繰り返すが、杏奈アンナが国を揺るがすような特殊な才能を持ち合わせていようとも、雷斗ライトがその幼馴染で相方で御目付役を担っていようとも、二人の身分は学生だ。


 世間で凶悪犯罪が引き起こされていようとも、錬対が不穏に揺らめいていようとも、学校行事というものは容赦なく二人を巻き込んでいく。


「……終わった」


 というわけで、己が所属するクラスの自分の席にくずおれるようにして座った雷斗は、全体重を椅子に預けたまま天を仰いでいた。


 ちなみに雷斗の机の周りに集まった級友達も、机に肘をついてうなれていたり、机に突っ伏したり、雷斗と似たような雰囲気を醸し出している。『死屍累々』やら『地獄絵図』やらという四字熟語が頭の中を巡るのは、頭の中が定期考査モードになっているせいなのだろうか。


「だぁぁぁぁっ!! だぁれだよあんなクソ難しいテスト作りやがった先公はよぉぉぉっ!!」


 そんなことを思う雷斗の傍らで、しかばねと化していた一人が唐突に叫んだ。


「あんなん分っかるはずがねぇだろっ!? どこの誰だよあんな性格が悪い問題作りやがったのっ!!」

「工藤先生って噂じゃなかったか?」

「はぁぁっ!? 普段あんっなに優しい工藤センセがあんなエゲツない問題をっ!? 何の公式使やぁ解けるのかさえ分かんなかったんだけどっ!!」

「よく言うよなー、普段優しい人ほど裏ではストレス抱えてるって」

「そのストレスを期末試験の問題で発散するか!? 普通!!」

「てかよ、その一番エゲツなく難しい数Aの試験を最後の最後に持ってくる先生達のセンスよ」

「それなぁー」

「でもこれで、試験も最後なんだよなぁ」

「それなぁ……それなぁーっ!!」


 だがその死屍累々達の呻き声は雷斗がこぼした言葉を受けてワッと華やいだ歓声に変わった。ガバッと体を跳ね上げたクラスメイト達は『ヒャッホーッ!!』と全身で喜びを表現している。


「終わったぁぁぁぁっ!!」

「前期期末試験っ!!」

「初めての期末試験っ!! 乗り切ったぁぁぁぁっ!!」

「今日は遊ぶぜぇぇぇっ!!」

「フゥーッ!!」


 男女関係なく快哉かいさいを叫ぶクラスメイト達の声を聞きながら、雷斗も思いっきり伸びをした。ギュインッと伸びる背筋が心地良い。


 ──今回もアンナのおかげで何とか乗り切れたって感じだなぁ……


『特待生』という枠でこの学校に通っている雷斗だが、それは『冴仲さえなか杏奈の監督員』という裏事情があるからであって、雷斗の成績が特別ずば抜けて良いというわけではない。体を動かすことは全般的に得意だが、座学はあくまで人並だ。そんな雷斗が上の下くらいの成績をキープしていられるのは、ひとえに杏奈の指導の賜物なのだろう。


 ──アンナは『実地パフォームだ仕事だって引っ張られすぎて、勉強時間が奪われがちだから埋め合わせに』って言って面倒見てくれてるわけだけど……。多分、アンナ抜きで真面目に勉強してても、もっと成績悪いと思うわけよね、俺の頭じゃ。


 そんなことを考えながら、雷斗は『先生』に向かって視線を投げる。


「アンナちゃんはどうだった〜?」

「……エヘッ」

「ちょっとアンナ、まさか試験中に寝てたとか言わないでしょうね?」

「起きてはいたよぉ」

「ちゃんと名前書いた? 分かる所、あった?」


 教室の一番前、教卓が置かれたすぐ側の席に座った杏奈は、数人の女子生徒に囲まれていた。


 その光景に雷斗は我知らず表情を緩める。


 ──ほんと、馴染めて良かったな、アンナ。


『史上最強の劣等生』などと呼ばれている杏奈だが、幸いなことにイジメの標的にはされていない。


 五華いつはな学園は、将来的に錬力犯罪対策室や錬力学研究所のエースとなる人材を育成するための国立校だ。入学してくる人間は当然のごとく優秀で、プライドも一際高い。


 そんな人間の中に一人『明らかな落ちこぼれ』が放り込まれたら、イジメの標的にされたり、冷遇されたりしそうなものだが、杏奈はこの半年、雷斗が予想していた以上にうまくやっている。他クラスや他学年の人間にどう思われているかまでは分からないが、クラスの中ではマスコットキャラ的なポジションで受け入れられているらしい。


