2 - 響野
ところが。
「面会謝絶です」
何度か顔を合わせたことがある、木野ビルディングの従業員、おそらく殺しも請け負うタイプのスーツ姿の女性が響野を見るなりそう言い切った。
「秋が?」
「はい」
「怪我を?」
「詳しいことは」
言えません、か。普段の響野ならばここで引き下がっただろう。秋は苦手だ。無理をして顔を合わせたい相手ではない。それに今回の件には、関東玄國会のヤクザたち、それに水城純治という凄腕という言葉では片付けられないほどの殺しの腕を持つ殺し屋が関わっている。食い下がってまで秋を引き摺り出す必要はない……そう思えない理由が、今回ばかりはあった。
響野の傍らに立つ、デニムに黒いセーター、褪せた金髪を後ろに撫で付けてゴムで縛った男性とも女性とも付かない顔立ちの人間──番場明日香。決意を固めたような面差しの明日香に「秋には会えない、帰ろう」なんて言えるはずがなかった。
「電話をもらったんです。歌舞伎町のカズイに」
「秋からですか?」
「違います。番場
「番場蜜……」
女性門番の表情が僅かに変わった、ような気がした。少しお待ちを、と言って彼女は背後にある、壁にすっかり溶け込んでいる扉を開いて部屋の中に消えた。
吹きっさらしの廊下に、響野と番場明日香だけが残された。
「蜜さん」
明日香が口を開いた。
「亡くなったんですか」
「たぶん」
通話を終えてすぐ、純喫茶カズイの奥の間にしまっていた瞽女迫、番場一族の家系図を広げた。番場蜜の名前は跡形もなく消え去っていた。
瞽女迫聖一の名前も、どこにもなかった。
「蜜さん……」
明日香がまた泣き出したらどうしようかと思った。女の子の慰め方なんて分からない。
だが、明日香は気丈にもくちびるを引き結び、涙を呑み込んで言った。
「蜜さんは最後に、何を言っていましたか」
最後に。彼女は。
番場蜜は。
人魚の遺言を口にしようと息を呑んだ響野の目の前で、閉ざされていたはずの扉が大きく開いた。
「お会いになります。ただし15分だけ」
先ほどの女性門番とは違う、スキンヘッドに漆黒のスーツを纏った長身の男性がそう言葉を発した。
通された部屋は響野が今まで見たどの部屋とも違い、本当に狭く、四方の壁が白く塗られた、言うなれば病室のような一室だった。
窓辺に置かれたベッドの上にあぐらをかいて座る秋は、
「きみが番場明日香か」
と、響野の頭を飛び越えて明日香に呼びかけた。
「はい。あの、あなたが」
「秋だ。よろしく」
病衣のような水色の服に身を包んだ秋が右手を差し出す。その惨状に響野は一瞬言葉を失う。右腕の肌が見えないほどにぐるぐると巻かれた白い包帯。手の甲の辺りまでそれは巻かれていたが、細くて華奢な五本の指はすべて赤黒く変色し、秋がなんらかの怪我を負っているということはひと目で分かった。明日香もそれを察したのだろう。一瞬躊躇した様子で動きを止めたが、握手を断るような真似はしなかった。一瞬の肌の触れ合いの後、
「請求書だ」
秋はサイドテーブルに置かれていた茶封筒を掴んで響野に差し出した。その動きは左手で行われたのだが、左側の腕も同じように包帯でぐるぐる巻きになっており、指もほとんど露出していなかった。ちらりと見えた爪が剥がれているように見えた。
響野はその場で茶封筒を開き、『純喫茶カズイの黒電話の番号代』を確認する。7桁。これは岩角か、彼以外のヤクザたちの誰かに払わせるとしよう。万年金欠のフリーライターが一括払いできる金額ではない。
「とりあえず、頭金です」
歌舞伎町を出る際に祖父が持たせてくれた10万円を、財布から取り出してサイドテーブルに乗せる。秋は口の端を歪めて笑い、
「逢坂一威が?」
「まあ」
「戻ったら、どうにか全額払えるように工面するんだね」
「それより面会謝絶ってどういうことですか。あなたに誰が何をしたんですか」
会話に割って入ったのは番場明日香だった。秋は少しだけ驚いたように長いまつ毛を揺らし、
「人魚の子というのは皆気が強いものなのかな」
「知りません。これが僕です。母が人魚だったって話も、こんな……こんなにたくさん人が死ぬようになってから知りました」
「そうか。秋はきみのような子は好きだよ。空気を読んだり遠慮したりしない。だから正直に答えよう」
煙草、と響野に要求しながら、秋は淡々と続けた。
