7 - 響野

 外に出していた立て看板を片付け、店の扉に『臨時閉店』の看板をぶら下げ、鍵をかけ、響野と逢坂は堂々と路上駐車されていたワゴン車に乗り込んだ。車自体は山田のものらしいが、運転席に乗り込んだのは番場明日香だった。


「運転できるんだ?」

「澪ちゃんの送り迎えとかも、頼まれることがありましたから……」


 響野と逢坂を後部座席に放り込み、山田が助手席に座る。それからワゴン車は3時間ほど走り続け、辿り着いた先は、これから海に変貌する予定のダムにほど近い場所に経つラブホテルだった。


「遅い!」


 都心にあるようなホテルとはまるで違う、いったいいつから建っているのか、最後に客が来たのはいつなのか、それすら分からないほどに古びた建物の前で岩角遼が仁王立ちで怒鳴った。


「悪い悪い。道が混んでてな」

「番場に運転させたのか? 響野、おまえがハンドルを握るべきだろう!」

「だ、だってぇ……」


 機嫌の良い岩角を見る機会など滅多にないし、岩角遼という人間と個人的に会話することもこの件が始まるまで一度もなかったが、それにしても彼は常に怒っている、というのが響野の抱いた印象だった。驚くほどブチ切れている。常に。いちばん大きな怒りの矛先は恐らく何の前触れもなく帰国してきて堂々と元気いっぱいに振る舞っている水城純治なのだろうけど、それ以外の件でもこうして細かくキレられる。とても困る。ぺこぺこと頭を下げるしかない響野の背中を押して、


「僕の方が運転がうまいんで!」

「……そうなのか?」

「はい! あの、渋滞情報とかもアプリで見るより澪ちゃんが教えてくれるのを聞く方が早いんで!!」


 フォローのつもりなのだろう、番場明日香が声を上げた。岩角はそこでようやく嫌味を言うのをやめ、


「まあ入れ。建物ごと借り切った。中には関係者しかいない」


 と、色褪せが激しい建物の入り口を潜った。


 タッチパネルで部屋を選ぶタイプのホテルではない。受付に声をかけ、部屋を選び、鍵を受け取って入室する、という最近ではあまり見かけない種類のラブホテルだった。だが、その受付の中にも今は人の姿はない。2台あるエレベーターの片方に岩角、響野、明日香、もう片方に逢坂、山田、と別れて乗り、そのまま最上階の5階に向かった。

 最上階には、このホテルが建った時にはいちばん豪華な部屋として人気があったのであろう広い部屋が3つあり、岩角が何も言わずに真ん中の部屋に入っていくので慌てて後を追った。すると、


「響野と番場は左端だ」

「え?」

「びわと百裏モモウラがいる」

「分かりました」


 番場明日香は岩角の少ない口数に、もう慣れてしまったらしい。迷わず左端の部屋を目指す華奢な背中に、響野は足を縺れさせながら続いた。


 鍵のかかっていないドアを開くと、大きなベッドの上にびわと百裏が座っていた。びわは背中を丸め、手元の紙に見入って──彼女は盲目のはずなのだが──いる。


「響野さん、明日香さんも」


 その傍らにあぐらをかいて座っていた百裏が、明るい声を上げた。途端に手元の紙を放り出したびわは、


「明日香ちゃん! 遅いよう!」

「ごめんね。道が混んでたんだ。……びわちゃん、今の宿題?」


 飛び付いてくるびわの黒髪を優しく撫でた明日香が、手付きと同じぐらい優しい声で尋ねる。う、とくちびるを噛んだびわはいかにも嫌そうにくちびるを尖らせて、


「学校、長く休んでて……授業が結構進んじゃったから、って昨日……部活一緒の子が届けてくれて」

「そうなんだ。びわちゃんって何部なの?」

「園芸部!」

「園芸か、いいね。部員はいっぱいいる? っていうか宿題、もしかして難しい?」

「難しくは〜……ないけどぉ……」

退に集中したいから宿題どころじゃないって駄々を捏ねるんです。明日香さんからも注意してもらえませんか」


 呆れ返った様子で百裏が口を挟んだ。なるほど、そういうことか。


「なんでそういうこと言うの、百裏!」

「だってそうだろう。次に登校した時、授業についていけなくて困るのはおまえなんだぞ」

あたしは……から、いいもーん……」

「カンニングするな!」


 口喧嘩をするびわと百裏は、年の近いきょうだいのようにも見える。ふたりとも『果樹園』の出身だそうだから、きょうだいといえばきょうだいなのかもしれない。しかし百裏は身長180センチ以上、体重も100キロはありそうな巨漢で、びわは下手をすれば中学生に間違われそうな小柄で華奢な少女である。顔付きなどもまったく似ていない。


