第五章 偽海

1 - 響野

 番場明日香が感情を爆発させるのはこれが三度目だった。一度目は瞽女迫澪が死んだ時。二度目は水城純治に出会い、瞽女迫聖一の部下と思しき男たちに殺されそうになった時。そして三度目は、父親の死だ。

 Q県に戻ると言って聞かない明日香を、少なくともヤクザたちは止めることができなかった。彼らには親がいない。実の親というものが。盃を交わした親分は存在するけれど、水城に至ってはそれすらもない。明日香の嘆きを宥めることも、少し落ち着けと叱咤することも、彼らにはできないのだ。


 響野きょうの憲造けんぞうは常に傍観者だ。記者という職業を選んだ時からそうだった。意識的に輪の外にいて、起きる事件や事故を他人事として俯瞰する。そうして見たこと聞いたことを活字に起こし、記事にして、金銭を得て飯を食う。そうやって生きてきた。ずっと。

 響野にも一応親兄弟はいるが、祖父である逢坂おうさか一威かずいの娘である母親は実の父が人殺しであるという現実に耐えられず、新興宗教に身を投じた。それを救い出したのが響野にとっての父親、母親にとっての夫である男性だが、彼もまた逢坂一威という人間を疎んでいた。だいぶ長らく顔を合わせていないけれど、両親の感情は今も変わってはいないだろう。そして響野自身も、父と母のことを、彼らが父と母であるという理由だけで慕ってはいない。愛してもいない。どちらかというと嫌悪している。

 逢坂一威という殺し屋の孫ということで、響野が一度も損をしなかったわけではない。それなりに面倒な人生を送ってきた。だが、両親が、そしてふたりの姉が、末っ子の憲造に手を差し伸べたことは一度もなかった。憲造という名前すら両親ではなく祖父が決めたものだと聞いた時には、呆れを通り越して笑ってしまった。


 自分には祖父しか信じられる人間がいないのだと、その時知った。中学の頃だっただろうか。


 だから響野にも、番場明日香を止めることはできなかった。立ち上がれなくなるほど泣いて泣いて泣き喚いて、声が出なくなるまで「お父さん」と繰り返すほどに父親を慕える明日香のことを、少しだけ羨ましいとすら思った。

 明日香が望むならクルマを出してやってもいい。Q県までの道のりは前回同様厳しいものになるだろうが、それでも──

 そんな風に思っていた矢先。純喫茶カズイのカウンター内に置かれている黒電話が鳴った。


 あの黒電話は鳴らない。大抵の客はそう信じている。アンティーク。オブジェのようなものだと。


 だが、電話線は繋がっている。いや、確かそれすらもやめて、今は黒電話の見た目だけを維持したスマートフォンのようなものになったと聞いたような記憶もある。

 とにかくその、黒電話がけたたましく鳴り響いていた。

 ジリリリリリ、という耳障りな音をとにかく止めたくて、初めて受話器を取った。この受話器に触れて良いのは本来ならば逢坂一威ただひとりだけなのだが、その祖父も今は大泣きする番場明日香の目の前で途方に暮れている。自由に動ける傍観者は響野だけだった。


「はい純喫茶カズイ」

『記者さんですか?』


 女の声だった。


「え? ……はい、響野と申します。フリーの記者をしていますが」

『ああ良かった。番場ばんばです。番場みつです。以前お会いしましたよね』


 鈴を転がすような声には確かに覚えがあった。クルマを何台も壊しながらQ県に乗り込んだ夜。番場明日香の、既に亡くなっている母親の妹だと自己紹介をした女がいた。蜜、という名前だった。

 だが彼女に名刺を渡したのは里中銀次だけだ。なぜ純喫茶カズイの存在を知っている。


 いや、それ以前に。


 なぜこの黒電話を鳴らすことができる。


「──本当に? 本当に番場蜜さんですか?」

『疑ってますね。無理もないけど』

「だって」

『何を言えば信じてもらえるでしょう。由依ゆいさんと信次のぶじさんは食べられてしまいました。昨晩の話です。あ、瞽女迫由依さんと瞽女迫信次さん……澪ちゃんと穣くんの実のご両親の話なんですが……』

「それは、知ってます」


 なぜ知っているのかは言わなかった。蜜を名乗る女も「ご存じなんですね」と呟いただけだった。


『それじゃあ──恭二さんのことは?』

「……番場明日香の父親の」


 呟いた瞬間、店内にいる人間全員の視線が背中に突き刺さるのを感じた。言葉を選ばなくてはいけない。


『明日香はそこにいますか?』

「……あなたが本当に蜜さんだって、俺には断言できないから、この電話を代わることはできません」

『記者さんはすごく真面目な方なんですね。安心しました。ではもうひとつ』


 

