痴漢

「あら、伊織。おはよう」


「おはよう」


 学校への復学初日を終えて、翌日の朝。

 俺は、以前の体の習慣で朝五時に目を覚ました。

 いつか、マイペースな自分を呪って以降、俺は戒めの意味を込めて早寝早起きを心掛けるようになった。本来であれば戒め云々ではなく、初めから心掛けてすべきその行いだが、とにかくかつての俺の性格は、それくらいでないと一念発起出来ないくらい軟弱なものだった。

 ただ、いざそうして早朝の起床をするようになると、朝の時間にゆとりが出来て、今でもそれは続けられた。

 その結果、他者の体に乗り移った今も、その習慣は続けられている。こうして香織が起きるよりも前に起床することは、珍しくなくなっていた。


「前までのあなたは、そんなに早起きじゃなかったのにね」


 香織はそう言って苦笑していた。

 いつもなら、敢えて伊織という少年の昔話を控えていたのに、早朝の彼女はどこか抜けていた。


「朝ごはん、何食べる?」


 最近、ようやく香織に対する癖であった敬語が抜けてきた。以前は敬語で喋る俺に香織の顔は強張っていたが、その一件もあってか、敬語で喋らないだけで彼女は安心したように微笑んだ。


「朝ごはん、用意してくれるの?」


「うん。忙しいでしょ?」


 寝癖だらけの髪を見ながらそう指摘すると、困ったように香織は頭を掻いていた。香織は今、翻訳家の仕事をしていた。夫がいた頃から、家で出来る仕事を探していたそうで、そうして見つけたのが学生時代に得意だった英語の翻訳家という仕事だったらしい。

 文芸翻訳家という仕事はフリーランスである場合が殆であるそうで、香織も例に漏れずそれに当たる。だが、ある程度の顧客も見いだせているそうで、程々の波はあれ、収入は見込めているそうだ。最近は、短納期での翻訳を任せられるそうで、俺の復学前は、書斎とリビングを忙しなく行ったり来たりしていた。


 ただ、俺が朝食作りを買って出たのは、そんな彼女の多忙を見兼ねて、と言うわけではない。

 自分は忙しいにも関わらず、入院中には何度も見舞いに来てくれて、そうして昨日はわざわざ学校まで送ってもらってしまったことが、それの最たる理由。

 強いて言えばこれは、労い、だ。


 香織は、しばらくリビングから俺の料理捌きを見ていた。

 その顔は、少し嬉しそうな、感慨深そうな、驚いているような……。


「意外。あなた、料理出来たのね」


「……だ、誰でも出来ますよ。スクランブルエッグくらい」


 思わず、敬語が出るくらい取り乱してしまった。取り乱した気持ちはバレないようにと何とか淀みなく言えたが、バレなかっただろうか。

 それにしても、伊織という少年は家事には非協力だったらしい。


 彼女の息子なのだから、彼女のように献身的で面倒見の良い性格だと思っていた。


 料理を終えて、リビングへとそれを運ぶと、香織はぼんやり眺めていたテレビを消した。


「いただきます」


「いただきます」


 手を合わせて、そう言って、俺達は軽めの朝食を食べ始めた。

 テレビを消してご飯を食べるのは、どうやらこの家の習慣らしい。家庭の時間を大切にするとか、多分そういう意味だろうと自己解釈していた。気になった時もあるが、特別聞いて相手の気分を害するようなことでもなかった。


「どう……?」


「何が?」


「友達」


 言葉短く、香織はそう尋ねてきた。我が子の学校生活を心配しているようだ。当然か。


「まだ初日だし、特別仲の良い人は出来てないよ」


「……そう」


「ただ、きっとすぐに友達も出来ると思う。皆、快く迎え入れてくれたから」


 淀みなくそう言うと、香織の顔が仄かに晴れた。

 俺は思っていた。我が子の学校生活が心配な親を前に、友達出来ない、なんて泣き言を言えるはずがない。


 俺は今、彼女にバレないように嘘をついた。


 復学初日、特別仲の良い友達が出来なかった。それは本当だ。

 俺が付いた嘘は、きっとすぐに友達が出来ると思う、と言うその言葉だった。


 昨日の一件を思い出していた。

 それは、俺が現状の整合を取るべく、ボロを出さないようにと付いた嘘だった。


『記憶喪失』


 そう言った途端、クラスメイト達の顔は冷ややかなものに変わっていた。いやそもそも、最初から二ヶ月もの間学校に来なかった男に対して連中は、動物園で珍しい動物でも見つけたような、物珍しい目をしていた。

