか、それとも……


『ただ今より、尋問を開始します』


 その声に操作盤に設置されたマイクの電源を入れた白浜は、内村への疑念を感じさせないいつも通りの声で一言命じた。


「始めろ」


 雷斗の視線の先で内村が頷く。どうやらこちらの声は操作盤のマイクから内村のインカムへ、向こうの声はこの部屋のスピーカーへ入るように設定されているらしい。


 ──いっちょ拝見させてもらいますかね。


 杏奈が見つめる先を同じように見つめながら、雷斗は胸の内だけで呟く。


 同じ光景からどれだけの情報を得ているのか、杏奈はただひたすら静かに窓の向こうへ視線を向けていた。

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