 ──まぁ、アンナの場合、ここにいる最大の目的は『一般人の中にうまく溶け込むための訓練』みたいなもんだしな。


 杏奈は五華いつはな学園に入学させられる際、国から『決して能力の片鱗を見せるな』と言い含められているらしい。万が一杏奈の本質が周囲に知られてしまった場合は、杏奈本人も知ってしまった人間もただでは済まないという話だ。だから杏奈は座学、実技ともに『ギリギリ進級できるレベルの落ちこぼれ』を演じることに苦心している。


 もっとも、実技に関しては『錬力の素質ゼロ』ということは周知されているから、『特別補講』という名の『仕事』で体よく補填されているわけなのだが。


 ──『実力を見せるな』って言う割に入学当初から実地パフォームには強制参加だったし、何やかんや錬対案件には巻き込むし、国も随分勝手じゃね?


「なぁライトー! たまには俺らと遊びに行かねぇ? 今日くらいパァッとさ!!」

「ぬぉっ!?」


 いつも胸中にくすぶっている不満を、今日もブツブツ呟いていた瞬間、だった。


 いきなり横から肩を抱き寄せられた雷斗は体勢を崩しながら驚きに声を上げる。顔を上げると抱きついていたのは、さっきまで力なく雷斗の机に突っ伏していた水上みなかみススムだった。


「お前、いっつも何だかんだ冴仲と一緒じゃんよぉ。たまには俺らも構えよなぁー!」

「キッモ!」

「えぇぇ、ひっど!!」


 さらに頬ずりまでしてこようとした享を雷斗はベリッと引き剥がす。細身の優男である享はあっけなく雷斗から引き離された。


 そんな二人を眺めていたもう一人の死屍累々……風間かざま恭司キョウジも口を開く。


「確かに今のススムはキモいけども」

「キョウまでひっど!!」

「たまには俺らとも遊ぼーやってとこには俺も賛成」


 二人の言葉に雷斗は目をしばたたかせた。そんな雷斗に二人はキシシッと笑いかけてくる。


 ──そういや最近、アンナ以外の誰かとつるむことってなかったな。


 最近、というよりも、随分前から。正確に言えば中学時代から。


 杏奈が学校に通い始めたのが、中学からだったので。


 ──そうだよなぁ……。クラスにいる間は俺もアンナもそれぞれの友好関係の中にいるけど、教室の外に出るってなると話が変わってくるし。


 今の杏奈は、研究所外で一定範囲までならば自由に行動することが許されている。しかしそれは条件付きで、その条件のひとつが『監視員兼護衛として常に稲妻いなづま雷斗と行動をともにすること』だ。


 だから必然的に雷斗と杏奈は一緒に行動している、というのが常に二人で行動している最大の理由ではある。だが雷斗からしてみれば、それ以前に『杏奈以外の人間と行動をともにする』という選択肢が綺麗サッパリ消えていたというのが実情だ。オブラートに包まずストレートに言ってしまうならば『杏奈がそこにいるのに他を優先する意味が分からない』といったところか。


 ──杏奈も同行するなら、……まぁ、ありかなーとは思うけど。


 昔、まだ雷斗が小学生だった頃。


 杏奈は放課後のわずな時間にだけ会える、ものすごく希少な存在だった。そうでいながら杏奈は、雷斗にとって一番大切な友人ダチだった。


 だから、嬉しかったのだ。中学生になって、杏奈が自分の隣で普通に学校生活を送っていることが。同時にその光景が数多くの奇跡と気まぐれによって成り立った危ういものだと誰よりも知っていたから、何よりも守りたいと願っていた。その気持ちは今も変わらず雷斗の中にある。


