復学
六月某日。
俺は香織の運転する車の助手席に座っていた。ハンドルを握る香織はどこか楽しそうに運転をしていたが、かつてマイカーを持ち毎日出勤に車を転がしていた俺からして、そのハンドル捌きはどこか恐怖を感じるものだった。
「伊織。何よ、緊張しているの?」
「まあ」
主に、香織の運転捌きに。
「……せめて脇見運転は控えてもらえますか?」
「え、あたしの運転に緊張してたの?」
口を閉ざして、俺はそっぽを向いた。
その態度に、香織は少し寂しそうにうなだれていた。それからはしばらく、香織は久々だろう運転に集中するように静かになった。
都内にて生活する彼女は、田舎で車社会だった俺とは違い車の運転に慣れないのも仕方のない話だと思った。ただ、そうであれば退院の日のようにタクシーを使う選択肢もあったはずだし、俺もそうすればと提案したのだが、どうしても今日はあたしが運転する、と香織は言って聞かなかった。
理由は、たった今俺が約二十年振りに制服に身を包んでいることに起因していた。コスプレではない。今日俺は、二度目の高校生活を始めるべく、伊織という少年の進学先へと向かっていた。
「伊織の高校生活最初の日くらい、ハンドル握らせてよ」
殊勝げな態度で言った朝とは違い、少し拗ねたように頬を膨らませて香織は言った。
高校最初の日。
その言葉で俺は、約二ヶ月超もの間、伊織という少年が学校に通っていなかったという事実を知れて、少しだけこの少年に同情した。
茶化すように香織のハンドル捌きをなじったが、それからは特に問題なく車は市街地を走った。
事前に、香織から今日から通う学校の情報はもらっていた。まだ記憶は回復していないと嘘をついたので、その辺も少しだけ寂しそうな顔をしただけで、当時の彼女を彷彿とさせる丁寧にわかりやすく教えてくれた。
伊織という少年が今日から通う学校は、都内でもランクが高い公立の進学校らしい。自宅からは、電車で二十分。最寄り駅からは歩いて十分くらいの、計三十分の通学路だそうだ。
最初から電車通学をさせなかったのは、香織が言うように彼女の親心によるものも大きいが、復学に際しての手続きなどがいくつかあるそうで、親である彼女も学校に呼ばれていたからだった。
「そろそろ着くよ」
最初の通学路にも関わらず、桜並木には緑林ばかりが並んでいた。車の窓越しでも、セミの煩わしい声が聞こえてきた。
同じ制服を纏った人が、チラホラと見えていた。
その間を縫って、香織の運転する車は校内に入っていった。
駐車場に車を止めて、俺達は校舎へと入った。裏口からスリッパを使って入ったが、おかげでまだこの学校でお世話になる実感が俺には湧かなかった。
「おはようございます」
職員室、扉を開けた香織が言った。
「あ、斎藤さん。こんにちは」
駆け寄ってきたのは、一人の若い男性職員。
「伊織君もこんにちは」
「こんにちは」
なるべく粗相のないよう丁寧に頭を下げたのは、恐らく社会人生活の賜物だ。
「僕は菅生隆。君のクラスの担任です」
「よろしくお願いします」
「よろしく。……ずっと君が学校に来る日を、待っていたんだ」
感慨深そうに、先生が言った。
この人は何か、伊織という少年の事情を知っていそうだ。
「先生」
「え、あ……。失礼しました」
香織の態度を見るに……恐らく箝口令が敷かれているようだ。もしかしたら、記憶喪失なことも踏まえて、刺激しないように言い含めてあるのかもしれない。
「じゃあ、まずは始業くらいまでは三人で少しお話しましょうか。それからは教室に行こう」
先生に頷いて、しばらく俺達は先生の机周りで色々な話をした。
様々な現状がまだ掴みきれていない俺は、下手なことを言わないようにと基本的には聞き手に回ろうとしたが、この場の主役は生憎俺で、むしろ先生から根掘り葉掘り色々なことを聞かれた。
ただ、敢えてだろうが、プライベートに関わることは先生の口から尋ねられることはなかった。好きなもの。嫌いなもの。この学校では何がしたいか、など、そういう些細な話に留まった。
多分、これも記憶喪失なことを言い含められているからこそ、言葉を選んだ末の結果だろう。
その配慮は、正直言って助かった。
それからもしばらくの会話の末、まもなく俺と先生は教室へと行くことになった。年甲斐もなく、少しだけその時に緊張を覚えた。
「お母さんは、これから教頭が来ますので……しばらく手続きでお時間、いただけますか?」
「はい。わかりました」
微笑んだ菅生に促された椅子に座り、ここで香織とは一時お別れとなった。それなりの進学校ということも影響しているのか、始業間近な時間の割に廊下を彷徨く生徒は全然いなかった。これがかつて俺が通った学校だったら、遅刻しないようにと生徒が数人真横を走り去っていくところだ。
「……皆、おはよう」
ここで待っていて、と言われて、俺は教室前で立ちぼうけを食らった。
先んじて教室に入った先生は、いくつかの言葉の後、今日からこの教室の仲間になる子がいると告げた。
「入って」
「はい」
扉を開けて、俺は教室に入った。
……三十五歳にもなって制服を身に纏ってなんだが、うら若き十五、十六歳の生徒をこうして間近に見るのは、体力を要した。
「さ、自己紹介を」
「……斎藤伊織です」
教室全体を見回して、俺はハキハキとそう告げた。
何人かの生徒が、こちらを見やりながら後ろの子と話していた。何だかオーディションにでもかけられたようで、少し気分が悪かった。
「じゃあ皆、伊織と仲良くしてやってくれ。伊織、席はあそこだ」
「はい」
先生に促された座席へと向かった。相変わらず針のむしろだったが、変なことをしているわけでもないから我慢するしかないと思った。
「よろしく」
席に座った途端、隣の女子に声をかけられた。
「あ、よろしく」
「あたし、山田美樹」
「山田さんか。よろしく」
隣の席の人が話しやすそうな人で良かった。
「ねえ伊織君。今日まで君、一体何していたの?」
ただ、話しやすい代わりに彼女は……少し下世話好きらしい。不幸なことである可能性もあるのに、好奇に光る目を見て、そう確信した。
ただ正直、その問いは……昨晩から何度か、聞かれるだろうと思って回答を考えていた問いだった。だってそうだろう。二ヶ月超、一度も学校に訪れなかっただなんて、そりゃあ娯楽に飢えている年頃の高校生には気になって仕方ないトピックスだろう。
「……アハハ。ごめん。覚えてないんだ」
色々考えた末、変に誤魔化すのも変だと思い、俺は全てを正直に吐露するつもりでいた。
「……え」
「記憶喪失なんだよ、俺」
少し大きめな声で、俺は言った。
洒落のように笑って言えば、その場の空気も壊さないだろうし、何より、わかったらその話題に触れるなよ、とそう暗に伝えるつもりだった。
記憶喪失関連のことを根掘り葉掘り聞かれることは、ボロが出るきっかけになると思って仕方なかったのだ。
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