4 - 明日香
岩角の鉛玉を跳ね除けた時のようにライフルから放たれる無数の銃弾を叩き落とそうとする聖一の長い体が、一瞬硬直したように見えた。
いや、硬直した、のだ。
曳光弾が放つ光を追うようにして、無数の銃弾が硬い鱗の上に着弾する。聖一にしてみれば鉛の銃弾など、痛くも痒くもないはずなのだが、
(……ね、なんか聞こえない?)
澪が訝しげに呟き、明日香は黙って耳を澄ます。声が聞こえる。それも人間ひとりのそれではない。数名の、数十名の、男性の声が。
経を唱えている。
ぎゃてえぎゃてえはらそぎゃてえ、という響きは、般若心経の一節だ。
「銃弾ひとつひとつに」
傍らの山田が低く言った。肩から流れる血の止血にようやく成功した様子の彼は、ポケットから潰れた煙草の箱を出して火を点けている。膝の上に座るびわが大きく顔を顰めているのに気付きもしない。岩角に見られたらどれほど叱られることだろう。
「
「……祈り?」
そのあまりに胡散臭い響きに明日香は思わず眉を寄せ、山田はカラカラと明るい笑い声を上げる。
「そうだ、祈りだ。あの怪物を野放しにしていたら人間様の平和が壊されちまう。だから神様仏様、どうか怪物討伐に力を貸してください、っていうお祈りをさ」
祈りというのはそんな風に使っても良いものなのだろうか。そりゃあ瞽女迫の人間たちだって、予知の力を金儲けに全振りして使用してはいたけれど。
「いいんだよ、どんな風に祈ったって。目的がなんだって、別に構わない。それで、どこの誰が幾つの銃弾に祈りを込めたかを、全部──」
と山田は火の点いた煙草を持つ右手で対岸に立つ里中を示し、
「銀の野郎が把握している。どのライフルにどの銃弾が込められているかも知っている。誰の祈りがいちばんの効果を示したか、あいつは今無心でカウントしているんだ」
「え──」
そんなことをしているのか、里中銀次は。慌てて目を凝らすが、短くなった煙草を足元に捨てて革靴で踏み付ける里中の表情からは何の感情も読み取ることができない。
「信じられないか? だろうな。アレで一応、俺たちが昔所属していた戸川組って組織の金庫番の助手みたいなことをやってたんだ、銀の野郎は。あれの特技は人殺しじゃない、金勘定だよ。『祈り』を依頼した宗教関係の連中には前金をそれなりに渡してあるが、現場での結果次第ではボーナスを弾むとも告げてある。さて、どうなるやら……」
山田は完全に楽しんでいた。彼の吐き出す紫煙を鬱陶しげに手で追い払うびわは、
「
「んー? 首か? 今はいいよ、ちょっと休憩しな」
少女の問いに優しく応じながら、山田は龍が纏う黒い雲を引き剥がしにかかる銃弾の嵐を真っ直ぐに見詰めていた。
(ていうか、……般若心経は誰が?)
澪が呆れたように問うた。そういえば、そっちの質問には答えを貰えていない。だが山田がこれ以上口を開く気配はない。
明日香はきょろりと辺りを見回し、耳を澄まし──そうしてようやく声の出どころを見つける。
いちばん大きな
ひとり。ひとりだ。ダムの側には、慈信和尚ひとりしかいない。
「録音」
山田がクツクツと喉を鳴らしながら言った。
「何を流すか揉めたんだが、まあ慈信さんに来てもらうなら般若心経だろってんで。祈らせるついでに集めて回った経を流している」
ということは、LED松明に加えてスピーカーも用意されているということか。もう訳が分からない。
「神様気取りの怪物風情に、本物の坊主を何百人もスタンバイしてやる必要はねえだろ?」
(それはそうかも)
「ふざけるなよ!!」
聖一が吠えた。頭上にはもう、人間の顔はなかった。龍だった。龍がいた。
いや、彼が本当に龍なのかどうか、明日香には良く分からなかった。何せ正解を見たことがない。それを言うならば、叔母である蜜と、亡くなった実母が人魚だという話もいまいち理解し難いと感じていたし、この件に人間以外の何ものかが深く関与していると言うのは分かっているのだが、しかしそれを、『龍』だとか、『人魚』だとかいう言葉の檻に軽率に放り込んで良いものなのか──