 女は言った。


『横浜中華街の悪魔、世界に二枚しかないはずの瞽女迫・番場両家の家系図を持つ不思議な情報屋。

「……秋と?」

『この番号も秋さんから伺いました。本来ならば直接顔を合わせてしか取引をしてくれないそうですが、何せこちらも緊急事態でしたので。後日料金を倍額お支払いするという契約で』


 話に信憑性が出てきた。秋。その名を、存在を知る者は決して多くはない。


「電話、代わりますか」

『その前に聞いてください。記者さんの耳で聞いてください。瞽女迫家は間もなく滅びます』


 歌うような調子で、番場蜜は言った。


『瞽女迫聖一は真水に棲むものなので、姉が嫁入りをして、その姉が死んだあとは私が引き継いで、どうにか抑え込んできたのですけど』

「に……人魚の力で、ってことですか」

『記者さん、話が早いですね。私たち以外の人魚に会ったことがあるみたい。助かります。その通りです。、本物の怪物には敵わない。そこで、我々人魚に白羽の矢が立った』


 この話をひとりで聞いていて良いのか分からなくなった。現に、岩角遼は眉根に深い皺を寄せ、里中銀次は僅かに青褪め、水城純治は目を丸くし、あの無表情の山田徹までもが訝しげな目をしてこちらをじっと見詰めているのだ。

 喉が張り裂けんばかりに泣き叫んでいた番場明日香も、今は涙で濡れた頬もそのままにじっと響野のことを見上げている。店の床に座り込んだ明日香に寄り添うびわと百裏だけが、響野に視線を向けていない。


「あの、四宮も果樹園も人間……って言いますけど、でも俺らみたいなフツーに生きてるヒトからしたらあいつらもじゅうぶんバケモンですよ。それなのに」

『だとしたら、瞽女迫も化け物です。あなた方にとってはね』


 短い沈黙があった。番場蜜は今どこにいるのだろう。どこから電話をかけているのだろう。


『お渡しした一升瓶。あれが全部です』

「は」

『姉の嫁入り道具にして遺品。あの瓶の中に、私たちの海のすべてが詰まっています』

「海」

『真水に生きる瞽女迫聖一は、私たち人魚を毛嫌いしています。姉がすぐ殺されてしまったのも、陸地に馴染む前を狙われたからでしょうね。私は別の土地で人間としての振る舞いを覚えてからこの土地にやってきたので、簡単に狩られはしませんでしたが』

「ま、待って待って、蜜さん。それじゃあまるで、」

『私も間も無くです。残念です。明日香と直接お話しする時間はありません』


 地鳴りのような音が聞こえた。受話器の向こうから、それは響いていた。


「み──蜜さん、蜜さんもう電話いいから! 逃げて! 逃げてよ!」

『良いことを教えておきます。真水に棲む聖一は、人魚の肉を食いません。つまり私も姉も、ただ殺されるだけ。アレの血肉にはならない』

「それ良いことなの? どこら辺が良い情報なの!?」


 店内にいる人間たちの視線を気にしている余裕は、最早なかった。人が死ぬ。今、通話をしている相手が、手の届かない場所で殺される。


『良い情報です。聖一は明日香の命を食わない。明日香も半分は人魚だから』

「あ──」

『恭二さんのことは残念でした。あの方は善人だったから、由依さんと信次さんの命が食われるのを黙って見ていられなかった』

「どう、いう」

『明日香から聞きませんでしたか? 番場家は瞽女迫家の使用人。瞽女迫のために死ぬのが、番場家のさだめ』

「ふざけ……」

『恭二さんもそう思っていたんでしょうね。だから姉と所帯を持った。生まれてくる子どもが、番場家のさだめに取り込まれないように』


 ああ、もう、ここまでです。

 番場蜜はそう言って笑った。


『私たちの海を、うまく利用してくださいね。記者さん』

「待っ……!」

『それから秋さんへのお支払いもお願いしますね』

「それすごく無理!」

『あと──そうだ、最後にこれだけは』


 あなた方の中に、蛇がいる。

 凛とした声でそう言い残し、通話は唐突に終わった。

 響野憲造は手の中の受話器が沈黙していることに、しばらく気付かないままだった。

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