6 - 岩角

 岩角いわすみりょうという名は架空の名前だ。本名は岩角自身も忘れてしまった。そもそも存在しなかったかもしれない。


 岩角は血の繋がった父親と母親に、肉人形として扱われていた子どもだった。今はもうほとんど思い出すことのないタワーマンションの一室。薄汚れた寝室。生臭い匂いのシーツ。いつも裸だった。父親を名乗る男には尻を犯され、母親を自称する女にはまだ幼い性器を弄ばれた。


 岩角は美しい子どもだった。


 今もあまり変わらない。好んで鏡を見る習慣はないが、髭を剃る時、髪を乾かす時、自分の顔を見る度にうんざりする。こんな顔で生まれてこなければ。あの地獄を経験することもなかっただろう。両親はヤクザからカネを借りていた。あのタワーマンションも、借金に借金を重ねて維持していたものなのだとあとから聞いた。息子を売れば良かったのに、とぼんやりと思ったことがある。実の親があそこまで執着する外見なのだ。他人相手ならば良いカネになっただろう。

 だが彼らは決して岩角を手放さなかった。岩角を弄び虐待し絶望させることに執心した。


 なぜか。


 どんなに高いカネを積んでも、生まれついての美貌を手に入れることはできないからだ。岩角は父親にも母親にも似ていなかった。誰にも似てなかった。誰にも似ずにただひとりで美しかった。奇跡のような美しさだった。


 度重なる虐待に心身の限界を覚えた岩角は、ある時人生初めての殺人を犯した。父と母を殺したのだ。年齢的には小学生、だったと思う。保育園にも小学校にも行ったことがなかったし、そもそも父と母を除く世界のすべては岩角の存在を知らなかったから、自分の年齢にも無頓着だった。両親の返り血を浴びてぼんやりとしていた岩角のもとに、そう、その日、まるで神様のように、存在しない救いの手が差し伸べられたのを、地獄の記憶を封じた脳裏に唯一ただひとつだけ昨日のことのように思い出すことができる。


 田鍋たなべとおるという男。彼はヤクザで借金取りで殺し屋だった。

 彼は岩角の両親にカネを貸していた。彼は取り立てでこの部屋を訪れた。彼が最初に岩角の殺人と、岩角という少年の存在を知った。


 僥倖、とは。こういう時に使う言葉なのだろう。


 岩角はすぐさま田鍋の保護下に入った。殺人の痕跡は、田鍋の部下である『』を生業としている人たちがすべて片付けてくれた。タワマンは売りに出されて、今、そこで誰がどのような生活をしているのかを岩角は知らない。


 『岩角遼』という名前と同時に、きょうだいを得ることになった。水城みずき純治じゅんじ。岩角よりも幾つか年下で、赤ん坊の頃から田鍋が面倒を見ているという少年だった。水城は陽気で人懐っこくて、どちらかというと大人しくて人見知り、他人の存在に慣れていない岩角のふところにするりと入り込んだ。彼との生活は、心地良かった。田鍋と水城と、そして岩角と。小学校にも通うようになった。水城と同じ学校だった。毎朝手を繋いで通学路を歩いた。学年が違うから帰りは別々になると思っていたのに、水城は岩角が校舎から出てくるまで校庭で遊んで待っていた。水城は、校内に友だちが多かった。岩角は人付き合いがうまくなくて水城のようにはなれなかったが、それでも『水城の親戚のお兄ちゃん』という設定でどうにか生活することができた。誰もが優しかった。誰も岩角に服を脱げと言わなかった。男性器をしゃぶれと命じなかった。自慰行為をして見せろと笑わなかった。


 やがて中学に進学してしばらく経った頃、田鍋がまた少年を連れて帰宅した。まずひとり。1週間もしないうちにもうひとり。最初のひとりは岩角より年上、もうひとりは水城よりは年上だが岩角よりは年下。年上は山田やまだてつ、年下は里中さとなか銀次ぎんじという名前だった。里中は病院に通っていた。覚醒剤を使っていたらしい。仕事の忙しい田鍋に頼まれて、岩角は時折里中の病院に同行した。山田が来ることもあった。水城はまだ小学生なので無理だった。里中の薄暗い面差しが、岩角は嫌いではなかった。昔の自分を見ているようだった。ここにいれば大丈夫、と声をかけたことが一度だけあった。田鍋さんと一緒にいれば、大丈夫。


 殺しの実践授業が始まったのはその頃だったろうか。水城が中学に上がった頃だったか。田鍋徹は殺し屋だ。それも凄腕の。彼にも以前は師匠と呼べる存在があったのだという。もう死んでしまったそうだが。田鍋は若い頃の自分が教え込まれたのと同じように、殺しの技術を養子たちに伝授しようとしていた。

 断る理由がなかった。

 岩角はもうふたり、殺している。この先何人殺してもそれは変わらない。同じことだ。田鍋から本職の殺し屋の技術を学ぶことで本物になれるのだとしたら──望むところだ。岩角遼は殺し屋になりたかった。養父のような、本物の殺し屋に。


 最初は田鍋の助手として。それから水城とペアを組んで。殺しに手を貸すこともあれば、死体の隠匿を任されることもあった。死んだ人間は生きている人間よりずっと重い。人が死ぬと21g体重が軽くなる、それは魂の重さなのだと何かの映画で見たのを思い出すこともあった(田鍋は夕食後に、子どもたちを集めて映画を見るのが好きだった。ジャンルはなんでもありで、彼が好きな俳優はポール・ニューマンだった)。