 だからこそ、杏奈を放置して他の友人と遊びに行くという選択肢に魅力を感じない。決して彼らを嫌っているわけでもなければ、疎ましく思っているわけでもない。むしろお誘いがもらえること自体は嬉しくもある。だが同時に、彼らとは学校にいる間だけワイワイやれていれば満足だなとも思う。


「あー……」


 何と答えるべきなのか、と言葉を濁した瞬間、どこからか視線が注がれていることに気付いた。


 一体どこからなのかとさり気なく視線を巡らせると、女子生徒に囲まれたままの杏奈がさり気なくこちらに視線を寄越している。


 ──アンナ?


 パチパチと雷斗は目をしばたたかせた。その仕草で雷斗が視線に気付いたことを察したのか、杏奈は雷斗に視線を向けたままトントン、と指先で襟元を叩く。


 ──モールス信号?


 何を伝えたいのだろうか、と雷斗はそのまま杏奈の指先に注意を向けた。目の前の二人が『ライトぉ? どしたぁー?』と首を傾げるが、とりあえず『おー?』という生返事をして放置する。


 ──『たまには行ってきたら?』……いや、その場合、お前はどーすんの?


 雷斗はすかさず組んだ腕の中から指を伸ばして腕をつつくことで返信を打つ。


 ちなみにモールス信号なんていう古典的な通信方法を雷斗に仕込んだのも杏奈だ。雷斗が持っている知識の7割近くは杏奈の入れ知恵だと言ってもいい。何かとヒソヒソと周囲に隠れてやり取りをしなければならない身としては中々に役立つ知識だと思う。


 ──いや、こうなることを見越して仕込んでくれたってのが実情なんだろうけども。


『研究所か錬対に連絡を取って、代理を呼んで直帰する』

『いや、そこまでして行きたいわけでもねーんだけども』

『いつも私にばかり付き合う必要性はないよ』


 いつになく頑なに言い張る杏奈に雷斗は思わず目を見開く。


 そもそも杏奈がこんなことを主張してきたこと自体が初めてだ。


 確かに雷斗と杏奈の距離感は世間一般で言う『幼馴染』よりも近いと思うし繋がりも強固だが、学生生活における友好関係や行動に口を出したことは互いにない。


 自分達の関係とそれぞれの友人関係は別物、という認識が何となくお互いにある、と表現すれば正しいのだろうか。興味がないと表現しても、遠慮していると表現しても何となく違和感があるのだが、とにかく互いに口出しはしない領域になっている。


 そのことに思わず首を傾げた瞬間、フッと頭の中に雨宮あまみや詩都理しづりの取調現場に立ち会った時の光景がぎった。


 今杏奈が雷斗に向けている視線には、あの時とは温度が違う、だがどこか似通った感情が宿っているような気がする。


 ──あの時の取調で、特に変わったことはなかったと思ったんだけど……


 困惑を隠せないまま、雷斗は杏奈に視線を注ぐ。


 だがそれ以上考え込むいとまは雷斗に与えられなかった。


「?」


 ジャケットのポケットに突っ込んだ端末が震えている。断続的な振動は着信によるものだ。


 ──こんな時間に誰が?


 心当たりがない着信に雷斗は内心だけで首を捻る。


 その瞬間、ピンポンパンポーン、という気の抜けた音が教室の前壁に取り付けられたスピーカーから鳴り響いた。


『あー、生徒の呼び出しをします。1ーB、冴仲さん、1ーBの、冴仲さん』


 クラスメイト達の視線が瞬時にスピーカーに集まり、次いで杏奈に流れる。当の杏奈はぽやぱやした雰囲気のまま『ん?』と首を傾げたようだった。


 クラスメイトの視線が一瞬アンナに集中する。


 その隙に雷斗は端末をポケットから取り出すと机の下に隠すようにして表示を確かめた。


 ──非通知?


