第六章 水底
1 - 明日香
白無垢姿の明日香の両隣に、同じく白装束に身を包んだびわと
目の前に広がる巨大なダムには今のところ何の変化もない。ただ、明日香たち3人が座る簡易的な祭壇だけが、真っ暗な夜の中で不自然な光を放っていた。
岩角も里中も、それに山田も水城も。明日香の目の届く場所には誰もいない。両隣に座る若いふたりだけが命綱であり、
(最悪、僕が死んでも……)
明日香は逆に、自身がふたりの命を守る覚悟を決めていた。瞽女迫も番場も滅びていい。だが、まだ若い、そして『果樹園』という地獄を生き延びてきたびわと百裏の人生を、こんなところで終わらせたくはなかった。
「明日香ちゃん」
びわが小さな声で言った。
「寒くない?」
「……ちょっとね」
「だよね。カイロ2個だけなんて無理だよね」
3人とも、白い着物の上から透けて見えない位置に使い捨てカイロを貼り付けていた。だが寒い。寒すぎる。
「びわ、合図だ」
「む!」
百裏が低く声を掛ける。軽口を止めたびわはくちびるを引き結んで背筋を伸ばし、すうっと息を吸い込んだ。
「──はじめに、鶏が鳴きます」
岩角遼の愛娘が、澄んだ声を上げる。
その後を追うように、百裏が三度、鶏の鳴き声を模したような声を張り上げた。
「大蛇様を、お招きいたします」
「大蛇様」
「大蛇様」
「大蛇様」
「大蛇様」
「大蛇様──」
ふたりの声が満月の下で絡み合い、溶け合って、そうしてダムの水面を僅かに揺らした。
僅かに。
いや。
あれは。
水の上に、人の姿があった。
人ではない。人に化けた、怪物の姿だ。
聖一。
「大蛇様」
「大蛇様」
「大蛇様」
「大蛇様」
百裏は月を見上げ、びわは目を閉じて粛々と繰り返す。まるで聖一の姿など目に入っていないかの様子で。
明日香は正座の膝の上でぐっと手を握り、水の上を優雅に歩く聖一を凝視した。
黒い髪、黒い着物、白い肌。
月光に反射して光る瞳。彼の目はあんな色だったか。
澪と穣の兄を気取っていた頃の聖一は、もう少し人間ではなかったか。
あれは。
誰だ。
「大蛇様──」
びわの一際澄んだ声が、宙空で揺れ、溶けて、消えた。
「明日香」
聖一の声がした。
いつの間に、こんなに近くに来たのだろう。
距離にして1メートルもない。目と鼻の先に、聖一の姿があった。腰を曲げ、奇妙に体をくねらせて、祭壇の上の明日香の顔を覗き込むようにして見詰めている。
「明日香。澪を、渡しなさい」
返事をしてはならない、と言われていた。水城が連れてきた住職、慈信から。彼は自分のことをインチキ住職だと言っていたが、この計画には熱心に関わってくれた。明日香が口を開くのはいちばん最後。できれば何も喋らずに済めば最高。だが、そう、うまくいくかどうか。
「明日香」
聖一はほとんど口を開かずに喋る。だが、その僅かに開いた形の良いくちびるの中から、赤い舌がチロチロと覗いているのが分かった。
蛇め。
「澪を」
聖一が手を伸ばす。黒い着物の中から伸びてくる白い腕は、まるで闇の中でしか育たない奇妙な植物のようだった。
明日香は動かない。黙って、聖一を見詰めている。
「大蛇様」
びわの声がした。
「大蛇様。お返ししましょう、大蛇様」
「は?」
聖一はびわの方を見ない。明日香だけを真っ直ぐに見据えたまま、しかし短く嫌味ったらしい声を上げた。
びわが立ち上がる。
「お返ししましょう、大蛇様!」
閃光が走った。
聖一が、弾かれたようにその場を飛び退いた。つい今まで彼が立っていた場所には、大きな穴が空いていた。
「お返ししましょう、お返ししましょう!」
