5 - 明日香
山田徹の顔が強張るのが、明日香にも分かった。この男は里中銀次に対して強い感情を抱いている。恋や愛に似た、もしくは似ているだけでそのどちらでもない感情を。その里中が目の前で聖一に吹き飛ばされたのだ。冷静ではいられまい。
だが、山田は祭壇を飛び降りてダムの対岸に駆け出し──はしなかった。膝の上に座るびわと、祭壇の上で人形のように固まっている明日香、そして百裏に向かい、
「打ち合わせの内容は覚えてるな? 幾つも指示を出されて混乱しているかもしれないが、今一度言っておく。おまえら3人は最後まで絶対に死んではいけない」
「でも、徹さん」
声を上げるのはびわだ。真剣な眼差し──そこには何も映っていないはずなのに──で山田を見上げながら、びわは言った。
「
「完全に回復した、と自分で思っている場合は大抵、半分しか戻ってない。まだ休め」
「でもっ」
砂埃に塗れて倒れていた里中が、よろよろと体を起こすのが見えた。
「和尚、大丈夫か?」
「俺の車椅子は特製だ。おまえこそ大丈夫か、里中」
吹き飛んできた里中に巻き込まれたとはいえ、確かに慈信和尚の座る車椅子は横倒しになったりはしていなかった。数珠を手首に提げた老僧侶が、枯れ枝のような手を伸ばして里中を立ち上がらせる。両足の小指がないという里中は、大きくよろめきつつも車椅子に縋って真っ直ぐに立った。
「逢坂さん……」
「俺と同じ世代とは思えないな。年を取るのは見た目だけで、中身はどんどん若返りやがる」
慈信和尚が呆れたように笑う。彼、彼らの目の前では、逢坂一威が重力をまるで無視した動きで聖一の体を切り刻んでいた。
聖一が本当に龍ならば、鱗の中に『逆鱗』というものが存在するはずだ。それを知ってか知らずか、軽業師のように飛び回る逢坂は、響野が言うところの『人魚が殺意を持って作った宝刀』を振り回している。刀の切っ先が、銃弾の残した傷を抉る度に聖一は苦悶の声を上げた。ダムの周りに次々に雷を落とし、松明を、ライフルを破壊するが、それでも逢坂は決して彼の体から振り落とされはしない。
落とされれば死ぬ。明日香は背中に冷たいものを感じながら、そう思った。
逢坂一威は、確かに同世代の男性に較べれば頑健な体を持ち、身軽な動きができるタイプの人間だろう。だが年齢は70代……もしくはもっと上かもしれない。嘗ては東日本をひとりで制圧するほどの凄腕の殺し屋であったと聞く。だがそれは、昔の話だ。明日香も、澪も穣も、下手をすれば山田徹さえも生まれる前の話だ。
年月は流れ、それによる余波はどんな人間にも容赦無く降り注ぐ。
「ガアアアアアアアアッ!!!」
聖一が吠えた。
(逆鱗!)
澪と穣が声を揃える。
百裏、びわ、それに山田にも聞こえたのだろう。いや、もしくは聖一の声に混じる怒りの色に気付いただけなのか。
びわを抱えた山田が明日香の白装束の腰を引っ張って祭壇から引き摺り下ろし、百裏が祭壇を力任せにひっくり返して盾にする。
案の定、稲妻がその場を直撃した。
「同じ値段を払うなら全部に『祈り』を込めてもらえ、と銀のやつも言ってたが……正解だったな」
祭壇が弾き返した雷が、ダムの縁を大きく削った。何かが水に落ちる嫌な音がした。
「殺す! 殺す、殺してやる!!」
喚き散らす聖一の声の向こうで「おじいちゃん!」という響野の悲壮な声が響く。
「振り落とされたか? まさか……」
山田の呟く声に、明日香は嫌な予感が強まるのを感じる。龍の逆鱗に刃物を突き刺したのだ。ただでは済むまい。たとえ逢坂一威が、一騎当千の殺し屋だったとしても──
(明日香!)