 その3文字に雷斗はわずかに目をすがめる。それでも応答の表示に指を滑らせ、袖口に隠すようにして端末を耳元へ寄せたのは、何となく直感で誰からの着電なのかが分かったからだった。


『緊急要件』


 聞き覚えのある声が発したのは一言だけで、通話はすぐにプツリと途切れる。生体電流を調整して聴力を上げていた雷斗にしか拾えないような微かな囁きだったが、雷斗がその声を聞き間違えるはずがない。


『お話ししたいことがあります。生徒指導室まで来なさい』


 雷斗が端末を再びポケットに滑り落とすのと、全校放送が気の抜けた電子音とともに切れるのはほぼ同時だった。


 放送が切れた後もクラスメイト達の視線は杏奈に集中していて、雷斗の行動には享も恭司も気付いていない。


「ちょっとアンナぁ、今回は何したのよ?」

「んんん〜?」

「とぼけてる場合? 生徒指導室への呼び出しなんて相当じゃない」


 全校放送での呼び出しを受けたというのに、クラスメイト達の顔には緊張も不安もなかった。『またかぁ〜』という緩い笑みというか、微笑ましいものを眺めるような、呆れているような、何とも生ぬるい視線が杏奈に向かって飛んでいる。


「心当たりないの? 歩いてた時に窓に突っ込んだとか、廊下に飾ってある壺にぶつかって割ったとか」

「今日までのテストで、試験時間中に寝ちゃったり、名前書き忘れたりした科目に覚えは?」

「ん〜?」

「……ダメだこりゃ」

「完全に忘却の彼方ね」


 杏奈の周囲を囲んだ女子生徒達は、溜め息をこぼしながら杏奈の両腕を取ると杏奈を椅子から引っこ抜いた。杏奈がきちんと己の両足で教室の床を踏みしめるまで待った女子生徒達は、そのまま杏奈の腕を掴んで雷斗の方へ誘導してきてくれる。


「ありゃ、お仕事来ちゃったな、ライト」

「仕方がねぇわ。冴仲一人で生徒指導室まで行かせたら、目的地に着くまでの間に問題が増えそうだもん」

「てか、まず辿り着けるかどうかが疑問だよな」


 雷斗が無意識のうちに椅子を引いて立ち上がるのと、女子生徒達が杏奈とともに雷斗の前に到着するのはほぼ同時だった。


「ススム、キョウ、わり、また今度な」

「へいへーい」

「稲妻くん、今日もアンナのことよろしくね」

「ほら、アンナ、『よろしくお願いします』は?」

「イトくん、よろしくお願いしまーす!」


 友人二人に断りながら椅子をしまう。そんな雷斗に向かって深々と頭を下げた杏奈は、頭を下げすぎてゴチッと額を机にぶつけたようだった。ふらついた杏奈の体を、杏奈をここまで引っ張ってきた女子生徒達が支える。


「あぁもうアンナ!」

「テヘヘ、ありがとぉ」

「んもぅ! また明日ね!」


 見かねた雷斗が片手を差し出すと、杏奈は躊躇いなく雷斗の手を取った。キュッと力を込めてくる杏奈の手を雷斗も握り返せば、杏奈はへニャリと笑って女子生徒達に片手を振る。そんな杏奈の様子を見た享と恭司がヒューヒューと囃し立ててきたのは、キッパリと無視してやった。


「行くぞ、アンナ」

「はーい!」


 そのまま雷斗は杏奈をエスコートする形で教室を出た。どこのクラスも最終試験が終わり、締めのホームルームを待っている状態だ。ザワザワと賑やかしい声は聞こえてくるが、廊下の人影は少ない。


 そんな日常そのものの中に、杏奈は本性を滲ませた囁きをこぼした。


「どうやら動きがあったみたいだな」

「ああ」


 生徒指導室へ向かって歩を進めながら、雷斗は目をすがめた。


「俺のトコにも白浜しらはまのおっちゃんから緊急連絡が入った」


 そんな雷斗を見上げた杏奈の顔から、スッと天然じみた空気が消える。前を見据えた雷斗は、杏奈と繋がった自分の手にギュッと力がこもったことを自覚した。


「さて。鬼も蛇も出ていそうな現場へ飛び込むとしようか」


 その力を噛み締めながら囁くように口にした杏奈は、なぜか自虐的な笑みを浮かべているようだった。

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