綺麗なままだった
正直、困惑することの連続だった。
目が覚めたら当時の恋人だった香織がいて、彼女の息子の伊織君になっていて、これで戸惑うな、という方が無理な話だった。
一度病室を出た香織は、まもなく医師を引き連れて戻ってきた。医師は、奇跡だ、と小さく呟いて、俺を見てひたすらに驚愕していた。
現状を飲み込めないまま、俺は精密検査のためと車椅子に引かれて、血を抜かれて、仰々しい機械に身体中を測られて、そうして問診が始まった。
「恐らく息子さんは、逆行健忘症ですね」
淡々と医師はそう告げた。
逆行健忘症。所謂記憶喪失に捉えられたことは不幸中の幸いだった。いきなり目が覚めてこの状況。何なら母親とは顔見知りでも、この伊織という少年を見るのは初めて。変に勘ぐられるくらいなら、そう言われる方がマシだった。
ただ、診断結果を聞き背後で息を殺して泣く香織を見つけたら、罪悪感が襲ってきた。
「……記憶障害でも、戻って来てくれただけ嬉しいです」
香織は悲痛な声で言った。
一体、この少年に何があったのか?
そもそも、俺はどうしてこの少年になっているのか?
様々な疑問が浮かんでは消えることなく悶々とした気持ちへと変わっていく。
それから香織は、放心気味な俺を放って、今後のことを医師と話していた。二人の会話の成り行き的には、精神的ショックも大きいだろうから、俺に何があったのか、は伏せる方針でいくそうだ。
そもそもそういう話をするなら当人の前でするべきではない、というツッコミは置いておいて、何があったのかを知る手立て、それも最も最短ルートで知れる術を失ったことに、俺は困り果てた。
激動の一日になった。
昼頃出た病室に戻ってこれたのは、夜のことだった。
「伊織、困惑することばかりでしょうけど、お母さん、本当にあなたともう一度こうして話が出来て嬉しい」
「……そう、ですか」
思わず、かつての癖で敬語で話してしまった。香織は、俺の二つ上。交際を始めた最初は先輩と呼んでいたし、名前呼びに変わった後も、敬語は中々抜けなかった。
「そうよね。あなたにしたら突然、こんな状況だもんね」
香織は、そんな俺の敬語を、記憶喪失のせいと思ったらしく、一瞬悲壮めいた顔を見せた。
「……ゆっくりでいいわ。ゆっくり、落ち着いたらまた、昔みたいにお母さんって呼んで」
「……うん」
我が息子を宥めるように、香織は俺の頭を優しく、丁寧に撫でた。
かつて再会を果たせなかった相手と触れ合えたこと。でも、望まぬ形での触れ合いになったこと。
心境は、上手く説明出来そうもなかった。
「さ、明日からリハビリが始まるんだから、そろそろ寝ましょう。お母さん、明日も来るから」
「うん」
「……じゃあ、おやすみなさい」
まるで地母神のように優しく微笑む香織に気圧され、俺は仕方なく目を閉じた。ただ正直、突然すぎるこの状況にすぐに眠りにつける気はしなかった。
ただ、落ち着かないのはどうやら香織も一緒らしかった。
目を瞑っても、俺の傍にはずっと気配があった。微動だにしない気配があった。
この伊織という少年に何があったのかは到底知りようがない。でも、今日一日の医師との問診、そして香織との会話で、どうやら彼がしばらく……一日二日ではなく、もっと長い時間眠っていたことは知ることが出来た。
不安なんだろう。
香織の心境は察せれた。
また、こうして俺が目を閉じて。
また明日、本当に目を開けてくれるのか。
……もしかしたら。
もしかしたら、また昨日までのように、目を覚まさなくなるのではないのか。
不安で、不安でしょうがないのだろう。
そう思ったら、とてもこの場から立ち去る気になんてならないのだろう。
俺だって、自分の状況だって理解が出来ず、困惑する頭は整理が付きそうもない。
でも今、俺は当時の恋人だった香織の状況を慮って、泣きそうになっていた。
不意に、寝返りを一つ打った。
香織から顔を反らす方向に、寝返りを打った。
泣きそうになっている顔を、見られたくなかった。
起きている、とバレたくなかった。
俺が寝返りを打っている姿を見て安心したのか、また明日、と呟いて香織は部屋を出ていった。
扉が閉まる音を聞き、俺はゆっくりと目を開けた。
雲が少なく、月明かりが眩い夜だった。
今日一日の出来事を振り返ると、色々と思うことはあった。当然だ。自分の状況も意味が不明だし、この体のことも、この少年のことも、わからないことだらけだ。
……でも。
でも、今一番思い巡らせていたのは、そんな行く先への不安ではなかった。
「少し、年相応に皺は増えていた」
俺が思っていたことは……。
「髪の色も、変わっていた」
当時、恋人として色々なことを一緒にした人のことだった。
「でも、当時のまま、綺麗で、優しくて、面倒見の良いままだった」
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