思い過ごし

 入院生活はしばらくの期間続いた。伊織という少年は随分と長い間寝ていたのか、体中の筋肉が相当衰えていたようで、筋力トレーニングのようなリハビリメニューが続いた。これまでただ歩くだけで汗を掻いたことは一度もなかった。しかも最初は、支えとなるような手すりを掴んで歩いたのに、大汗を掻く始末。たかだか十メートルを歩き切るのにも二十分くらい悪戦苦闘を続けた。

 ただ、伊織という少年は丁度今の俺よりも二十歳若い十五歳という年齢も相まってか、しばらくのリハビリの末に、歩行練習は松葉杖になり、最終的には支えなしでもそれを行えるまで、めざましい回復をすることが出来た。


 対して、大した実りを得られなかったのは、記憶喪失のリハビリ。精神科医のカウンセリング、催眠療法など、色々手出しはしたのだが効果はなし。その度、背後にいた香織は少し寂しそうな顔をして、すぐに俺に次頑張りましょうと声をかけてくれた。

 まあ、中身が変わっているのだから、効果がないのは当然の話なのだが……俺個人的な話としても、この体に乗り移った直前の記憶が混濁しているので、そこを思い出したい一心で治療は根気よく頑張った。だから、成果が出ないのは個人的にも落胆する結果ではあった。


 そんな治療を経て、この身で目を覚ましてからおおよそ一ヶ月が経った頃、ようやく俺の退院日は決まった。退院以降もしばらくは記憶喪失に対する治療は続くそうだが、日常生活の方には問題が出ないくらい体力も回復していた。


 退院日。

 俺は一月という長い期間面倒を見てくれた医師、看護師に頭を下げて回って、そうしてまもなくやってきた母と一緒に病院を後にした。

 目が覚めて以降、俺の家であった病院から出るのは、少しだけこみ上げてくる感情があったが、それが異常でこれからが正常だと悟ると、身も引き締まる気持ちだった。

 ……これからが正常と思ったが、元恋人の息子の姿で、彼女の家に転がり込むのは普通ではないと気付き、俺は人間の適応能力の高さに目を細めた。


「こら、元気になったからってタクシーの中で暴れないの」


 車中、そう言って隣に座っていた香織は俺を宥めた。

 目を覚ました最初の方は、香織も精神的に衰弱していたものだったが、翌日ちゃんと俺が目覚めて、その翌日も……と続けていく内にすっかりと体調も回復したようだった。


 再会した当時、随分と香織の顔にも皺が、などと失礼極まりないことを思ったものだが、どうやらそれは心労による疲労が大きかったようで、最近は血色もよく、実年齢よりも随分と若々しく見えた。

 ……人妻。ましてや現状は実母になる女性に対して、何を舐め回すように見ているんだ、と俺は頭を抱えた。


「だから……、ふふっ」


 再び香織に怒られそうになったが、どうやらそれは免れられたようだ。多分、一時は人形のように寝ているだけだった実の息子が、こうして再び年相応の態度を見せてくれていることが嬉しかったのだろう。優しく呆れたように微笑む香織の顔には、そう書かれていた。