「おまえたちはいったい何が目的なんだ!? 俺の邪魔をするな!!」
吠える声とともに、強い光が疾った。稲妻だ。
聖一の黒い鱗は傷だらけだった。血が滴っていた。その血が揺れて、膨らんで、弾けて、雷になる。落雷が松明とライフルを直撃した。山田が身に付けているワイヤレスマイク越しに、里中の大きな舌打ちが聞こえた。
『退避!』
逃げ切れなかった者もいただろう。夜目にも分かる。雷に弾かれるようにしてその場に昏倒する狙撃手が、何人もいた。
『余裕があるやつは倒れたやつ引っ張って退避! 余裕がないやつはできるだけ遠くへ!』
怒鳴りつけるように命じる里中銀次はしかし、持ち場を離れようとしない。彼のすぐ後ろで、慈信和尚が般若心経を唱え続けているのだ。
「おまえも正義の味方気取りか? 自分では引き金のひとつも引けないくせに」
狙撃手たちを一掃したことで少し気を持ち直したのだろう。雲の中からぬるりと這い
「坊主を守って、殉死するのか?」
「あのなあ、さっきからおまえ……誰が正義の味方やって?」
里中が、ようやく聖一の顔を見た。新しい煙草に火を点けながら、彼は静かに続ける。
「俺は今金勘定しとるんや。ちょっと黙っててくれんか」
「ああ?」
「おまえを弾いた銃弾作った連中にボーナス払わなあかんからな……俺はもう金庫番でもなんでもないはずやねんけど……」
「ボーナスだと? 今、この状況で、カネのことを考えているのか?」
聖一は激昂していた。先の落雷でスピーカーもほとんど壊れてしまったのだろう。慈信和尚の肉声だけが、淡々と般若心経を唱え続けている。
「なんやおまえ、俺の頭ん中が読めたりするわけと
紫煙を吐き出す里中が、火の点いた紙巻きを聖一の鼻先に弾く。聖一の、人間の顔がぐにゃりと歪み、瞬きひとつする間もなく怒れる龍がその場に姿を現していた。
牙を剥く聖一を前に、里中は身動ぎひとつしない。ただ重い奥二重の目をゆっくりと細め、
「出番ですわ、真打登場ってやつ?」
マイクに向かって囁いた。次の瞬間、闇の奥から神主装束の老人がぬるりと姿を現した。
逢坂は里中の背中を踏んで高く跳び、聖一の鼻の上に着地する。
「ジジイ!」
「おうよ、だが今夜の俺は神主だ! なんの意味があるのか良く分からんがな!」
口を大きく開けて己を飲み込もうとする聖一に不敵に笑いかけた老殺し屋が、愛用の回転式拳銃の引き金を引いた。左目、右目、それに鼻先。だが聖一の動きを完全に止めるまでには至らない。地上の里中から
夜空を
龍が血を吐いている。大量の赤い血を吐き、宙空でのたうち回っている。
「それは──────人魚の宝刀ですっ!!!」
小刀を口に咥え、ダムに放り込まれぬよう荒れ狂う龍の鱗を掴んで耐える逢坂の背中越しに叫んだ者がいた。響野憲造。両手で拡声器を構えている。
「聖一さん、あなたが知らない海に住む人魚が、殺意を持って作った本物の刀です! 逃れられると思わないでください!」
「人魚……!? 人魚は殺した! 皆殺した!!」
血の塊を吐き出しながら聖一が喚く。
「海は広いぞ大きいぞ、狭い山の中で神様ごっこをしていたあなたには分からないほどに!」
「ふざけてるのかクソガキ!」
「おい、俺の孫の与太を聞くのはそんなに楽しいか? まあ、俺は俺の仕事を遂行するまでだが」
『祈り』を込めた銃弾は確かに効いていた。銃弾によって負った傷を苦手とする塩水──海に住む人魚が作った刀で抉られ、聖一はもはや息絶え絶え、かのように見えた。
頭上の黒い雲から、再び雷が落ちた。的確に里中の足元を抉った。跳ね飛ばされた里中の痩躯は、背後の慈信の車椅子を巻き込んで倒れた。
般若心経が止む。
「あっ……」
響野憲造が、拡声器越しに露骨に絶望の声を上げた。
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