壱
始まりの時、天も地も闇も光も時間さえもが混沌としている世界を、仏が慈悲の心を以ってお開きになった。
天は頭上へ、地は足元へ。闇は夜へ、光は昼へ。時は過去から未来へ流れるように。
開かれて秩序が生まれた世界には命が芽生え、やがて栄えていく。
仏は開かれた世界を大変お喜びになった。
しかしひとつだけ、仏の慈悲を以ってしても二つに分け隔てられないものがあった。
善と悪。命が芽生え、人が生まれたからこそ生じたその二つは境界もなく曖昧で、相反するものでありながらも共に隣り合って存在していた。
世界が開かれ、芽生えた世界が人の手に託されるようになっても、仏は善と悪を分かつことができなかった。
ゆえに、仏はこの世界から天上界へお戻りになる時、華仙の初代
『分かてなかった善悪を、私は人の心に残したままにしようと思う。私が残した教えを守り、修行に励みなさい。さすれば必ず善は悪を退け、汝らは安らけく日々を過ごすことができよう』
そして仏は人々を守るために己の
それが華仙教の原点。華仙が抱える法術師の起こり。そして仏が地上界で住み暮らしていた場所が、この
仏が降り立ち、暮らし、弟子を取って説法を行い、そして天上界へと旅立っていった地が月天とされているから、この町は険しい山上にありながらも聖都として繁栄を築いてきた。
「……くだらない」
山上にある月天は町そのものの標高が高い。
「中途半端に終えるくらいだったら、最初から手出しなんてしなければ良かったのよ」
その風に、二つに結い上げた髪と纏った豪奢な着物が揺れる。まるで炎が燃え立つような様に緋蓮は思わず不機嫌に目をすがめた。
緋蓮の髪は赤い。己では見ることができないが、瞳も同じ色なのだという。迦楼羅としてあつらえられた豪奢な紅の衣と相まって、緋蓮の姿は炎が燃え立つ様を映したように人々の目に映るらしい。炎を纏い、生と死を繰り返して不死を生きる迦楼羅の
そんな自分の何もかもが、緋蓮は嫌いだった。
「……不死鳥が籠の中の鳥だなんて、笑える」
衣の上から腕に括り付けるように纏う袖衣が、窓から入り込む風に揺れる。やたら袖やら裾やらが長い意匠は、霊獣・迦楼羅の両翼や尻尾を想起しての物だという。
並の少女ならば憧れの対象であろう豪奢な衣も、緋蓮にとってはただただ邪魔なだけだった。
「迦楼羅様」
その全てに嘲笑を向けていた緋蓮は、背後から聞こえてきた声に表情のすべてをかき消した。振り返れば戸口の向こうに女官が数人
「お勤めのお時間です」
常と変わらない言葉。常と変わらない日課。
染み付いてしまった変化のない営みに身を没するために、今日も緋蓮は女官に連れられるがまま階下へ……僧侶達曰く『下界』へ降りていく。
──そういえば、昨日の夜のことは、結局夢だったのかな……
木製の階段を降り、石床を踏みしめて進み、さらに
緋蓮がふとそんなことを思ったのは、金堂の前に横付けにされた輿を降り、金堂へ上がる
──ヒヒジジイ達が騒いでいるような気配はない。周囲の結界の様子も変わらない。……誰も気付いていないということ?
華仙教の総本山、月天の親寺とも言える
熱心なことだとどこか冷めた思いでその光景を眺めた緋蓮は、自分のために用意された御帳台の中に入るとさっさと天蓋から垂れる薄絹を閉める。薄絹一枚とはいえ、閉め切ってしまえば周囲から飛んでくる様々な感情が宿る視線は遮ることができた。
このままこの中に一刻ほど大人しく籠っていれば、緋蓮の朝の勤めは終わりだ。
金玄寺で毎朝行われる朝課は、今日という日を迎えられた感謝を仏に述べ、月天を囲むように展開された結界を肆華衆の力を以って新たにするというのがその内容だ。そのために毎朝朝課に合わせて金堂の内陣の前に四つの御帳台が用意され、下界に招かれた肆華衆がそれぞれその中に迎え入れられる。仏への供え物とも、高僧達が伏し拝む偶像とも、迎え入れられた霊力の化身とも言えるのが、朝課における緋蓮達の立場だった。
と言っても今、肆華衆の椅子はその半分が空位である。
そもそも『肆華衆』と称され、火の迦楼羅、風の執生、地の尋香、水の龍蛇で四人一対とされている現人神だが、同じ時代に四人全員が揃うことは稀であるらしい。近々十数年空位だった地の守護獣・尋香の座が埋まるという話だが、それも噂程度のものでしかなかった。
──それに比べれば、絶えず適任者が現れる迦楼羅と執生はあまり珍しいものでもないか。
『あら、珍しくなくて悪かったわね』
そんなことをつらつらと考えた瞬間、頭の中に声が響いた。
それを合図にしたかのように、
『おはよう、緋蓮。ご機嫌いかが?』