 ごめんなさい、とタクシーの運転手に香織が謝ったのを聞いて、俺も続けて彼に謝罪した。

 タクシーのおじさんは、いいですよ、と優しく微笑んで俺の無礼を許してくれた。


「ありがとう」


 見慣れない景色を走っていたタクシーが一軒家の前に止まった。

 お勘定を済ませた香織がタクシーから出たのを見て、俺も続いてタクシーから出た。タクシーは、まもなく俺達の後ろを走り抜けていった。


「ここが、あたし達の家よ」


 タクシーを見送って、一軒家へと視線を戻した。

 都内の住宅街。

 そんな場所に家を構えるだなんて、香織の旦那は相当甲斐性があるようだ。感心げにそう思った。


「さ、入って」


 香織に続いて、門扉を跨いで、庭を横切って、家の玄関へとたどり着いた。

 清潔感のある室内に入って、靴を脱いで、俺は香織の後に続いた。通された場所は、リビングだった。


 俺が部屋の中を見回していると、香織は気にも留めずに部屋の隅に歩いていった。


「……伊織、まずは手を合わしてもらえる?」


 仏壇の前に、香織は正座していた。

 線香の香りが鼻孔をくすぐった。


 そして、俺はぎょっとした。

 薄々、気付いていた。俺が目を覚ましてからおおよそ一ヶ月の入院生活。その間、香織は何度も何度も、足繁く俺の見舞いに通ってくれた。

 相当負担だっただろう。

 相当、心労も溜まったことだろう。


 でも、ずっとおかしいと思っていたのだ。


 香織はずっと、俺の見舞いに来てくれた。正確には、実の息子の見舞いにずっと来てくれていた。


 どれだけ負担だろうと。

 どれだけ心労が溜まろうと。


 実の息子のため、身を粉にして献身的に看病したのだ。


 ただ、香織の夫は結局……一度も伊織という少年の見舞いに訪れることはなかった。

 そして入院期間中、香織は結局一度も、夫に対する話を俺にすることはなかった。


 俺は、香織の隣で正座になり火の灯ったろうそくで線香に火をつけて、そうして手を合わせた。


「……お父さんも、きっと喜んでる」


 出来れば、そうでなければいいと思っていた。

 出来れば、俺の思い過ごしであればいいと思っていた。


 でも、不幸なことに、俺の予感は的中してしまったのだ。


 仏壇には、端正な顔立ちの男性の笑顔の写真が置かれていた。これが遺影であること。そして、それが香織の夫のものであることは……最早明白だった。


 香織は、俺の頭を優しく撫でた。


「そろそろ夕飯の準備でもしましょうか」


 そうして少しして、香織は立ち上がった。


「……伊織?」


 ただ俺は、香織に倣う気にはならず、手を合わせたまましばらく動き出せそうもなかった。

 胸中は、絡まる糸のように複雑怪奇だった。ただ正直に言えば、俺は今気落ちしていた。


 香織の夫が死別していたこと。

 勿論。それも俺が気落ちした要因の一つでもある。


 でも一番は……。


 香織が結婚したのは、彼女が二十歳の頃。上京した先の大学で出会った人だって、香織と共通の知り合いから教えてもらった。幸せそうな顔で、その人は香織の結婚を喜んで教えてくれた。

 俺が香織と別れたのは、彼女が十八歳の頃。また会おう。そう約束をしたけれど、結局その約束は今日まで叶ってはいなかった。


 わかっていたことなんだ。


 香織にとって、俺が過去の人であることなんて。

 なのに俺は、心の隅のどこかで期待していたのだ。香織に再会すれば、俺達はまた親密になれるのかもしれない。香織に再会すれば俺達は、俺は……幸せになれるのかもしれない。

 そんなことあるはずないのに。そうなることを期待して。そうなるかもしれないと夢を見て。

 そうして……いつしか彼女の結婚は幻だったのではないかと思うようになっていた。少し考えればわかることだし、少し考える度にそうだってわかっていたのに、直面するまで俺はそれが夢か幻かと思って疑っていなかった。そう信じ込むようにしていたのだ。


 だから、実際に彼女の夫の遺影を見て。

 香織が、粛々と……されど寂しそうに手を合わせている姿を横目に見て。


 俺は、気落ちしてしまった。

 今更、自分の失恋を知って、情けなく愚かで、とても立ち上がることが出来なかったのだ。


「……伊織。もう少ししたらあなた、高校に通ってみない?」


 香織はまもなく、そんな俺の気を察してか、気を紛らわせるようにそう言った。


「高校?」


「そう。折角受験も頑張って、志望校に受かったんだもの……覚えて、ないかもしれないけど」


 俺の事情を思い出して、香織は少し寂しそうにしていた。

 彼女の気持ちを察すれば当然かもしれない。恐らく彼女も伊織という少年の受験の手伝いはしてきたのだろう。昼夜問わず、いつかの彼女のように、献身的に……。


「うん。わかった」


 気付いたら、俺はそう返事をしていた。

 今更、彼女に失恋したことを知った。


 また会おう。

 その約束が、叶うことがないだろうことを知った。


 でも今、寂しそうな顔をする香織を慰めることが出来るのは、俺しかいない。


 香織の夫でもなく。

 未だ目を覚まさない伊織という少年でもなく。


 俺しか、いないのだ。

 

「そう、良かった。じゃあ早速、制服着てみない?」


「……え?」


「制服は受け取ってあったの。あなたがいつ、目覚めてもいいように」


 そう微笑んだ香織に、俺は今の自分を偽っている現状への罪悪感に駆られ、胸が締め付けられた。

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