7 - 岩角

「お、お邪魔します……」


 威勢よく店内に入ってきたのは水城みずき純治じゅんじ、その背後からおずおずと顔を覗かせるのは響野きょうの憲造けんぞうだ。響野の方がずっと長身なので、水城の背中に隠れきれていない。

 空いている椅子、岩角から見て左隣のソファに飛び乗るように座った水城は、


「マスター! ビール!」

「あいつはマスターじゃない。それから今日はアルコール禁止だ」


 元気に注文したものの流れるように山田に注意され、運ばれてきたオレンジジュースを前にしょんぼりと項垂れている。


「俺帰国してから一回もお酒飲んでない……」

「帰国早々死体と一緒にトランクに詰め込まれてりゃ仕方しゃあないわな」

「好きで詰め込まれたわけじゃないのに!」


 軽口を叩き合う姿を眺める岩角の中からは、なぜか苛立ちのような感情が綺麗に消え去っていた。代わりに浮かぶのは純粋な疑問だ。5年前、あんな風に殺し合って。5年ぶりに、こんな形で再開して。腹は立たないのだろうか。お互い、どんな感情を抱えて向き合っているのだろう。


「だいたい」


 疑問を頭の隅に追いやって、煙草を咥えながら岩角は尋ねた。


「詳しい説明を俺たちは受けていない。どういう経緯で死体と一緒にトランクに入る羽目になったんだ? おまえが殺したんじゃないんだろう?」

「誰も質問してくれないから説明するタイミングがなかったんだよ。あと誓って俺は殺してない。瞽女迫澪さんは、俺と一緒にトランクに詰められた時にはもう死んでた」


 水城の説明によればこうだ。

 あの夜、水城は飛行機で日本に戻ってきた。成田空港からシャトルバスに乗り、東京都内に移動した。いきなり関東玄國会に顔を出すつもりはなかったので、5年前まで懇意にしていた都内にある寺に向かうつもりだった。事前に連絡を取ったところ、住職は未だ存命、現役で、水城が来るのを楽しみにしていると言ってくれた。シャトルバスで3時間。寺にほど近い停留所で下車した時には真夜中だった。コンビニで酒でも買ってから寺に向かおうと思って歩き始めた鼻先を、嗅ぎ慣れない匂いが擽った。


の匂いだった」

「──血の匂いではなくて?」


 紫煙を吐きながら尋ねる岩角の目を真っ直ぐに見て、


「さすがにそこは間違えない。水。真水の匂い。なんていうんだろうな、水道水には水道水の匂いがあるじゃない。それとは違う、こう……」

「山ん中にある滝とか湖とか、そういうとこの水の匂いか」


 口を挟んだのは里中だ。両手を打ち鳴らした水城が、


「そうそれ!」

「だが、バスの停留所からそう離れないうちに匂いが漂ったというのは……」

「そこなんだよ遼。俺もその瞬間が水、水道水、ぐらいしか連想できなかったから、近くにあった公園に入ったんだよね」


 誰かが水道の蛇口を開きっぱなしにしているか、はたまた噴水のようなものが破壊されているか。とにかく何らかの事故が起きて、ここまで水の匂いが漂ってきている可能性がある。そう考えた水城は、とりあえず目についた公園に飛び込んだ。

 公園の中には幾つかの遊具と公衆トイレ、それに小さな噴水があった。特にライトアップされているわけでもない噴水は、暑い季節であれば子どもたちが水遊びなどをして楽しむのだろう。だが、この季節に目にする噴水はただただ寒々しいだけだ。それに噴水そのものが破壊されている様子もない。

 水の匂いが漂ったと思ったが、気のせいだったか──そう考えて公園を出ようとした水城の耳に、今度は音が響いた。


 ごり ごり ごり ごり ごり


 。直感で思った。子どもの頃連れて行ってもらった博物館で、縄文時代の人々は石臼で木の実を砕いて食糧にしていた──という研究結果の実践ゾーンがあって、夢中でどんぐりだのくるみだのを砕いたのを思い出したのだ。


「石臼?」

「公園に石臼はねえだろうがよ……」


 眉根を寄せて呻く岩角の目の前で、山田が呆れ返った様子で呟いた。


「いや! 聞いて! 最後まで!」


 いくらなんでも公園に石臼があるはずがない。あったとしてもこんな時間に木の実を砕いている人間がいるわけがない。いるとしたらそれは縄文人の幽霊だ。そう思って振り返った水城の目の前で、つい今まで誰もいなかったはずの寒々しい噴水の中から、ひとりの女が這い出しているのが見えた。


