2 - 明日香

 目の前の生き物を聖一と呼ぶべきか否か、明日香にはもう判断ができなくなっていた。体がどんどん大きくなっていく。明日香の顔を覗き込む、明日香が知る『聖一』の顔だけがそのまま残り、全身が──真っ黒い影のように、長く、長く伸びて、とぐろを巻いて──

 祭壇の周りを、ぐるりと囲まれた。気付くのにそう時間は掛からなかった。見えぬはずの両目を見開いたびわが甲高く舌打ちをする。


苔桃こけもも?」

「気にするな。続けろ」

「りょ!」


 一瞬動きを止めたびわだったが、すぐに飛び跳ねるようなダンスを再開する。びわの動きに完全に同期するように宙空で動きを止め、ぽかんと口を開き舌を垂らしていた生首たちが、月の光に反射して光る黒い鱗に歯を立て始める。

 だが、硬い。見るからに。鱗の硬さに勝つことができず、砕けた白い歯が四方に飛んだ。明日香はできるだけその光景を視界に入れないようにする。じっと自分を見据え続ける、聖一の視線に耐えることだけに専念する。


「明日香、聞こえないふりはやめなさい。俺の目を見て。ほら、分かるだろ?」

「──」


 聖一の、目を見る。目を見てはいけないとは誰にも言われていない。ヤクザたちにも、住職にも。だから明日香は聖一の左目を覗き込んだ。

 そこには、子どもがいた。

 少年がいた。


「……ゆたかくんっ!!」


 声を発してしまった。聖一が笑う。くちびるの両端が耳まで裂けて、真っ赤な舌が明日香のくちびるに触れようとする。

 咄嗟に体を仰け反らせて避けた。びわの操る生首が、明日香と聖一のあいだに勢い良く割り込んだ。知っている顔だった。これは、瞽女迫の──


「明日香ちゃんに触るな! 変態!!」


 長い舌を食い千切ろうとする生首を鬱陶しげに叩き落とした聖一は、大きく溜息を吐きながら右目を閉じた。左目の中で膝を抱えている、穣、瞽女迫穣の姿がより一層鮮明になる。


「穣の能力は回収した。俺にも未来が見えている。明日香」

「──っ」


 なんてことを、なんて酷いことを。

 穣を殺したのは聖一だと、山田徹から聞いていた。だが聖一は証拠を残さないから、水城純治が引き金を引き、拳銃をその場に放置することで瞽女迫穣の死を事件にしたのだと。水城は今も警察に追われている。ニュースにもなっていた。純喫茶カズイで顔を合わせる水城純治はいつも笑顔で──そうだ、バイト先の店前で得体の知れない連中に襲われた時も、その前夜に明日香は自分が殺される夢を見ていたというのに、そしてそれが回避不可能な予知夢だということも分かっていたのに、水城はその予知を、運命をぶち壊した。ゲームセンターで大量に確保してきたぬいぐるみ、という武器を使って。


 水城純治は子どもを殺したりしない。それなのに穣殺しの罪を背負っている。


 こいつのせいで。聖一とかいう怪物のせいで!


 奥歯をきつく噛み締めて、聖一を睨み付けた。正確には彼の目の中にいる穣を真っ直ぐに見据え、声にならない声を張り上げた。


 僕だ、番場明日香だ、穣くん、そこにいるなら手を貸して。


「無駄だよ明日香。おまえは夢見人ユメミ。金に狂った偽りの能力者気取りとはいえ、瞽女迫には敵わない」


 傍らのびわが数回、祭壇に膝を付くのが分かった。息もかなり荒くなっている。反対側の隣に座る百裏は今のところ海水を一度撒いたきりで大きな動きをしてはいないが、聖一の声はどうやら彼の耳にも届いている、ような気がする。


「使用人がご主人様に逆らうなよ」


 真っ赤な舌が嘲るように言った。

 瞬間、


「火を!」


 百裏が吠えた。

 ダムの、決して小さくはないダムの周りに設置された無数の松明に火が灯った。

 聖一が弾かれたように顔を上げ、そうしてすぐに忌々しげに鼻の上に皺を寄せる。


「明日香、おまえ──」


 生臭い、息の匂いがした。

 怪物の匂いだ。人間の匂いではない。

『聖一』とは呪いの名前、と言ったのは誰だったか。

 彼はもう番場明日香の知る、瞽女迫聖一ではない。いや、そもそもそんなもの、どこにも存在しなかったのかもしれない。


「そこに穣がいるのか?」


 明日香の真後ろから、声がした。のっそりと立つ長身の男の気配からは、どこか温かいものを感じた。

 山田徹。


「いるなら返してもらおうか。穣に個人的に相談を受けていたのに、助けられなかったのはこの俺なんでねぇ」


 祭壇の角を蹴り、そのがっしりとした体躯からは想像もできないような動きで山田は跳んだ。生首たちの使役を一時休止しその場に蹲って荒い息を吐くびわと、耳を澄ませて聖一の声を聞く百裏、それに怪物と相対し続ける勤めを果たす明日香の頭上を跳び越えた山田が、右手に握った鉄の棒を振った。

