幕間

1 - 雑談

 25時。番場明日香、びわ、百裏、それに逢坂一威がこれから行う儀式の準備をしているあいだ、水城純治はずっと慈信じしん和尚と話をしていた。ふたりの間にも5年間の空白があった。


 水城は秋の手引きで日本を逃げ出して以降、ずっと韓国と台湾を行き来して過ごしていた。殺しの仕事は引き受けていない。韓国には、水城が玄國会を破門になる以前からの知り合いである組織の人間がいて、彼が個人的に身柄を保証してくれた。それで当面は韓国に居を構えるつもりでいたのが、上の方の人間に「日本人の殺し屋を匿っている」という話が届いてしまい、身元引き受け人の立場が危うくなったため台湾に移動した。


 台湾には、まだ田鍋たなべとおるが存命であった頃、一緒に育ったきょうだいたちと遊びに行ったことがあった。ただそれだけの記憶で飛行機に飛び乗って訪れた台湾は、懐かしい記憶がそのまま目の前に飛び出してきたような場所で、そこでもやはり殺しの仕事はしなかった。誰も水城を知らないのだ。物騒な看板を出す必要もない。気が向けば日雇いの仕事をしたり、これまでの人生でコツコツと貯めた貯金を切り崩したりして、日々を過ごした。


 日本に戻るきっかけというものは特になくて、「そろそろ帰ろうかな」と思っただけだった。岩角が自分を許しているとは思ってなかった。何せ命を奪おうとしたのだ。5年前。あの時確かに水城はきょうだいたちと殺し合った。里中銀次の舎弟を皆殺しにし、山田徹の左腕を切り落とした。水城の手は、一瞬、岩角の喉笛にまで迫った。


 柔い肉を切り裂かなかったのは、ふと、すべてが馬鹿馬鹿しくなったからだ。


 彼を殺してどうなるというのだ。何かが変わるのか。何も変わらない。若く美しい岩角遼という男、かつては水城と同じく殺しをして生計を立てていた彼が今、関東玄國会の若頭という地位に就いていることを疎ましく思っている同業者は大勢いる。もし水城が岩角を殺したとしても、すぐにどこかの誰かが空いた席を埋める。岩角が死んで喜ぶ者は大勢いる。数えきれないほどに、いる。そんな連中を喜ばせても何の意味もない。それに、水城が岩角を殺そうと決めたきっかけ──水城が組織の外で行う殺しの後始末に手を貸していた慈信和尚を襲撃し、慈信和尚は入院するほどの怪我を負ったのだが、そのきっかけである彼も結局死んではいない。生きている。


 別に岩角を殺さなくても、良いのではないか。


 そう思ったら、血の海になった関東玄國会の大きな和室の中に立っていることさえ厭になった。


 ああ厭だ厭だ、ヤクザなんて本当に厭だ。殺し屋はもっと厭だ。田鍋融父さんの七回忌もとっくに終わり、この国に未練なんかなかった。

 だから。


「それなのにまたぞろ面倒なことに首ぃ突っ込みやがって」

「俺だってねぇ、好きでこんなことになってるわけじゃないんすよ。ていうか『』って何?」

「全部終わったら辞書引いてみな」

「慈信さん、いつから車椅子なんすか?」

「一昨年ぐらいかな。本堂で段差に蹴躓いてなぁ」

「誰かに襲撃されたとかじゃなくて?」

「5年前におまえが無茶苦茶してからは、誰も俺を襲いになんかきやしねえよ」

「ふーん」


 細かい刺繍の入った黒の法衣に黒の袴、それに良く見ないといったいどういう柄が描かれているのか分からない朱色の袈裟という格好の慈信は車椅子に腰掛けており、膝の上にはグレーのブランケットが広げられている。寒すぎやしないかと思い上着やマフラーを持ってこようかと提案したら「そんなにモコモコしてたら面倒なやつと喧嘩はできん」と一蹴された。喧嘩。喧嘩を始めるつもりなのか、この老僧侶は。

 5年も経ったら何もかもが変わってしまったと思っていた。実際変化しているものもあった。だが、かつての友人、きょうだいたち、尊敬していた大人たち、田鍋融亡き後本当の父親のように慕った僧侶──変わらずにそこに在るものがあまりにも多すぎて、水城は小さく笑った。


「やっつけちゃおうねえ、俺たちで」

「ああ、やっつけちまおう」


 夜空には満月が輝いている。

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