わんっと空気が鳴るほどの音量で読経が響こうとも、緋蓮の頭に直接響く声は涼やかさを失わない。その聞き慣れた声に、緋蓮は思わず眉をひそめた。
──いかがも何も、私の心の中なんてお見通しだろうに。
『あら、嫌だ。わたくしを覗き魔か何かみたいに言わないでくださる?』
優美な物言いに緋蓮は思わず険を乗せた視線を隣の御帳台に投げる。互いの御帳台から下がった薄絹で相手の姿を見ることはできないが、声の相手がそこにいることくらいは緋蓮にも分かっている。
『相手の声が勝手に入ってこないように、ある程度は制御しておりますのよ? そうでなければ、とてもじゃないけれど煩くて仕方がないもの』
──そう言いながらも、私の声はよく勝手に聞いているじゃないか。
緋蓮は意識して険のある声を胸の内で上げる。だが勝手に頭に響いてくる声から涼やかさは失われない。
『緋蓮の声は、勝手によく響くんですもの。同じ肆華衆だからかしら?』
そう言いながら、当代の執生であり緋蓮の唯一の同朋である娘はクスクスと笑った。
『それとも、緋蓮の声が一際図抜けて大きいから聞き取りやすいのかしら?』
「なっ……!?」
まるで緋蓮を『思考回路が単純で読みやすいお馬鹿さん』とでも言いたげな物言いに思わず声が漏れた。反射的に浮きかけた腰を、緋蓮は理性を総動員させて畳の上に戻す。
迦楼羅が火を司る鳥の霊獣であるように、執生は風を司る獅子の霊獣だ。
当代執生・
その言葉を風の噂で耳にするたびに、緋蓮の胸にはモヤモヤしたものが広がる。
──勝手なことを。玲月とて、こんな力よりも普通の眼が欲しかっただろうに。
『それよりも緋蓮。あなたさっき、何かいつもと違うことを考えていなかった?』
己が考えたことに己で怒りをくすぶらせた瞬間、またスルリと玲月の声が入り込む。風を司る現人神であるせいなのか、玲月の声は耳で聞いても頭で聞いても涼風が吹き抜けるかのように涼やかだ。
『良かったら、わたくしにも聞かせてちょうだい?』
その涼やかさに怒りを鎮火させられた緋蓮は、改めて昨夜のことを思い起こした。
昨日の夜、緋蓮はこの金堂の隣にある
任と言っても、特に何かをするわけでもない。ただ誰もいない空間に一人座り、大塔の中に奉られた仏の座像と対座する。ただそれだけだ。はるか昔、まだこの世に華仙の仏がいた頃、夜になると仏が己の侍獣であった肆華衆達と灯りの下で真理を語り合ったという伝説に起因している勤めであるらしい。
灯りを得るためではなく時を計るために蝋燭を一本持って大塔の中に入り、その蝋燭が燃え尽きるまで大塔にこもったら、最後の焔を完璧に吹き消して灯守の任は終わる。灯守の任がある日は灯守が終われば、ない日は夕課が終われば肆華衆としての一日の勤めは終了だ。
いつも通りの夜になるはずだった。
あの男が現れさえしなければ。
『暗殺者? 緋蓮を狙って?』
緋蓮がつらつらと心に並べた状況を風で聞き取ったのだろう。玲月の声にわずかに驚愕が混じる。
──分からない。私と名指しで来たわけじゃないから。
あの男は、あまりに何も語らなかった。男が躊躇いなく緋蓮の首を落としていたら、恐らく緋蓮は男の声を聞くこともなく此岸へ送り出されていたことだろう。
あまりにも、言葉さえをも残していかなかったせいで、緋蓮はいまだにあの出来事が
『そんな幻影を見るくらい、あなたは死に焦がれているとでも?』
不意に、玲月が操る声音の色が変わったような気がした。
『命は……』
──華仙の仏からの預かりもの。決して
緋蓮はすかさず耳にタコができるほど聞かされた言葉を返す。
だが玲月の声に宿った険は中々消えない。
『では緋蓮。あなたが遭遇したのは紛れもなく現に現れた暗殺者ではないの。華仙上層部の誰かに知らせなくてはならない。それが、迦楼羅としてのあなたの責務よ』
緋蓮個人を狙ったものなのか、肆華衆を狙ったものなのかは分からない。
だがどちらであろうとも、華仙教と月天にとって一大事であることには変わりがない。
華仙において信仰の対象である肆華衆は、華仙と敵対する人間から見れば格好の獲物だ。
華仙教、引いてはこの聖都・月天と政治的にも宗教的にも敵対している組織は多いと聞く。肆華衆を殺したい人間も、ここから攫って己の手中に納めたい人間も多くいる。そしてそれ以上に、肆華衆はこの月天守護の要として重大な責務を負っていた。
ましてや相手は
朝廷と言えば月天の最大敵対勢力。そこに属する者が暗殺に現れたことが事実であるならば、何を置いても真っ先に華仙上層部へ報告するという対応が正しい。
『殺されても事だし、万が一月天の外に連れ出されても問題よ。あなたは相手を都の響術師と踏んだのでしょう? もしも朝廷に仕える人間だったとしたら……』
「……安心しろ、玲月」