 だから、俺が付いた嘘は彼らの背中を後押ししたきっかけに過ぎない。多分、遅かれ早かれ連中は俺に対して同様の反応を示したことだろう。


 ……そもそも、箝口令を敷くにしても、クラスメイト達には事情を話しておいてほしかった、と言うのが本音だ。


 これじゃあ俺はただ、二ヶ月ものディスアドバンテージを背負っただけ。そりゃあ、あんな洒落みたいな嘘を付けば、周囲の態度も冷ややかになって当然だ。


「伊織がウチに友達連れてくるの、あたし待ってるね」


「うん」


 そう言われたら、微笑んで頷くほかなかった。

 ただ残念ながら、俺がこの家に友達を連れて来れるようになるのは……高校卒業後か、はたまた一生来ないか。

 とにかく、前途多難なことだけは間違いなかった。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 家を飛び出すと、青空が俺を迎えてくれた。

 ただ生憎、そんな天気に答えられそうもないくらい、俺は滅入っていた。たかだか三年間の高校生活。友達が出来ないこと自体は差して問題ではないが、香織の悲しい顔は見たくなかった。


 それは、俺が自らを伊織という少年と偽って、学校に通うと決心した時と同じ理由。


 ただ俺は、香織の悲しい顔を見たくないだけだった。


「どうしたものか」


 駅にたどり着いても、腕を組んで俺は考えに耽っていた。

 このままでは間違いなく、俺はロクな友達が出来ずに香織を悲しませてしまう。そもそも、だ。俺は中身は三十五歳で、クラスメイトの連中は十五か十六。

 それは、ジェネレーションギャップを感じてもおかしくない年齢差。そんな年齢差というハンディキャップをも抱えて、本当に友達なんて出来るのか……?


 無理。と、早々に結論を付けなかったのは、そうしたくない意地があったからだった。

 ともあれ、宛もない。

 どうしたものか。どうしたものか。

 そう悩んでいると、まもなく電車は俺がいる駅のホームに滑り込んできた。


 扉が開いた電車は、一瞬、乗るのを躊躇うくらいの混み具合だった。今度からはもう少し早い時間の電車に乗ろう。俺はそう決心して、電車に乗り込んだ。

 田舎で暮らしてきた俺にとって、都心の満員電車は生まれて初めての体験だった。

 人の圧だったり、単純に押されたり、自分が動ける隙間が微かにしかなかったり、目の前にいる男の鼻息が荒かったり。とにかく、不快指数の高い状況だった。


 後三駅。

 後、二駅。


 地獄のような車内では、過ぎる時間さえゆっくりに感じられた。家にいる時は、時の流れが早すぎて、こうして満員電車に乗り込まなければならないくらいの時間に家を出たのだが、それが失敗なのは明白だった。

 パネルに書かれた次駅まで三分という時間は正しいのか?

 苛立ちから、舌打ちをしそうになっていた。


 そんな時ふと、俺は三人向こうに自分と同じ学校の制服を身に纏った少女の存在に気がついた。

 おぼろげながら、彼女に見覚えがあった。そう、それは……昨日の朝のショートホームルーム。登校初日の挨拶を終えた時、教壇から俺は彼女を見た気がする。


 クラスメイトと遭遇したことは、少し嫌な気分だった。ただよく考えれば、向かう先は同じなのだから、これからはこういう体験を何度もするんだろう、とそう気付いた。

 ともあれ今回は……昨日変な目で見られただろうことも相まって、このまま気付かれることなく過ぎ去りたかった。


 が、俺が気付いてしまったのだ。


 手すりを掴んで離さない少女の顔は、ずっと床を見ていた。ただわずかに、体は震えていた。目元は髪の毛で隠れていたが、口元は……不快をこらえるように噛み締められていた。