 ごり ごり ごり ごり ごり


 音は続いている。それも女の方から。女の上半身は噴水を囲む石の台座の上の這い出しており、不思議なことにその体は少しも濡れていなくて、でも下半身は噴水の中で、


 ごり ごり ごり ごり ごり


 何かを砕いている音だ。

 ──骨を砕いている音だ。


「助けなきゃ!って思ってって走って行ったら、公園の中に潜んでたっぽい連中にぶん殴られて、そのままトランクに詰められて……終わり!」

「いや終わってへんやろ、そいつら全員殺して生還しとるやろが」

「それは違うぜ里中くん! 全員は殺してない! その、噴水の中から這い出してた女の子は……俺は、殺してない」


 意見を聞こうと思って顔を上げると、水城の背後にまるで執事のような姿勢の良さで立つ響野と目が合った。響野憲造という雑誌記者のことは知っていたが、こうやって同じ空間で物事を進めるのは初めてだ。彼は元殺し屋・逢坂おうさか一威かずい、通称リボルバーの逢坂の実の孫という立場をフルに活用し、岩角たちヤクザを含むアンダーグラウンドな業界で起きる出来事を面白おかしく書き立てて日銭を稼いでいるという、有体に言ってしまえば不愉快な存在だ。岩角が彼の取材を受けたことは一度もない。しかしこういった、人間以外の何物かが介入している面倒な事件ともなると、響野のような存在にも使い道があるような気がしてくるから不思議だ。


「あぅ……」

「まだ何も言ってない」

「遼は目が怖いからなー!」

「うるさい」


 既に怯えている響野に、カウンター内から出てきたバーテンダーが椅子を渡している。岩角と水城のちょうど間辺りに腰を下ろした響野に、


「何も意見はないのか、記者」

「あ……あるというか、俺の意見っていうか、その……」

「ちょっと横浜行ってきたんだよねっ!」


 水城が元気いっぱいに補足する。なるほど、だから到着が少し遅れたのか。

 響野は小さく頷くと、抱えていたトートバッグの中から茶封筒を取り出した。


「これを、借りてきました」


 テーブルの上に広げられたそれは──家系図だった。

 瞽女迫家と番場家の家系図だ。


「門外不出のアレか?」


 尋ねる里中に、


「そうです。緊急事態だからって、秋さんが」

「リコリス特権っ!」


 要するに水城純治が頭を下げたから応じてくれたということか。まったく、水城という男は。何も変わらない。少年時代、初めて彼の存在を知った時から、何も、何ひとつ。


 岩角にも分かっている。変わってしまったのは自分自身なのだと。


「で、ですね……見てください、これ」


 里中が中華街を訪問した際に得たコピーと、番場明日香の父親から託されたコピーはもう目にしていた。そして、響野が広げた家系図には、前の二枚とは決定的な違いがあった。


「──枇杷びわ苔桃こけもも


 番場家の末席に、ふたつの名前が追加されている。どちらも岩角の養子こどもの名前だ。更に。


「瞽女迫みおの名前が見当たらないな」

「そうなんです。ゆたかくんの名前も」


 瞽女迫家は澪、穣の義理の両親に当たるさや子とおさむの名前で止まっている。念の為、澪、穣の実の親である由依ゆい信次のぶじの名前も確認したが、彼らのあいだにも澪と穣というふたりの子どもの名前はない。


「この家系図は動く……生きてるんだよな? 関係者の言い方を真似るなら」

「そう、すね。動くし、生きてます。という名前が登場したり消えたりするのも全部この家系図が教えてくれます」

「それってさ」


 シュッと手を上げて水城が発言した。


「家系図が予知してるってこと?」

「紙だぞ」


 咄嗟に返す岩角に、


「紙でも門外不出だし、番場家も秋もコピーはくれたけど本体はなかなか貸してくれなかったよね。ていうことは、この家系図自体に秘密が……」

「おい」


 山田徹の低い声が静かに響いた。


「お出ましだ」


 汚れた象牙色のような分厚い紙の上で、文字がのたうっている。


 


 その名が、瞽女迫由依、信次、それに番場恭二の名前を、飲み込んだ。

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