大声で繰り返しながら、びわはその両手を天に掲げ、舞い踊るように体をくねらせ、ステップを踏んでいる。びわは明確に聖一の喉笛を狙っている。聖一を殺すつもりでいる。
びわの未だ子ども染みた指先が操るのは、無数の生首、それに既に骨になった頭蓋骨だ。
そのすべてがカチカチと歯を鳴らし、聖一の周りを取り囲み、彼を噛み殺そうとする。
悲鳴を上げそうになるのを、明日香は必死で堪えた。びわの武器は、死んだ瞽女迫の人間たちだ。つい先日亡くなったもの、嘗て、明日香が生まれるよりもずっと前に聖一の癇に障って殺されたもの。くちびるの端から血を滴らせる生首の中には、良く良く見知った顔もあった。ほんの数日前までは、生者としてこの世に在った瞽女迫の人々。今や皆、此岸の者ではない。
慈信和尚との初対面の日、びわ、百裏、それに岩角は純喫茶カズイにはいなかった。彼らはQ県の、瞽女迫と番場の家を訪ねていた。ほとんど全員死んでいた、と岩角は言った。ほとんど、ということは生きている者もいるのかという明日香の問いに、
「スナック感覚で後で食おうと思って残してある可能性もある。生きている人間には会うことができなかった」
と岩角は無感情に応じた。
『果樹園』という組織で育ったびわの特技は、犬神作りなのだという。犬を一頭、首だけ残して土に埋め、目の前に食糧を置いて飢えさせる。決して食わせてはならない。十日ほど放置して、犬の視界に作り手の姿が入らないよう背後から、鉈や斧でその首を切り落とす。そうして手に入れた犬の首を新月の晩戌の刻、人が大勢行き交う辻に埋めて一ヶ月ばかり放置する。できるだけ大勢の人に首を踏ませる必要がある。一ヶ月後、首を掘り出して白木の小箱に納めることで、犬神は完成する。
「が、十日も一ヶ月も時間はありませんので」
と、びわは言った。用意された白無垢、白い着物に袖を通しているタイミングで彼女は口を開いた。
「瞽女迫の皆様の首をお借りします」
返す言葉もなかった。なぜそんな残酷なことを──と食ってかかることすら、明日香にはできなかった。びわはそれほどまでに、真剣な目をしていた。
「犬神は、神と称されてはいるもののその本質は呪いです。自分を土に埋め、首を刎ねた人間を本来ならば呪い殺したいところを、作り手は顔を隠し、身分を伏せることで犬神の憎悪を他の誰かにぶつけます」
ですので、と白装束に身を包んだびわは凛とした声で続けた。
「瞽女迫の皆様の、聖一への憎悪を、お借りします」
「そんな──ことが」
できるのか。本当に。犬神というのは、対象が動物だからこそ作り出せる呪物ではないのか。人間の首を使うなんて、そんな。
「できます」
口を挟んだのは百裏だった。
「びわには、人間の首で神を作ることができる」
ガチッ、ガチッ、と歯が鳴る音が聞こえる。呪いと化した、仮初の神となった瞽女迫の首が聖一を追い回している。初めは薄ら笑いを浮かべていた聖一が、次第に真顔になっていくのが少しばかり怖かった。
その目が、びわを見た。
「畜生使いが!」
吠えた。
腹の底からの罵倒と共に聖一は首を蹴散らして、びわを狙う。明日香は動くこともできない。動いてはならないと命じられている。
転瞬。
「海」
祭壇の上で踊り狂うようにして首を操るびわと、彼女の心臓を狙う聖一のあいだに、まるで手品のように水が噴き上がった。
「ぐっ!」
苦鳴を押し殺した聖一がたたらを踏む。百裏だ。
「こちらには人魚の海がございます。大蛇様」
慇懃無礼に百裏は言い、ゆるく握った拳の中から水を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます