3 - 番場明日香
思い出す。
聖一とともに水城がダムに転落し、僅か数分しか経っていなかったと思う。
「……死んだ!」
叫んだのは傍らに立つびわだった。見えぬ目を大きく見開いた彼女は、それまで低く押さえていた声を大きく張り上げて言った。
「あの蛇死んだ、死んだよ、徹さん!」
「そう……なのか?」
痛覚がないという山田徹は、しかし出血多量のダメージで意識が朦朧としている様子だった。痛みを感じなければ無敵というわけではないのだ。むしろ痛覚がないからこそ、彼は常に死に近い場所にいるのだと妙に冷静に噛み締めた記憶がある。
山田からの反応が薄いことに苛立った様子のびわは、彼の胸元に留めてあるマイクに向かって言葉を発した。
「カシラ! カシラ聞こえてますか! 蛇が死にました!」
『──間違いなく?』
応えを寄越したのは岩角遼だった。彼が今どこにいるのか、明日香には分からなかった。
「間違いな……い、よね!? 明日香ちゃん!!」
話を振られ、明日香は反射的に、
「死んだと思います」
と答えた。その時既に、瞽女迫澪との繋がりは途切れていた。明日香には、自分の目に映るものしか見えていなかった。だから、ダムの冷たい水の中で聖一が本当に死んだのか、引き摺り込まれた水城がどうなったのか、何も分からなかったのに、びわの必死の形相に押されるようにして即答してしまったのだ。
「カシラ──」
『許可する』
岩角の声音に甘さはなかった。びわと百裏には殊更優しいはずの男だった。その彼が、完全に
「許可ありがと!
その場に倒れ込んでいた
「明日香ちゃん? 明日香ちゃん!? 苔桃は!?」
「百裏さん……は、まだ意識が……」
「ああん! 脆弱! じゃあ明日香ちゃんごめんだけど手伝って、ダムはどっち!?」
びわの右手を掴み、体ごとダムの方に向けてやる。
「真正面?」
「うん」
「明日香ちゃん、
「? 分かった」
両手でダウンジャケットの肩をぐっと押さえた次の瞬間、びわは両腕を大きく広げた。
「助けて、
悲鳴にも似た叫びに呼応するように、強い風が吹く。思わず瞼を伏せた明日香の前を、凄まじい勢いで通り過ぎる影があった。
黒く焼け焦げた頭蓋骨にも、人間の生首のようにも見えた。
その首がダムの中に水飛沫を上げて飛び込んだ。何が起きるのかと息を呑んだ直後に、首は水城純治の腕を咥え、小柄な体を引き摺るようにして地面に這い上がってきた。
ずぶ濡れの水城純治は、命のない人形のようにぐったりとしていた。その体を壊れた祭壇のある地面の上に放り出し、生首は現れた時と同じぐらい唐突に消えた。
「あっち! あっちに水城さん落ちた!」
「明日香ちゃん、手引っ張って! 連れてって! あと無花果ありがと!」
無花果というのがあの首の名前か。びわの式神なのだろうか──と思いながら水城の元に走った。
地面に仰向けに転がされた水城の呼吸は止まっていた。明日香とびわと同じタイミングで
「人工呼吸を」
と、その場に膝を付く木端の頭上に、薄い影が落ちた。
岩角遼だった。
「必要ない」
「え? でも……」
「水城純治、起きろ!!」
戸惑った様子の木端を下がらせ、岩角は水城の腹を力任せに踏み付けた。次の瞬間水城は大量の水を吐き、大きく咳き込みながら両目をかっ開いた。
「痛い! 寒い! 痛い!!!」
「当たり前だ。今着ている服を全部脱げ。着替えろ」
「遼……も、もう少し、優しい対応を……お慈悲を……」
「着替えろ」
里中の
直後一同は現地解散し、山田と逢坂は入院、里中と掃除屋たちはダム周りに設置した装置を回収してから響野と明日香に同行してQ県へ、慈信和尚、岩角とは父の葬儀で再会したが、びわと百裏がどうしているかを尋ねることはできなかった。水城純治の行方も、分からないままでいた。
「──人魚の子だからなのかな。それともきみ個人の性質なのかな? とにかく無謀だねぇ。困ったなぁ」
横浜、中華街、木野ビルディング。
突然押しかけてきた明日香を、
以前会った時よりもだいぶ顔色は良い。面会場所もあの病室のような小部屋ではなく、四方を本棚に囲まれた書斎のような、会議室のような、不思議な空間だった。
赤いベルベットのシングルソファに浅く腰掛ける明日香の前に置かれた丸テーブルには、良い香りのするお茶と見たことのない丸いお菓子が並べられている。
「茉莉花茶は嫌いかな? そっちのお菓子は、台湾の旧正月で振る舞われるものだよ」