「昨日かな。番場蜜さんが歌舞伎町に連絡をしている頃だろう。我が事務所に、招かれざる客が現れた」
「それって」
「詳しく言わずともお分かりだろう。瞽女迫聖一だよ」
響野と明日香は弾かれたように顔を見合わせる。その姿をなぜか微笑ましげに眺めながら、秋は言う。
「岩角遼がここに持ち込んだあの小瓶、リコリスが海をぶち撒けたという小さな……瞽女迫聖一は確かに真水に棲むもので海を毛嫌いしているが、自分を駆除しようとしている相手を返り討ちにするためには形振りを構わないタイプらしい。あの小瓶の中に僅かに残された匂いを辿って、ここに辿り着いた──みたいなことを言っていたね」
「海が入った一升瓶そのものは歌舞伎町にあるのに? どうして秋さんが襲われるんですか? 本当に、聖一さんを駆除しようとしている相手をその……倒したいなら。歌舞伎町に来るのが筋でしょう」
身を乗り出す明日香に、秋はこくりと首を縦に振った。
「ごもっとも。しかしね番場明日香くん、瞽女迫聖一はどうやら歌舞伎町のあの店に入ることができない」
「どういう」
「自分で良く考えてご覧、と言いたいところだけど、時間がないから……秋も正直あんまり長話できる状態じゃない。だから言う。歌舞伎町には、果樹園の生き残りがいるね」
「びわちゃんと百裏くんですか」
ぽんぽんと飛び交う言葉たちを、響野は黙って聞くことしかできない。やはり響野憲造は傍観者なのだ。いつでも、どこにいても、どんな事件が起きていても。
生きて終わりを見ることができたら、この事件を記事にしよう。荒唐無稽なB級映画のような記事になってしまう予感しかしないけど、記録に残すことにきっと意味がある。
「話が早い。そしてもう時間がない。岩角遼が自分の命よりも可愛がっている、あの果樹園の生き残りたちは特別だ。味方に付けるといい。そうじゃなきゃ勝てない」
「勝て──あんな若い子たちを、聖一さんにぶつけるんですか!?」
明日香の声が裏返る。と、ベッドから身を乗り出した秋が煙草を持つ右手をゆっくりと伸ばし、明日香の口をそっと塞いだ。
「静かに」
まるで。誰かに会話を聞かれるのを恐れているような響きだった。
「番場蜜さんが、速達で良いものを送ってくれた」
これ、という秋の声と同時にスキンヘッドの男が部屋に現れる。彼が手にしているのは、何の変哲もないA4サイズの封筒だった。黒いボールペンで木野ビルディングの住所、それに赤いマジックで大きく速達と書かれている。
「今朝届いた。まだ開けてない。これを持って帰りなさい」
「秋さん……」
「秋は死なない。瞽女迫聖一が秋を殺すとしたら、何もかもが彼の思い通りになったその後の話だろう。それまでに、響野憲造」
「うわっ」
急に名指しされて飛び上がる響野に、秋は、初めて見るような優しげな笑みを浮かべた。
「どうにかしろ。ヤクザを使うんだ。リコリスにも手を貸してもらえ。秋はあんな訳の分からないものに殺されたくない」
「そんな、えー、そんな」
「帰り道では塩を撒け。これをあげよう」
枕の下から取り出した小さなジップロックを十数個、秋は響野の手の中に押し付けた。中身は、
「ヒマラヤ岩塩だ。効果はまあまあ、あるんじゃないかな」
会話はそこで打ち切りとなった。全身を襲う激痛に堪えているようなゆっくりとした動きでベッドに横たわる秋に一礼をして、響野と番場明日香は木野ビルディングを辞した。
急ぎコインパーキングに停めていたバイクのもとに戻ったが、壊されている形跡はなかった。このまま歌舞伎町に戻ることも可能だろう。手渡された封筒の中身も気になるが、それよりまずジップロックの中のヒマラヤ岩塩を自分と、バイクと、そして番場明日香の周りに撒いた。
「ピンクの塩じゃん……」
「ヒマラヤ岩塩ってバスソルトのイメージしかなかったです僕」
「俺も」
軽口を叩きながら小さなジップロックを空にしたところで──塩に隠れるようにして、一枚の紙切れが入っているのに気付いた。
──秋の仕込みだ。
「何、これ……?」
小首を傾げながら紙を取り出す明日香の手元を覗き込む。チラシの裏紙を引きちぎって書いたような小さな紙切れにはただ一文字、
『嫁』
と書かれていた。
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