第38話「良庵の野巫」


「菜々緒、実家に帰ります」


 道場から書斎に戻ってすぐ、あんまり元気のない良庵せんせにを返すとともにそう言った菜々緒ちゃん。


「……え? ちょ……実家!? 実家って菜々緒ちゃん!? 俺なんかした!?」

「へ? 賢哲さんなんかしたの?」


 …………あれぇ? と首を捻って見つめ合う二人。菜々緒ちゃんの言い方が悪いよね。


「お葉ちゃんの様子見てくるだけ。きっとお葉ちゃんはあそこ、菜々緒の実家の方だと思う」


 きっとお葉ちゃんが連れてかれたのは黒狐の里。半分黒狐の菜々緒ちゃんにとったら実家みたいなもんだもんね。


「おっ――おおおお葉さんの行き先にこここ心当たりが!? ほほほほ本当ですかなななな菜々緒お姉さん!」


 がばりと顔を上げた良庵せんせが菜々緒ちゃんの手を取って叫びます。うん、気持ちは痛いくらいに分かるよ。


「たぶんね。せんせーはお葉ちゃんから聞いてない?」

「な、なにを?」


「したくない結婚させられそうだった、って」

「き、聞いています。それで家を飛び出したと……。まさかそのせいで今回――!?」


 かつてはソレ、菜々緒ちゃんもさせようとしてた一人なんだけどね。

 良庵せんせの言葉に菜々緒ちゃんがこっくり頷きました。


「たぶん――ううん、間違いなくそのせい。だから菜々緒が覗いて来てあげる」

「だ、だったら僕も! ご一緒します!」


「あそう? じゃ良庵せんせーも――」


 だめだめだめ! 黒狐の里なんて普通に妖魔がウロウロしてるとこなんだから! 良庵せんせつれてっちゃダ――


「――あいたぁっ!」


 菜々緒ちゃんが急にぴょんっと飛び上がって、お尻をさすりながら蹲り、ちょいと間があってから続けました。


「……だめ。良庵せんせは賢哲さんと夜回りお願い。お葉ちゃんの事は菜々緒に任せといて……」

「しかし! 大体お一人で大丈夫なんですか!?」


「バカみたいにでかい髭面のバカを用心棒につれてくから大丈夫!」


 あ、三郎太ちゃんにお尻かじられたんだね。

 つねられた菜々緒ちゃんには悪いけど、わっちも三郎太ちゃんに賛成。


 ただ連れ戻すだけじゃなくって、連れ戻した上で元の良庵せんせとの日々を取り返さなくっちゃなんだから。


 それに……これは良庵せんせに悪いけど、せんせが行ったところで…………ね。




「じゃ、菜々緒行ってくるから。賢哲さんも頑張ってね」

「あ、おい菜々緒ちゃん! ちょっと――もう行っちまった……」


 飛び出していった菜々緒ちゃんの見えなくなった背へ向けて、賢哲さんがぶつぶつ言ってます。

 ……もっとこう別れの余韻とか、行ってきますの口付けとかよ、そんなんあるじゃねぇの……


 なんかそんなような事言ってます。

 けれど――ばぁん! と勢いよく書斎の戸が引き開けられて、再び菜々緒ちゃんが顔を見せました。


「賢哲さん、三、四日で戻るから! 浮気しちゃダメだからね!」


 むちゅっ、と賢哲さんに口付けて、再び菜々緒ちゃんが飛び出して行きました。忙しいだね、ほんと。


「…………可愛いよなぁ菜々緒ちゃん。良人よしひともそう思うだろ? ありゃ、聞いてねえなこりゃ」


 綺麗に端坐した良庵せんせは筆をとって文机に向かっていました。

 野巫三才図絵の地の部を開いて横に置き、それをじっと見詰めて頭に入れて、徐ろに筆を動かします。


 さっきまでの良庵せんせと雰囲気が違います。

 今やるべき事が定まって、とにかく自分にできる事をやろうという気概が感じられます。


 お葉ちゃんの事は菜々緒ちゃんに任せるしかないもん。わっちもそれが良いと思う。


 それに対して賢哲さん。せんせを素見ひやかそうとニヤっと笑って近付きましたが、つるりと頭をひと撫でし、せんせに背中を向けて腰を下ろしました。


 どうやらこの町の地図を見ながら夜回りの順路を考え始めたようです。大体この夜回りだって賢哲さんのお仕事なんだから。

 今頃そんなことやってる事に驚きだけどね。



 お葉ちゃんを感じられなくなっちゃったけど、わっちやなっちゃんが元気って事はお葉ちゃんも元気って事。だからわっちもわっちに出来ること頑張るね。





 でもさ。そうは言ってもこないだからの妖魔騒ぎ、アレってお葉ちゃんを探す為にシチって呼ばれてたヨルの尾っぽがやってたことなんだから。

 もうお葉ちゃんは連れてかれちゃったんだもん、妖魔はうろちょろしないんだよ。


 だから二人の夜回り、ほんとは全然ぜんっぜん必要ないんだよ――




 ――必要ない、筈だったんだけどなぁ。



「うぉぉい! 良人! こっちからも出た! たっけてくれー!」

「ちょっ――と待て! 少しのあいだ念仏でなんとかしろ!」


「なーもーほんししゃかむーにぶつ、なーもーほん――効かねえんだよ念仏なんざ!」


 おっかしいなぁ。妖魔がうろちょろする筈ないんだけどなぁ。


 なんて首捻ってぼおっとしてる場合じゃないね。しょうがないからわっちも手伝お。

 賢哲さんに襲い掛かるのは、トドのような牙の大きなネズミが数匹。キショいです。


 せんせの腰にぶら下がったまま、ほんの一瞬ニュッと兎の上半身だけ顕して、二つ三つと戟の弾を吐き出します。


 そのどれもが賢哲さんに殺到してた全てのネズミに命中しました。やったね。


「おぉ! 噂のウサちゃんじゃね!?」

「助かる! これでなんとかなる!」


 良庵せんせはと言うと、地面に置いた紙に向かって突っ伏して、仄白く光る筆を握っています。


「早くしろ早く! 早く描けって!」

「――……描けた!」


 素早く立ち上がった良庵せんせは描き上がった呪符と一緒に柄を握り込み、木剣を立てて八相に構えます。


「早く早く! 良人! 早く斬れ!」


 賢哲さんが大慌てで言うのも当然。せんせの目前、大猪が迫ってるんだもん。


「少し黙ってろ!……――よし!」


 せんせご自慢の、漆黒の重たい黒檀の素振りすぶり刀に呪符の力が染み渡り、剣先まで仄白く輝いてます。そしてせんせが勢いよく振り下ろし――


「ぶひぃぃぃぁああ――!」


 ――大猪が絶叫と共に棹立ちになり、ずしんとその身を横たえました。


 わっちに野巫のことは分からないけど、良庵せんせの野巫、なかなか凄い威力みたい。


 お葉ちゃんにも教えてあげたいね。きっと喜ぶだろうなぁ。




※せんせの素振り刀は刃部分が少し太いけど概ね刀の形した木刀。黒くて太いカッコいいやつ。

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