「茉莉花茶……ジャスミンティー、好きです。いただきます」
お茶で喉を潤し、丸いお菓子を口に運ぶ。中には餡子と塩漬けの卵が入っていて、驚くほど美味しかった。
「秋さんは、その、お身体の方は」
「ん? ああ、見ての通りすっかり元気になったよ。健康を害したというよりは、きみたちが相手にしていたあの怪物……聖一の呪いに巻き込まれていたようなものだから。呪いの根源がいなくなった瞬間、手品みたいにパッと、ね」
プラチナブロンドの髪を揺らして微笑む秋の言葉に嘘はなさそうだ。安堵して、お茶をもうひと口飲んだ。
「それで──番場明日香くん。きみは、なぜ秋を訪ねて来たのかな」
「水城さんは」
口籠ったり、言葉を選ぶ演技をする気はなかった。知りたいことは山ほどあるが、その中でも最優先なのは。
「無事なんですか」
「どうだろう」
無事だよ、と返されると思っていた。そうはならなかった。大きく両目を見開く明日香の前で、秋は困ったように眉を下げる。
「確かにリコリスは、関係者の中でも最後に秋の元を訪れた……と思う」
「思う、とは」
「彼が『中華街がいちばん遠いから最後に回した』と言っていたからね。他の人間への挨拶は既に済ませたと思っていたんだ」
「その……あと、どこに行くか、とかは」
秋はゆっくりと首を横に振った。
「新しい身分証とパスポートは渡してある。でもそれを、リコリスがどう使ったかは、秋には分からない」
「……生きて」
この質問を口にしたらおしまいだと、頭の隅では理解していた。それでも問わずにはいられなかった。
「生きてますか。どこかで」
テーブルの上に置いてあった煙草の箱を手に取り、紙巻きを取り出しながら秋は静かに笑った。
「こちらが生きていると思っているうちは、生きてる。そういうものだよ。人の生き死になんて」
沈黙があった。
もっとたくさん、質問したかった。確かめたかった。だが、沈黙の中で紫煙を吐く秋に、軽はずみに詰め寄ってはいけないような気がした。急に。そんな風に思った。アポもなく押し掛けて来ておいて、そんな突然、馬鹿みたいに冷静になって。
「きみの知りたいことを幾つか」
先に沈黙を破ったのは秋だった。
「山田徹は入院中。彼は無痛症──先天的無痛無汗症に良く似た症状を持つ男だ。それでいて己の力を過信している。もう若くないのだから、少しは怪我に気をつけるべきだと思うがね」
「逢坂一威はそろそろ退院してくる頃だろう。まったく、あの年寄りはいつ本当に引退するんだ?」
「里中銀次は相変わらずだろう。新しい懐刀を手に入れたようだし、まあ、今までとそう変わらず掃除屋たちと一緒にやっていくんじゃないかな」
「岩角遼については──知らない。秋はアレとは相性が悪いんだ。済まないね」
知りたいことの幾つか、ではない。ほとんどすべてがそこにあった。
何度も瞬きをした。涙が溢れそうになっていた。
「秋さん」
「うん」
「澪ちゃん、いなくなっちゃったんです」
「……うん」
「僕も、予知夢を見なくなりました」
「そっか」
「……僕、これからどうしたらいいんでしょう」
何もかもが遠かった。聖一に命を狙われるのは怖かった。澪が死んだ時は悲しかったし、悔しかった。穣が殺された時も。父親まで失って、本当に目の前が真っ暗になった。だが、絶望する明日香の傍にはいつも誰かがいた。彼らはヤクザで、殺し屋で、まっとうな人間では決してなかったし、正義のヒーローとして明日香を支えてくれたわけではないと理解してはいるが、それでもあの狂騒の数日間、明日香は孤独ではなかった。
今は。
ひとりだ。
「明日香くん」
秋の低い声が、穏やかに響く。
「秋は予知能力者ではないが、想像することはできる。きみ、このお茶会にお金を払おうと思っているね」
「!」
「しかし秋との個人面談は決して安くはない。そこできみは分割払いを申し出ようと思っている。それを言い訳に、何度もこの部屋に足を運ぶために」
心を読まれていた。涙が一滴、頬を伝うのが分かった。
「だって」
「いけないよ明日香くん。きみはね、こんなところに足を運んで良い側の人間じゃない。ここは悪い場所だ。きみと会うのは今日が最後。秋を頼るのは、これで最後だ」
「だけど!」
孤独だった。途方もなく。
耐えられる気がしなかった。
「スマホ持ってる?」
「……え?」
問い掛けに、ほとんど思考停止した状態で自身のスマートフォンを取り出した。
「誰かと連絡先の交換をした?」