玲月の声は、不安を含んだまま切々と響く。
その声を、緋蓮はあえて肉声で遮った。
「私が月天の外に出ることはない。私は、鳥籠の中の鳥なのだから」
──そうだ。私は……
数多の僧侶達の読経の声の中に、緋蓮の声はかき消されていく。それが分かっていてあえて肉声を発した緋蓮は、己の声がか細くもみ消されていく様に耳を澄ます。
だがその瞬間緋蓮の耳を叩いたのは、朗々と響く読経を突き破って響いた破壊音と悲鳴だった。
「あぁっ!? ああああああああああっ!!」
「
木がへし折れる音と、悲鳴と、怒号と、何かが高い所から叩き付けられて潰れる鈍くて重い音。
「っ!?」
常とは違う、金堂の中に絶えず張り詰めている緊張を打ち破るそれらに、緋蓮は考えるよりも早く御帳台の外へ飛び出す。
その瞬間、緋蓮の目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤色だった。
「人が……っ!! 人がぁぁぁぁぁあああああああああっ!!」
「上から落ちてきたぞっ!!」
「あっ、
「ひぃぃぃぃぃいいいっ!!」
「何なんだ!? 何で浄域である金堂でこんなことが……っ!!」
騒ぎの中心は人がはけて床が露出している。
その板間が、赤い。
金気臭い独特の臭いが、緋蓮がいる内陣の前まで漂ってくる。
今もじわじわと範囲を広げる赤の中心にあるモノは、紛れもなく人の形をしていた。
──そう、私が赤を嫌う理由は……
騒ぎを『風』で聞いているのか、外に出てきても盲には意味がないからなのか、玲月は己の御帳台から出てこようとはしない。
だから緋蓮は一人たたずみ、袖に隠れた拳を握る。
──私が纏う色が、あの色と同じだからだ。
キシッと、奥歯がすれて嫌な音がした。周囲を見回せば居並んだ僧侶達は上から下まで蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。突然のことに頭が真っ白になっているのか、ただただ
比較的まだ落ち着いている自覚がある自分が何か声を発するべきなのだろうか。
そんなことを思った緋蓮は、僧侶達の状況を把握するために改めて金堂の中に視線を走らせる。
その瞬間、ふと、緋蓮の目に留まった瞳があった。
「……?」
距離が開いているから、相手の細かい風貌までは分からない。内陣前という金堂の最奥にいる緋蓮に対し、相手は入口近くの
それでもなぜか、視線が合ったと分かった。
黒にも見える深い藍色の衣。法衣ではなく七分袖の小袖に狩袴を合わせているところから見るに、どこかの寺の僧侶ではないのだろう。かと言って金玄寺の手伝いでもなければ修行生といった雰囲気でもない。まだ年若いと緋蓮は判じたが、それもこの距離では定かではない。
緋蓮は体ごと青年に向き直ると、改めて青年に視線を投じた。
青年は誰もが現場に意識を向ける中、一人だけ真っ直ぐに緋蓮のことを見つめていた。それが己の目に留まった理由かと、緋蓮は己を見据える青年を見据え返したまま考える。
──……違う。
だがその考えは緋蓮の直感によってすぐに棄却された。
普段緋蓮に向けられる視線の種類は、主に三つ。
一つ目は迦楼羅に対する畏敬の視線。二つ目は宝石や珍品を見る視線。三つ目は権力の象徴を見る視線だ。そのどれもが、緋蓮にとっては煩わしい。
だが青年の視線には、それらの色が一切なかった。
ただひたすらに、見つめている。そこに他の感情の色はない。
そのことに緋蓮はわずかな居心地の悪さを覚えた。常に人目にさらされ続けている緋蓮が、だ。
「迦楼羅様……!! このような不浄、関わってはなりませぬっ!!」
なぜ青年はそんな視線を緋蓮に向けるのか。
思わず緋蓮は青年の方へ一歩足を踏み出す。
だが青年との距離が縮まるよりも緋蓮の視界が墨染に遮られる方が早かった。
「お前達、何をぼんやりとしておるかっ!! 迦楼羅様と執生様を早くこの場からお連れ致せっ!!」
己の体を使って緋蓮の視界を遮った大僧正が鋭い声を発する。その言葉にようやく我に返った周囲が慌てて緋蓮の周囲を取り囲んだ。
「待て、
耳に馴染みのある大僧正の声に緋蓮は思わず反発するが、混乱に支配された周囲は誰も緋蓮の声など聴いていない。緋蓮を囲う壁を作るように並んだ僧侶達に押し出される形で緋蓮は内陣に近い通用口から金堂の外へ連れ出される。
「おい、亀覚っ! 話を聞けったら……っ!!」
押し出されながらも緋蓮は何とかその場に留まろうと首を巡らせる。
そんな緋蓮の視界の端で、目に留まったあの青年は
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