 視線を下ろすと、少女は真後ろに立っているスーツの男性にお尻を触られていた。

 間違いなく、あれは痴漢行為だった。

 

「おはよう」


 気付けば俺は、人混みを掻き分けて名前も知らない少女に挨拶をしていた。


「え?」


 戸惑った少女は、目を丸くして俺を見ていた。

 丁度、電車は学校から一駅手前の駅に滑り込んだ。


「降りよう」


 そして、入車する人の波の間を縫って、俺は少女の手を引き一緒に電車を降りた。

 件の痴漢を乗せた電車は、まもなく発車していった。


「……あ、ごめん」

 

 咄嗟のことで、思わず少女の手を取り引っ張り出してしまった。そのことへの謝罪だった。

 振り返ると、手を引っ張った少女は未だ呆気に取られた様子だった。


「……大丈夫?」


 顔を覗いてそう尋ねると、ようやく少女はハッとしたようだった。


「……記憶喪失」


「あだ名みたいに言うな」


 文句を言うが、まもなく俺は自分が文句を言われる立場であることに気がついた。

 学校の最寄り駅は、後一駅先。下車した先の駅のホームには、次の電車を待つ人でこちらもごった返していた。

 この列の最後尾に並び、電車に乗って、そうして学校に着くのは……恐らく遅刻が確定した時間になることだろう。


「ごめん。後一駅だったのに。これじゃあ遅刻だ」


 スマホの時計を見ながら俺は言った。


「え? ……ああ、うん」


 名前も知らない少女は、痴漢されたショックもあってかまだ本調子ではないようだった。間の抜けた返事が返ってきた。


「あの、大丈夫?」


「……何が?」

 

 少女の声は、まもなく俺を警戒するものへと変わった。冷たい、鋭利な刃物のような声色だった。


「さっき痴漢されていたみたいだから。心配だったんだ」


「……別に」


 少女はそっぽを向いた。


「別に、こんなことしょっちゅうあるし」


「しょっちゅう? 東京って怖いんだね」


「は? あんただって東京に住んでるじゃん」


 小馬鹿にされたと思ったのか、少女は怒ったように声を荒らげて俺に言った。


「いやだから、俺記憶喪失なんだ。昨日も言っただろう」


「……ウケ狙いのネタだと思ってた」


 昨日俺に冷ややかな視線を寄越した連中は等しくそう思っただろう。いやまあ、嘘なんだけどね?


「というか、今でもネタだと思ってるんだけど」


 再び、少女は怒ったような声でそっぽを向きながらそう言った。

 どうしてこう、彼女は一々怒ったような態度で苦言を呈すのだろう。冗談めかされることが心底嫌いなのだろうか。


「悪いけど、証明する手立てがないや」


 肩を竦めて俺は言った。正直、あれやこれや手を尽くして証明することでもないと思った。


「……あっそ」


「うん。電車を途中下車させてしまって悪いけど、これから学校まで歩こう。この列に並んで電車に乗り込むより、その方が早そうだ」


 俺は、改札の方へ向けて歩きだそうとした。

 その時だった。

 制服の裾を、きゅっと軽く握られたのだ。

 誰にされたのかと、振り返ると、そこには先程一緒に電車から下車させてしまった少女がいた。

 俺の制服の裾を握った少女は、視線を右往左往とさせていた。


「あの、その……ありがと」


 まもなく頬を染めながら、そっぽを向いて、重々しく少女は言った。

 お礼を言わると思っておらず、俺は一瞬固まったが、


「そろそろ行こうか」


 そう提案した。


「ん」


 言葉短く、少女はそれに応じた。

 後々知ったことだが、彼女の名前は橘美玲と言うそうだ。

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