面倒事

 伊織という少年に乗り移り、早一ヶ月と少し。最初は慣れないことだらけだったこの体での生活も、最近ようやく少しずつ慣れつつある。

 ただ、相変わらず香織との約束である、友達を家に連れてくることは叶っていない。そして、その約束が叶わぬ内に、期末試験に終業式と時間は進んで、夏休みはやってきた。実に大学卒業以来、十数年ぶりの月単位での長期休暇だった。


「ねえ、少しいい?」


 しかし俺は、生憎友達がいないから、交友のためにその長期休暇を利用することはない。

 俺は、書斎で仕事をする香織の元へと出向いていた。


「うん。大丈夫よ」


 予定を確認すると、香織は微笑みながらそう答えた。椅子に座って同じ体勢で仕事をしていたからか、香織は凝り固まった体をほぐすように背中を伸ばしていた。


「なあに? もうお昼?」


「いや、そうじゃないんだ」


「えー、じゃあ何? あ、友達?」


「違う」


 ちぇっ、と残念そうに言う香織は、どこかかつてを思い出させる幼さがあった。しかし、今のそれとかつてのそれは似て非なるものだった。彼女は息子の前では、少し甘えん坊な面を見せる。かつて、俺に見せた姿とはまるで違う姿だった。

 俺は目を伏せながら、香織の机の前に一枚の紙を滑らせた。


「……履歴書?」


 怪訝そうに尋ねてきた香織に、俺は頷いてみせた。


「バイトがしたいんだ」


 そう言った途端、さっきまでの和やかなムードが一変した。正直、予想だにしない展開だった。この一月、香織と生活を共にして、何かしらの一件があったからか、彼女は伊織という少年にほとほと甘かった。だから、アルバイトの一つくらい軽く了承すると思っていた。


「高校生は、バイトするにも親の了承がいるんだって」


 だから、こうして香織の前に訪ねてきた、と俺は暗に伝えた。


「どうして?」


「え?」


「どうして、バイトをしたいの?」


 こうして俺がアルバイトを思い至った理由。何もそれは、遊ぶ金欲しさというわけではなかった。

 もう一月経ったことになるが、俺の体に起きた摩訶不思議な体験の数々は未だ原因は明かされていない。


 どうして、伊織という少年の体に俺は乗り移ったのか。

 どうして、伊織という少年は長い昏睡状態にあったのか。

 そうして、今、俺の元の体はどうなっているのか。


 わからないことが多すぎて、不安は日増しに増していっていた。特に、一番最後は……考えるだけでも、吐きそうになるくらい、知るのが怖い。でも、知らないわけにはいかない。そう思ったから俺は、行動を起こすことにした。

 でも、それらの全てを納得出来るだけの理由を知るのに、俺は今明らかに手札不足だった。頼みの綱の香織も箝口令を敷いていて、この伊織という少年に何があったのか、語る気配も一切ない。


 だから、俺に残された数少ない手札の一つ。


 かつての俺の体の地元に行くこと。

 それを、俺はどうしても成し得たかった。障害は多い。東京都から地元へは、電車を乗り継いで二時間と少し。最寄り駅から実家へは徒歩で三十分超。

 事情が事情だから、香織に勘ぐられることなく旅行に行く必要があるだろう。つまり、日帰りでの帰宅が要求されるが、であれば活動時間は相当限られてくる。


 ただ、一番の難点はそこでもない。

 一番の難点。……それは、資金面だった。地元への移動時間を二時間超で済ませるには、特急電車に乗ることが必須だった。でも、特急電車には特急料金がかかるし、乗車代だってバカにならない。