「まあまあ。じゃ、一緒に宿題やろ。寝るまでにまだ時間あるし」

「明日香ちゃん大好き! 百裏はきら〜い! だって手伝ってくれないもん!」

「あのなぁ……」


 豪奢なベッド(良く見ると今や滅多に見かけない回転するタイプのベッドだった)を降りたびわが、宿題と思しきプリントの束を抱え、いそいそと部屋の奥にあるソファに移動する。ローテーブルの上に紙を広げた少女と共にソファに座った明日香が「いっぱいあるねぇ」と苦笑混じりの声で言った。


「百裏さん」

「響野さん」


 びわと入れ違うようにして、ベッドに腰を下ろした。百裏がこちらに視線を向け、ほっとした様子で目を細める。


「良かった。来てくれたんですね」

「ほとんど拉致だったけどね。俺のじいちゃんも」

「マスターも? それは……心強い、です」


 びわと百裏は、逢坂一威のことをどこまで知っているのだろう。人殺し、殺し屋であった、ということぐらいは岩角から聞かされているのだろうか。だが、逢坂の獲物は常に人間だ。今回みたいに化け物を相手にしたケースは──


「ありますよ」

「え?」

マスター逢坂一威が、


 心を読まれたかと思った。大きく瞳を瞬かせる響野に向かい、百裏は自分の胸を指差して見せた。


「俺たちです」

「それって……」


 太い眉を八の字に下げ、百裏は笑った。


「まだ半年しか経っていないんですね。山田さんや若頭が言うところの『』の件。響野さんとは、あの時にはお会いしませんでしたが」

「会わなかったけど、俺もちょっとだけ関与した。ほら、秋のところに情報取りに行くのに必要でさ……そうか、あの事件の時、じいちゃんが……」


 夏だった、と記憶している。あの時も奇妙な遺体が発端で、『果樹園』と呼ばれる組織の存在が露呈した。響野は然程深く事件に関わりはしなかったが、木野ビルディングの悪魔・秋から情報を得るために仲介役として首を突っ込んだ記憶がある。


「俺らもまさかあんな……おじいさんが拳銃持って突撃してくるなんて思ってもみませんでした。。だから今回こうやって共闘できるのは、正直とても心強いというか」


 ニコニコと笑顔で語る百裏に「でもじいちゃん今回はコスプレ参加だよ」とは言い難くて、響野は曖昧な笑顔で黙った。


 数時間後、里中銀次が部屋を訪ねてきて、響野だけが部屋を連れ出された。作戦会議に参加させられるのかと思ったら、違った。フロントに連れて行かれ、大量の弁当やお菓子、それに飲み物を手渡された。フロントに立つ長身の女──おそらく彼女が食糧を手配してくれたのだ──には見覚えがあった。たしか、Q県に向かった時。