 山田と水城が、ラブホテルの一室、作戦会議室と呼ばれていた部屋に大量のバールだの巨大なニッパーだのを運び込んでいたことを、明日香は知っていた。

 地面に着地するより先に山田は左足を振り上げ、そのつま先が聖一の顎を強かに打った。まるで首だけの生き物のように暗闇の中に弾んで消えた聖一の顔を、山田は迷わず追っていく。


「上です!」


 百裏が叫ぶ。山田は自分の目で確認する手間さえ惜しみ、頭上に向かってバールを突き上げた。ぐうっ、という声と共に聖一の首がまた弾んだ。

 祭壇を取り囲んでいた聖一の体が、真っ黒な蛇の体が、びくりと大きく跳ねた。


「向かって右! 見えますか山田さん!」

「なんも見えねえ!」


 百裏の呼びかけに応じる山田の声は、笑っていた。


「だがな穣、おい聞こえるか瞽女迫穣! 助けてやれなかった俺の言うことなんて聞きたくないかもしれねえが──!!」


 聖一の長く伸びた尾が、その先端が、山田の左肩を貫いた。

 同時に、山田が右手に引っ提げたバールが、聖一の左の眼窩に叩き込まれた。

 血飛沫が上がる。山田の血だ。祭壇を飛び降りた百裏が、その場に倒れ込んだ山田の腕を掴んでずるずると引きずる。祭壇の上に乗せようとしているらしい。手伝わねば、と思って立ち上がりかけた明日香の前で、


「穣!」


 と吠える声が聞こえた。聖一だ。


「穣! 穣! 穣! なぜ目を閉じた! ! !!」


 左目からだらだらと血を──鮮血を流しながら、聖一が、怪物が、全身をのたうたせながら叫んでいた。

 聖一は、こんなことになる以前に山田と顔を合わせている。山田の左腕が欠損しており、右腕だけで生活している……例えば純喫茶カズイでコーヒーを飲む姿だって目にしているはずだ。明日香もその場に居合わせたのだから。

 それなのに。


「偽りの神様、偽りの預言者、偽りだらけの事件ですからね。山田さんの右手が生えてるって設定にしたって、誰も困らないでしょう!?」


 山田の巨躯をようやく祭壇の上に引きずり上げ、百裏が叫ぶように言った。

 百裏は普段、成人男性の姿をして生活している。それも身長180センチ、体重100キロ越えの大男だ。だが本来の姿は明日香よりも少しばかり長身の痩せぎすの若者で、だから、彼は──


「枇杷ぁ!」

「びわちゃん回復っ! いきますっ!!」


 百裏が作る幻覚の中にびわが飛び出した。



 声が響いた。

 澪だ。

 明日香の傍にいる、澪が声を発した。

 聖一の目の前だから、聖一が狙っているのは澪だから、できるだけ黙っていてくれと、何か伝えたいことがあるならコトが始まる前にして欲しいと頼んでいたのに。


「澪っ!!!」


(あの子たち、殺されちゃう、明日香)


 聖一が笑う。狂ったように笑う。

 明日香の背中を冷たい汗が伝う。左目を潰すことで、穣は解放されたのだろうか。痛みを感じない体を持つという山田徹だが、それでも大量の出血のせいで意識が朦朧としているらしい。祭壇に仰向けに倒れた彼は僅かに顔を起こし、


「誰か……なんか言ったか……?」


 山田にも──澪の声が聞こえたのか。

 青褪めて首を縦に振ることしかできない明日香の傍らを、しなやかな影が通り過ぎた。

 岩角遼だ。


「びわ、百裏、下がれ」


 長い黒髪をうなじの辺りでひと纏めにし、その美貌のためだけに誂えたと思しき濃紺のスーツに身を包んだ彼の右手には、拳銃が一丁握られている。


「次は俺の相手をしてくれよ、蛇野郎」

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