暁の空に死を請わば-月天秘抄-
安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!
序
──この
自分の人生なんてそんなものなのだろうと、
「……殺すのか? 私を」
風もないのにチロチロと揺れる
蓮や天人、吉兆を司る神獣……清らかで美しいものばかりで埋め尽くされた立体
「私は
そんな中、煌びやかな装飾の一部であるかのように緋蓮は座していた。清らかとされる空間の中に溶け込んだ緋蓮は、不気味に踊る影の中に自身の影をも踊らせる。
唯一踊らない影は、緋蓮の前にだけあった。
「私がその当代迦楼羅であることを知っていながら、殺すのか?」
緋蓮は、ゆったりと
動けない、のではない。あえて動かない。
緋蓮が瞬きをする間に現れた影は、緋蓮の正面から堂々と姿を見せた。緋蓮がいるこの大塔を……今この瞬間迦楼羅が
物理的に守りを破ったのか、呪術的に守りを破ったのかは分からないが、許可なく大塔の中に立ち入ることに成功し、なおかつ今を以って外が騒ぎになっていないことを
騒いでも、意味などない。
短刀を突き付けられてから瞬き数回分でその事実を覚った緋蓮は、ゆったりとくつろいだまま真っ直ぐに影を見つめていた。
「殺せぬと思うがな。迦楼羅に見初められた人間は、その座に就いてから十五の時が巡るまで迦楼羅の……華仙の守護獣の所有物なのであり、ある意味ヒトではないのだから」
緋蓮の前に片膝をつく態勢で短刀を構えた影は、緋蓮の言葉にも揺らがない。この大塔の中を踊る影達もこれくらい静かだったら良かったのにと、緋蓮は頭の片隅で思った。
「それでもやると言うならば、守護獣の祟りに気を付けることだ。どこの誰かは知らないが、こんな役目を負わされるなど、お前も哀れだな」
暗色の衣を纏い、揃いの色の
そういえば今は、華仙教総本山であるこの月天で修行を積む修行生を選抜するために、候補生を集めて二年に一度の選抜試験が行われている時期だ。修行生候補の最終試験をこの本山で行うために、普段は固く閉ざされている月天の大門が今の時期だけ大きく開かれる。恐らくこの影もそんな人波に紛れて入り込んできたのだろう。
「迦楼羅を殺した人間がどうなるものか、私もぜひ見物したかったものだ」
まあ、そんな推量など立てても、もう意味などないのだが。
そんな言葉とともに纏めていた推量をすべて投げ出し、緋蓮はゆったりと瞳を閉じる。影が首を落としやすいように刃と反対側へ首を傾げて肌をさらせば、触れている短刀の冷たさがより肌に染み込むような心地がした。
だがその感触は、ふっと静かに消えていく。
「……嘘がないな」
影から零れ落ちた声は、緋蓮の予想通り年若い男のものだった。
緋蓮はゆったりと、閉じた時と同じ速度で瞼を開く。影は変わらず緋蓮の前に凝っていたが、突き付けられていた短刀は影の手元に引き戻されていた。
「あんた、殺されたいのか?」
「……命は華仙の仏より授けられた預かりもの。己からその命を手放す選択をするなど、華仙の教えに反するではないか」
「……嘘ではないが、心を答える言葉ではないな」
一人ごちるように紡がれた言葉は、緋蓮が隠したかった真実を突く。
だがそれにさざめくような心は緋蓮の中には存在していない。
「その言い回し、お前、
逆に独特な言葉の揺らぎから相手の身の上を察して突き返したつもりだったが、相手もまた揺れることはなかった。唯一露わになっている瞳は鏡のように凪いでいて、緋蓮を映しているせいなのか、大塔の中の灯りを映しているせいなのか、わずかに赤みがかって見える。
その瞳が、不意に細められた。
「……今は、やめておこう」
「私に真実を言い当てられて怖気付いたか」
「今のお前を殺すのは、何かが違う」
男の言葉は、どこまでも嘘の香りがなかった。どちらかと言えば、緋蓮が投げかけた言葉の方が虚勢に満ちていて、まるで死を前にはったりをかましているかのように響く。
──死など、己は恐れていないはずなのに。
そんなことを思っている間に、男は闇の中へ消えていた。現れた時と同じように、緋蓮が瞬きをひとつした間に闇へ姿を溶かしている。
その後何度か瞬きを繰り返してみたが、再び男の姿が闇の中から現れることはなかった。何度見ても、目の前に広がるのは極彩色で仏が御座します世界を表現した、この世に顕現した楽土。あの男は緋蓮がうたた寝で見た夢だったのではないかと疑いたくなるほどに、緋蓮の前には常と変わらない静かな夜が広がっている。
「……」
緋蓮はもう一度静かに瞬き、迦楼羅として叩き込まれたしとやかな挙措で立ち上がった。背後を振り返れば、闇の中でさえ穏やかな笑みを崩さない黄金の仏の巨像が、緋蓮の一挙手一投足を見下ろしている。
「ご覧になられたか、華仙の仏殿」
常の闇の中に常の微笑みを向ける仏を睨み付け、仏と華仙の守護を司る霊獣が一体、迦楼羅の
「私を殺してくれそうな者が現れたぞ。果たしてあなたは、私を守り切ることができるのかな?」
いくら言葉を投げようとも、思いを向けようとも、仏から言葉が返ってくることなどありはしない。
そのことを今日もまた確かめて、緋蓮は手元の蝋燭を吹き消すと、極彩色の世界へ背を向けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます