幕間

1 - 夜空

 その夜、澪ちゃんが夢に出た。


「ごめんね明日香」


 彼女は僕の手を取って開口一番そう言った。辺りを見回すとそこは澪ちゃんとの逢引に良く使っていたひとり暮らしのアパートで、色々なことが始まってからしばらくここには戻っていない。だから夢だと分かった。

 ベッドに腰掛ける僕の足元に跪いた澪ちゃんは、僕の手をぎゅっと握ってそう言った。澪ちゃんを床に座らせるなんて、とんでもないことだ。慌ててベッドを降りようとすると、


「だめ」


 と、思いの外強い力で制止された。


「でも、澪ちゃん」

「そのまま聞いて。明日香。ごめんね、いっぱい未来を見せて。でももう明日香しか頼れる人がいないから」

「それは……」

「さや子さんもおさむさんも亡くなった」


 澪ちゃんはそうだった。義理の両親を、伯母と伯父に当たる人たちを、決して『お父さん』『お母さん』とは呼ばなかった。自分たちのことを名前で呼ぶ澪ちゃんのことを、瞽女迫の義理の両親はきっと不愉快に思っていただろう。それぐらいは分かる。でもその不愉快さを押し殺す価値があるほどに、澪ちゃんの予知は当たった。澪ちゃんは、歴代の瞽女迫の中でもいちばんの能力者だった。

 澪ちゃんは、他の瞽女迫の一族のように番場に夢占いを依頼したりはしなかった。すべてを自分でた。良い未来も、悪い未来も。


ゆたかが生き残ってくれれば良かったんだけど」

「……殺されちゃったもんね」

「命を食べられちゃった。もう、明日香、忘れたの? 聖一は命を食べるんだよ。殺すんじゃない」

「そう……そうだったね」


 瞽女迫ごぜさこ聖一せいいち。そう呼ばれている怪異。瞽女迫に予知の力を与えたと言われている何者か。山に住んでいる。澄んだ水を好む。強い能力を持つ生き物を、好む。


 昔々、本当に初めの頃は、あの土地にも瞽女迫と番場以外の人たちが住んでいたと聞く。そうして皆で『瞽女迫聖一』──当時はもっと別の名前で呼ばれていたそうだが──を祀って、お祭りをして、祟りがありませんように、五穀豊穣、子孫繁栄、そんな風に色々なことを願って、祈って、生贄には豚や牛や鶏を捧げて、そうしてやってきたのだともうとっくに三途の川を渡ってしまった祖父に聞いたことがある。それが狂ったのは、いつだったっておじいちゃんは言ってたっけ?


「想像より昔、でも予想より最近」


 歌うように澪ちゃんが呟いた。


「いつからそうなったかっていうのは結構重要なことではない。問題は、聖一がもう昔の聖一じゃないってこと」


 そう、瞽女迫聖一は人喰いの怪物になってしまった。門外不出のあの家系図。瞽女迫家と番場家に一枚ずつ伝わるそれは、。文字も聖一が書いたものだ。だからあの家系図は生きている。生きて、呼吸をして、瞽女迫と番場を見張って、次の獲物はおまえだと伝えてくる。澪ちゃんのおばあちゃん──梅さんのお兄さんであるイヲさんは、たしか澪ちゃんと同じぐらいのレベルの能力者だったらしい。だから早くに食べられてしまった。熟すのを待つ必要すらなかったのだろう。結婚してすぐに未亡人になってしまったイヲさんの奥さんで、香織かおりさんという女性は瞽女迫家でまだ生きていて、彼女もまた特殊な能力を持つ一族の出身らしいけどイヲさんを助けることはできなかった。


四宮しのみやに、に、世の中には色々な化け物がいるけど、聖一には敵わない」

「それは、四宮さんや果樹園ってところが、聖一さんより弱いから?」

「違う明日香。もっとシンプルに考えよう。聖一はいったい何? 神?」

「神じゃない」


 あんな神様がいて堪るか。澪ちゃんや穣くんを殺してしまうような神様を、僕は認めない。


「よろしい。明日香がそれを理解してるってことは、とても大切。瞽女迫の連中はみんな勘違いをしているからね。聖一が神様だって。話せば分かる存在だって」

「聖一さんは……怪物だ」

「そう! その通り。忘れちゃダメだからね、明日香。聖一と対話するのは不可能。あいつは人間を美味しいディナーだと思ってる


 今夜の澪ちゃんは良く喋る。聖一さんが人間をディナーだと思っている怪物だということは、四宮さんとか果樹園って集団は、ぎりぎりまだ人間の皮を被った化け物ってことか。人間のふりをしているあいだは、聖一さんには勝てないということなのか。


「明日香は頭がいい。それに冷静。愛してるよ、明日香。だからお願い、絶対に聖一に負けないで」

「でも、僕は」

「でも、は禁止。明日香。明日香の傍には聖一に勝てるだけの怪物が揃ってる。それにはもう気づいてる?」

「……」


 ヤクザの人たちのことだ。澪ちゃんは、澪ちゃんは死んでしまったのに、僕よりも世界のことを良く知っている。こんなになんでも知ってる澪ちゃんが聖一に命を食われてしまったのに、何も知らない僕が聖一に勝つ──圧勝まではいかなくても、負けない、ギリギリ判定勝ちのところまで持っていくことなんてできるんだろうか。

 澪ちゃんが急に立ち上がった。カーテンの開け放たれた窓を背にした澪ちゃんは、小花柄の白い着物を身に付けていた。


 月が。

 月が出ている。


「月はどっちに出ている?」

「え、映画のタイトル?」

「いい映画だったねぇ。でも今は月のことを考えて。月はどっちに出ている?」

「澪ちゃんの、背中の、向こう」

「満月? 半月? 三日月?」

「満月に近い……かな?」

「潮が満ちるのはいつ?」

「えっ?」


 澪ちゃんの姿が次第に薄くなっていく。ああ。朝が近いんだ。


 前にふたりで釣りに行ったことがあったっけ。僕たちの出身県には海がないから、前日に海のそばの民宿に泊まって、朝早く漁船に乗って。全然釣れなかったけど楽しかったな。その話をしたら穣くんが自分も一緒に行きたいって言って、今度は3人で行こうねって言って、でもその今度は、来ないままで。

 漁船の船長さんから月と潮の満ち引きの関係について話を聞いたような記憶がある。


「満月と新月には、大潮に……海面の高さがもっとも高く……」

「間もなく、満月」


 瞽女迫澪の姿はもうどこにも見えなくて、声だけが響いた。


「それから明日香。最後にひとつだけ。


 目が覚める。僕は今、歌舞伎町にある純喫茶カズイの奥の間と呼ばれる場所にいる。以前は殺し屋だったというマスター・逢坂おうさかさんが若い頃に寝泊まりをしたり、それ以外にも訳ありの人間を匿ったり、時には孫の響野きょうのさんが原稿(彼は雑誌記者らしい)を書くために缶詰になりに来るという6畳ほどの小さな部屋に布団を敷いて、僕と、それにさんという高校生の女の子と、百裏モモウラさんという20代ぐらいの男の人と3人で雑魚寝をしていた。びわさんと百裏さんはぴったりと寄り添って穏やかな寝息をたてている。ふたりはもしかしたらきょうだいなのかもしれない。彼らを起こさないよう、こっそりと奥の間を出て、喫茶店の店舗側に顔を出した。

 カウンターの中に立つマスターが、黒電話の受話器を置くところだった。


「逢坂さん」

「おう、番場。まだ寝てていいんだぞ」

「夢を見て……あの、何か、あったんですか?」


 マスターは笑顔を浮かべていたが、目が笑っていなかった。それにあの黒電話。骨董品だと思っていたのに、電話として使われているなんて。


夢見人ユメミか」


 と、マスターは小さく呟いた。


「隠し事はできねえな」

「え?」

「また死人だ」


 瞽女迫家の由依ゆいさんと信次のぶじさん、それに、僕の父が死んだ。

 番場ばんば恭二きょうじが命を食われた。

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