やっぱり行く、
(見て)
指し示す先に、ひとりの女性が立っていた。名前は知らない。ただ、銃撃を指示する里中銀次の傍に立っていたような気がする。
十頭身はありそうな長身、体のラインを強調するワインレッドのスーツに身を包み、足元は高さ15センチはありそうな黒いピンヒール。黒い大きなマスクで顔の半分を覆い、髪はベリーショートの金髪で、縁のない眼鏡をかけたその女性がダムを囲む木々の中に手で合図をした。
聖一による落雷で一旦は退避した里中の部下たち、中でも怪我の度合いが軽いと見える数名が、男をひとり引き摺りながら姿を現した。
「大蛇様」
女の声は低く、しかし恐ろしいほどに良く通った。
「ご覧あそばせ、大蛇様」
スーツのふところから紙を取り出し、聖一に向かって広げながら女は続けた。
「あなたは瞽女迫に予知の力を与えたが、それは中途半端なものだった。それで瞽女迫は番場を利用した。不完全な予知を補うために、番場の
女の前に転がされた、やはりスーツ姿ではあるが両手を背中で戒められ、靴すら履いていない男に見覚えがあった。
「
長い期間明日香を庇護してくれていた、掃除屋の筆頭・斗次が、まるで生贄の仔羊のようにそこにいた。
聖一が動きを止める。両方の目は塞がれているはずなのに、その顔がぐっと女に近付いた。
額にもうひとつの目があることに、明日香は不意に気付いた。古い切り傷のようにしか見えないそれは、3つめの目玉を覆う瞼だった。金色の瞳が女を見て、女が持つ紙を見て、それから斗次を見下ろした。
「──これは、3枚目の家系図。本来ならば存在しないはずのもの」
「その通り。なぜ貴様がこれを?」
「私じゃない。これは秋という情報屋が手に入れたもの」
「秋……あのオンナか。食い殺しておけば良かった」
「秋さんはおまえには殺されない。それにもう全部バレてる、ねえ斗次さん。なんとか言ったらどうなの」
斗次。
明日香ももう、気付いていた。
あの日、響野憲造と共に横浜の、病床の秋に会いに行った際に手渡された一文字。
『
「……瞽女迫」
斗次が唸った。まるで人間の声ではなかった。
「おまえらを、恨んでいる。俺が、最後の、生き残り」
「さよか。でもおまえはもう死ぬで」
里中銀次だ。杖を突きつつ近付いてきた彼が斗次の傍らに膝を付き、髪を掴んで強引に顔を上げさせる。
聖一が、斗次の歪んだ顔を静かに覗き込む。
「
「そうだ、覚えて……」
「瞽女迫はある時、俺に嫁を差し出すのをやめた。能力を分け与えた直後だったな。自力で予知ができるなら、俺は不要と考えたのだろう」
「俺たちは、皆死んだ。瞽女迫に、殺された」
「そうか、そう──」
Q県で話を聞いてきた、と里中が語っていた情報を思い出す。澪の祖母、梅の代辺りから瞽女迫の予知能力は急激に弱まっていったのだという。それで瞽女迫家は、番場家、
「俺としてもな、斗次。おまえをどうにかしてやれんかと思うとったんやけど」
里中が低く語りかける。
「せやけどおまえ。聖一への忠誠を示すために、虹原殺しを容認したやろ」
「──っ! それ、は……!!」
(あの子、売られたんだねぇ)
澪のため息が聞こえた。
斗次は確かに、生贄の一族の悲劇の末裔なのかもしれない。
だが彼も、虹原を
「お返しするよ、聖一さん!」
ワインレッドのスーツの女が斗次の体を抱え上げ、ダムの中に放り込んだ。悲鳴すら聞こえなかった。ただ響き渡ったのは、
ごり ごり ごり ごり ごり
何かを砕く音。
「石臼……?」
山田が呟いているが、石臼ではないことは明白だった。
(骨を砕いて柔らかくしてから全部食べる、それが聖一のやり方)
澪が吐き捨てている。
(私も右脚全部砕かれたけど、途中で乱入してきた男のお陰で他の部分は無事だった。だからこうして明日香の傍に来れたんだけど……そういえば、あの人誰だったんだろう?)
すぐ分かるよ、と明日香は内心呟いたが、どうやら明日香には届いていない。
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