「あ……響野さん、と。あと、びわちゃんと、ソシャゲの、フレコ交換を……」
「それじゃあ、響野憲造にでも連絡をしてみるといい。彼は大した特技もないつまらない男だけど、きみの友だちになるぐらいはできるだろうから」
ひどい言い草だと思って、少し笑ってしまった。響野は立派に役目を果たしていた。少なくとも、明日香にとっては。
「枇杷──あの子にも、個人的に会うぐらいは許されるんじゃないかな。そうだ、歌舞伎町のあの喫茶店で合流するといい。あの店は別に、ロクデナシ専用ってわけじゃない。誰でも、いつでも好きな時にコーヒーを飲みに行って構わないんだから」
手の甲で涙を拭った。そうだ。逢坂一威にお礼を言わなくちゃ。お見舞いに何か美味しいものでも買っていこう。響野憲造に連絡をして、逢坂の好きな食べ物を聞いて。びわにもまた会いたい。できれば百裏にも。
「明日香くん、きみ、大学生だったよね」
「はい。しばらく、お休みしてましたが」
「じゃ、復学なさい。はいこれ」
と、秋が差し出したのは三菱UFJ銀行の通帳だった。明日香名義になっている。
「番場蜜氏が送ってきたんだ。速達でね。人魚って速達が好きなの?」
それは明日香には良く分からない。だが。
通帳には、学費として使うには多すぎる金額が記載されていた。
「番場恭二氏と、妻の青氏が貯めていたものらしいよ。彼ら、もしかしたら夢でこの顛末を予知していたのかもしれないね」
大学にも友だちはいる。突然自主休学した明日香を心配してメッセージを送ってくれたゼミの友人や、サークルの仲間もいる。彼らを巻き込みたくなくて、誰にも返信をしていなかった。
「戻る場所がある人間は、秋のところに二度と顔を出してはいけない」
「そういうルールなんですか?」
「いや。今思いついただけ」
「そうですか……」
家に帰る。掃除をする。父の骨を持って海に行く。会えたら蜜と義母に会って、これからも地上で生きていくと伝える。やらなければならないことがたくさんあった。番場明日香は孤独だけれど、ひとりではなかった。戻る場所がある。
「あの、秋さん」
「ん?」
「最後にひとつだけいいですか」
「いいよ」
「なんで水城さんのこと、リコリスって呼んでるんですか?」
問い掛けに、あはは、と秋は可憐な少女の顔で笑った。
「リコリス・ラジアータ。これは学名。日本では主に彼岸花って呼ばれている花の名前だね。あとは曼珠沙華とか」
「はあ……」
「彼岸花って、結構色んなところに咲いているだろ? 見たことない?」
「あります。あの、畑とか、道端とか、色も何種類かありますよね、赤以外にも白、黄色……」
「そうそう。でね。彼岸花っていうのは球根に毒があって、所謂害獣……畑を荒らすモグラとかネズミとかね、そういうのをどうにかするためにあっちこっちに植えられた花なんだよ。それと墓地にもね。昔はほら、土葬だったから。遺体目当ての獣を撃退するために……ね」
ところが、と秋はその整った顔の前で両手を組み、キラキラと瞳を輝かせる。
「なんと、その彼岸花! なんと昔々飢饉の時期には非常食としても使われていたというから、本当に有能な花で」
「えっ、食べられるんですか?」
「うん。秋も一回だけ食べたことある。美味しいもんじゃないけどね、何度も毒抜きしなきゃいけなくて面倒だし」
水城純治はそういう男なんだ、と秋は誇らしげに言った。
「毒にもなれば食糧──他者の命を救う武器にもなる。リコリス・ラジアータ。誇り高く、美しい男だ」
「……また、会えるでしょうか?」
「最後にひとつって言ったでしょ」
ビッと伸びた秋の指先が、明日香のくちびるに触れた。
「もう帰りなさい、番場明日香。きみの人生が、美しいものでありますように」
木野ビルディングを出た明日香は、中華街のざわめきの中をゆっくりと歩く。駅に着いて、電車に乗ったら、まず大学の友人たちに連絡をしよう。それから響野憲造にもメッセージを送って、それから、海に行く予定を立てて。
ああ、バイト先にも連絡をしなくては。コンセプトバーのバイトは気に入っている。無断欠勤を重ねたせいで馘にされていなければいいのだけど。
リコリス・ラジアータ。
甘くて毒のあるその響きを、いつか、舌先に乗せたいと思う。
「……さよなら、リコリス・ラジアータ」
交差点で立ち止まり、小さく小さく呟いて、信号が青に変わるのを待った。
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