木端こばさん?」

「あ、どうも」


 そうだ、コンビニで休憩している時にトラックに突っ込まれ、使っていたクルマが炎上した際に後始末をしてくれた掃除屋の女性だ。


「わざわざ東京まで?」

「引き抜かれまして」


 光栄です、と木端は誇らしげに胸を張る。


「ですが、私の仕事はここまでです。ですよね? 里中さん」

「こっから先は事情を知っとる人間だけでやる。明日の昼には終わるやろ」

「終わった頃に様子を見に来ます」

「変死体が出たら掃除頼むで」

「畏まりました」


 最敬礼をした木端は、優雅な足取りで建物を出て行った。

 食糧を抱えて部屋に戻った響野は、主にびわから大歓迎を受けた。


「お腹すいた! お弁当! お弁当!」

「びわ、大人しくしなさい! すみません里中さん……」

「いや、いいよ。宿題終わった?」

「終わった!」

「半分ね」


 と明日香がツッコミを入れるが、びわはまるで聞いていない。


「ハンバーグのお弁当ある?」

「あるよー」

「ジンジャーエールもある?」

「ジンジャー……あるある。じゃあこれがびわさんの分」


 セットにして差し出すと、びわは満面の笑みで弁当の蓋を開ける。百裏は生姜焼き、明日香はオムライス、響野は巨大な焼き鮭が乗っかった弁当をそれぞれ選んだ。


「ご飯食べたらゲームしたーい」

「ゲーム?」

「明日香ちゃん知らない? アプリの……」

「あ、僕もやってる。フレコ交換しよ〜」


 和気藹々とした空気を察知したかのように、ノックもなく部屋に入ってきたのは岩角遼だった。開口一番、


「全員スマホの電源を落とせ」


 などと言う。修学旅行の引率なのだろうか。

 勢いに押されて響野と百裏はすぐに自身のスマホの電源をオフにしたが、


「えー! スマホ使えなきゃTwitter見れないし、ゲームもできない!」

「そんなにゲームがやりたいならこれで遊べ」


 食ってかかるびわの手の中に何かを押し付けて「絶対に電源をオンにするなよ!」と言い残して岩角は現れた時と同じぐらい唐突に去って行った。

 びわは、手の中に残された真新しいUNOを見下ろして心底嫌そうに眉根を寄せた。


「遼さん、カードゲームばっかりやらせる……」

「そうなの? でも、UNOだとびわちゃん困らない?」


 小首を傾げてカードを取り出した明日香が、次の瞬間長いまつ毛を大きく揺らした。


「点字が入ってる!」

「えっ! そうなの!?」


 響野も一緒に驚いていた。明日香の側に近寄ってカードを一枚一枚確認するが、すべてに点字が打たれている。


「すげ〜」

「こんなの全然すごくないよ! あたし点字苦手なのに!」

「苦手でも学校では点字で授業受けてるだろ」


 怒り心頭といった様子のびわに百裏が声を掛けるが、


「だから、あたしにはから……」

「そういうの良くないって若頭は言ってんの!」

「じゃあ百裏だって今嘘じゃん! 嘘はダメじゃん!」


 きょうだい喧嘩がおかしな方向に進み始めた。言い争うふたりのどちらの肩を持つわけにもいかず、おろおろとするばかりの響野と明日香の前で、百裏が初めてその丁寧な態度を崩した。


「分かった分かった、分かりましたよ! おまえが言うからするだけだからな!」


 高らかな舌打ちの音が聞こえ──次の瞬間。


「えっ!?」


 驚愕の声を上げたのは響野だけだった。明日香は「ああ……」と困惑したような声を上げながら、睨み合うびわと百裏を交互に見ている。

 そこには、身長180センチ、体重100キロ、20代前半と思しき巨漢の姿はなかった。

 代わりに年の頃は10代後半、身長は170センチ前後の痩せぎすの青年が、苛立ったように歯を剥いてびわを睨み据えていた。


「なにこれ、えっ、百裏くん? 百裏くん……だよね?」

「はい、百裏です」


 声変わりをしたばかりと思しき掠れた響きが応じた。先ほどまで会話をしていた百裏の声とはまるで違う。


「響野さんのこと困らせてる〜! 百裏悪〜い!」

「悪くない!」

「ま、まあ、まあまあ……いや、ちょっとは驚いたけど……これはその、変身みたいなもの?」


 混乱をどうにか抑えつつ問いかける響野に「幻覚みたいなものですよ」と明日香が口を挟んだ。


「明日香くんは初めて見るわけじゃない感じ?」

「奥の間で何度か。休憩中とかは元に戻るんだよね」

「はい」


 切長の目、茶褐色の瞳、柔らかくカールした黒髪も響野が今まで対面していた『百裏』とはまるで別の人間だ。


「若頭の運転手を務めるのに、この外見では無理があると思ったので」

「ふわー……」

「あ、免許証は本物ですよ」

「そこは疑ってないけど……すごいなぁ、幻覚……」


 真剣に感心する響野に、百裏は眉を下げて笑った。その表情は、先ほどまでの百裏とあまり変わりなく、響野は密かに安堵した。


「そんなにすごくはないです。俺にはもう、幻を見せるぐらいの能力しか」

「百裏にできない分はあたしがやるから大丈夫! それよりどうする? UNOする?」


 結局、20時頃までUNOをして過ごした。点字は苦手だというわりに終始びわの独壇場だった。その後交互に風呂を使い、巨大ベッドに並んで横たわり、眠った。


 里中が4人を起こしに来たのは日付が変わって少し経った、25時頃のことだった。

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