 まとまった資金がいるのだ。

 そうであれば、やはりバイトでも何でもして金を稼ぐ必要があるだろう。


「……遊ぶお金が欲しくて」


 苦しい言い訳だった。

 いっそ香織に全て話せば解決しないか、と甘い考えが頭をよぎった。でも、それを明かす気持ちは一瞬で引いた。

 香織を納得させられなかった場合を考えると、それはリスクとリターンがまるで見合ってないように見えて仕方なかった。


 この言い訳で、香織が納得してくれないか。

 俺は、心からそれを願った。


「もう。お小遣い使い果たしたの?」


 ただ、どうやら俺の願いは淡くも崩れ去った。


「……うん」


「駄目じゃない。お金は計画的に使わないと。将来困るわよ」


「はい」


「……お節介かもだけど、家計簿アプリ教えようか。家族間で同期出来るから、使いすぎたらあたし注意するよ?」


「いや、大丈夫」


 それは本当にお節介だ。ただ彼女のマメな性格を考慮しなかったのは、俺の失策だった。


「何が大丈夫なの。それでお小遣いがなくなったんでしょう?」


「……うん」


 一度付いた嘘の整合性を取るには、今更最初の話を引っ込めることは出来なかった。


「そんなにお小遣い少ないわけじゃないでしょ? それこそ、バイトなんて必要ないくらい」


「……うん」


「……バイトは駄目よ」


「ど、どうしても駄目? お小遣いのアップを頼むわけじゃない。自分の時間を削って、自由なお金を増やそうってだけだよ?」


「その時間に勉強をしないといけないでしょう?」


 至極真っ当な意見だった。


「……あなた、二ヶ月も学校に通えなかったのよ? その間の勉強、取り戻す必要があるじゃない」


「……うん」


「……別に、頭ごなしに勉強をしろって言いたいわけじゃないの。勉強以外のこともとても大切。それはあたしも同意見。でも、今は少し我慢する時よ」


「うん」


 ……今日は、ここまでか。


「……それにね」


 突然、香織は俯いた。


「今は、あたしの傍にいてほしいの。あなたが戻って来たって、あたしに実感させてほしいの。だから今は……お母さんのワガママ、聞いてくれない?」


「……わかった」


 苦笑する母の顔をした香織を前に、俺にはもう頷く以外の道は残されていなかった。

 話の締めくくりに、香織は自らのワガママを口にした。それは、高校時代彼女と恋仲だった俺から見て、先程と同様新鮮な姿だった。違和感すら感じた。


 でも、彼女が夫を失い、息子さえ失いかけただろう身であることを察すると、その気持ちは痛い程わかった。

 俺もかつて、一人の恋人と離れ離れになり女々しく気落ちしたことのある男だからだ。


 そして、その人は今、俺の目の前にいる。

 そして……そんな彼女にまだ一度も『母さん』と言ったことがないことに、俺は罪悪感を抱いていた。


 母さん。


 香織は、かつての俺の恋人。

 でも、伊織という少年に乗り移った今は、俺の母。


 頭の中では、割り切っているつもりだった。彼女を不要に悲しませたくない。そして、今の生活の基盤である彼女に居なくなられては困る。だから俺は、許されることはないと考えつつ、香織を母親だと頭では理解しているつもりだった。

 今、彼女のことを母さんと呼べないことは……俺の、最後の尊厳なのかもしれない。そう考えると、色んな感情が淀んで気落ちしそうになった。


 ただとにかく、今一番残念なことは、当面の間地元へ行く機会を失いそうということだった。


 小遣いだけでは限界がある。

 そもそも、この小遣いは俺の金ではない。いつか戻ってくるかもわからない伊織という少年の金だ。その金に手を付けるのは、身を削って金を稼いだ経験のある俺には憚られた。


 どうにも出来ないまま。

 香織との約束一つ果たせぬまま。


 あっさり、容赦なく、夏休みは終わりを告げた。


 二学期の始業式を終えて、翌日のロングホームルームのことだった。その時間は、二学期がこれから本格的にスタートすることに先立って、クラス委員を選出することになっていた。

 一様に、クラスメイトはクラス委員という言葉に嫌そうな態度を見せた。愚痴の言葉を聞くに、二学期は学校行事も多く特に忙しい期間になるから、その期間のクラス委員などご免ということだ。

 

 菅生先生は、ワガママ勝手なクラスメイトを制しながら、クラス委員の選出を始めた。ただ、さっきの話通り、クラス委員決めは難航していた。自薦はなく、結局他薦となり、菅生先生は自発的ではないクラスメイトに呆れるようにため息を吐いた。


 他薦となってからも、しばらくは候補の一人も名前は挙がらなかった。


「はい先生」


「山田。どうした?」


「あたし、クラス委員長は橘さんが良いと思います」


「は?」


 露骨に嫌そうな声が、教室の傍らから響いた。その声を聞いて、俺の隣に座る彼女は歪んだ笑みを見せていた。


「だって、橘さん。物事をはっきり言えるし、皆にも好かれているじゃない」


 ……これは、私怨だな。皮肉めいた言いぶりに、俺は呆れながらそう悟った。


「橘、どうだー」


「絶対イヤ」


「そうか。……とは言え、候補の一人もいない中だしな。他の皆はどう思う?」


 菅生先生が挙手を促すと途端、大半のクラスメイトが橘さんのクラス委員に納得だと手を挙げた。俺は手を挙げなかった。この時間の無駄な問答はさっさと終わらせたかったが、手を挙げた姿を橘さんに見られると、どっかの誰かのように恨みを買うと思ったのだ。


 その挙手率の高さに、頬杖を付いていた橘さんは嫌そうなため息を吐いた。


「橘、皆こんなに推してくれてるんだから、頑張ってみないか?」


「……勝手にすればいいじゃないですか」


「……わかった。じゃあ、クラス委員長は橘で決定な」


 黒板に、カツカツと文字が刻まれた。橘さんは、クラス委員長のところに自分の名前が入っているのを見て、もう一度ため息を吐いた。


「じゃあ次、クラス副委員長は……斎藤、やってみろ」


 そして、次の無駄な時間が始まった。


「え?」


 いや、始まっていなかった。始まる前に菅生先生から指名された男がいた。

 誰だ。

 俺だ。


「なんで?」


「良いじゃないか。お前ならきっと大丈夫だ」


 有無を言わせる気がない。突然の菅生先生の強行姿勢に、俺は文句よりも疑問符しか浮かばなかった。


「はいじゃあ皆、斎藤で良いと思ったら挙手して」


 再び、クラスメイト諸君は手を挙げた。圧倒的挙手率。その手は、面倒事を押し付ける相手がいてくれて良かった、とそう強調するかのようにまっすぐ、強く、掲げられていた。


「はい。決まりー」


 こうして、有無を言わさず俺のクラス副委員長は決定した。

 二学期は、そんな前途多難な幕開けとなった。

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