 長じるにつれ、岩角は殺しの仕事に自身の美貌を活用するようになっていた。誘惑と殺し、セットで使えばこんなに便利なものはない。水城は身が軽く、また手先が器用だったので、どんなものでも武器にすることができた。拳銃、刃物、そんな分かりやすい道具は水城には不要だった。割り箸一本、爪切りひとつ、手鏡一個で水城はターゲットの命を奪った。岩角と水城は、良いコンビだった。彼とふたりで人を殺している時間がいちばん幸せだった。生きていると思った。生きていけると思った。


 だが幸せは長くは続かない。岩角は、当時田鍋が属していた組の組長直々の命令で、大学に進学することになる。見目麗しく頭の回転が早い岩角を、数回しか顔を合わせたことのない組長が幹部として取り立てたいと口にしたのだという。田鍋は、喜んでいた。田鍋が組長に心酔していると、養子たち4人は知っていた。田鍋も隠しすらしなかった。田鍋徹という男の人生は、戸川とがわ和康かずやすという人間のためだけにあった。戸川に死ねと言われたら、田鍋は喜んで頭を撃ち抜いただろう。田鍋は戸川のだった。幸せなだった。


 岩角は田鍋のイヌではなかったが、養父が望むのなら断ることはできなかった。水城とのコンビを解消し、大学に進学した。水城はひとりで殺し続けていた。


 山田徹には痛覚がなかった。喧嘩には強かったが平気で無茶をするので何度も死にかけていた。山田は田鍋から喧嘩の仕方を教わった。

 里中銀次は10代にしてひどい覚醒剤中毒者だった。まずはクスリを抜き、まともに生きられるようにするのが先決だと田鍋は言った。家族には既に捨てられているという話だった。捨てられてるもんを拾ったんだからこいつは俺のもんだ、と田鍋は時々悔しそうに言った。里中をひとりで生きていけるようにする。それが俺の使命なんだ、と呻く横顔は──ヤクザでも殺し屋でもなくて、ただのだった。


 その父親は、岩角が24歳の時に死んだ。


 関西圏を牛耳る組織との抗争に巻き込まれての死だった。田鍋が死ぬ直前に、戸川組は。田鍋は戸川組の人間としてではなく、ただの狂犬として死んだ。田鍋の墓の場所を、岩角は知らない。

 組長も死んだ。幹部も皆死んだ。戸川組は壊滅状態になった。岩角は戸川組にとっての親分である、関東かんとう玄國会げんこくかいを頼った。生き残った数少ない組員たちと、それにきょうだいたち──水城、里中、山田の命を守る必要があった。

 田鍋融の息子としてではなく、戸川組の未来を任されていた岩角遼というひとりの人間として、そうする必要があった。

 はじめは2代目戸川組の組長代理として、だが数年後に戸川組は正式に解散し、岩角ら4人を含むすべての組員は関東玄國会の傘下にある幾つかの組織に引き取られるか、個人として関東玄國会に属することになった。岩角は初めから若頭候補だった。「戸川と田鍋から話は聞いている」と当時も、そして現在も関東玄國会の会長であるとどろきという男は口の端に笑みを湛えて言った。


「優秀すぎて手に負えない野郎がいるってな。うまくやって見せろ」


 岩角はうまくやった。

 殺しは水城、田鍋が率いていた死体を片付ける作業を引き受ける集団『掃除屋』の管理は里中、殺しには至らないシンプルな暴力は山田。きょうだいたちにすべてを委ね、岩角は淡々と組の中央を狙った。若頭になれば。もっと偉くなれば。田鍋さんが喜んでくれる。田鍋さんはこうしたかったんだ。偉くなった俺を見たかった。偉くなって、きょうだいたちとそれぞれの役目を果たす俺を見たかった。そうでしょう田鍋さん。田鍋さん。田鍋さん。


 


 狂ったのはいつからだっただろう。

 水城純治が、自分の知らないところで殺しを行っているという情報を得た時だっただろうか。山田とおるが田鍋の墓に密かに足を運んでいると知った時だったろうか。里中銀次が『掃除屋』だけでなく、横浜に居を構えているという噂の──ほとんど都市伝説のような存在の、『秋』という人間と関係を持っていると聞いた時だっただろうか。


 俺は。

 俺はおまえたちのために。

 泥水を啜って生きているというのに。

 おまえたちは、俺に、何も、ひとつも報いずに。


 里中に水城を殺せと命じた。水城が無理なら、勝手に殺しの仕事を請け負っている水城が死体処理を任せている生臭坊主を殺せと命じた。里中は殺し屋ではない。彼が管理しているのは『掃除屋』であって、死体を作るのは掃除屋の仕事ではない。それでも里中は命令に従った。数名いた腕自慢の舎弟を水城と、水城が懇意にしている寺の住職のもとに送り込んで、返り討ちに遭った。皆死んだ。水城純治は革製のボストンバッグに大量の刃物を詰め込んで、四ツ谷の関東玄國会本部に乗り込んできた。あの日水城が何人殺したのか、正確なところを知る人間はいない。水城は手加減をしなかった。立ち塞がるものすべてを殺した。山田は詳しい事情を知らなかったはずなのだが、溜息をひとつ吐いて岩角の側に立った。その結果、彼は利き手である左腕の肩から先を失った。相変わらず痛覚がないもので、大量出血によって死ぬところだった。救急車は水城が呼んだ。救急車と入れ違いに水城はこの国を去った。


 岩角は既に若頭だった。だが、他の年長の幹部たちから責任を取るよう詰められた。会長の轟は何も言わなかった。岩角は里中の両足の小指を切り落とし、横浜に住むという『秋』という名の情報屋に送り付けた。絶縁状のようなものだ。その上で山田、里中両名を要職から外した。彼らにはもう何も期待していない。本来ならば里中から『掃除屋』の管理権も取り上げたかったのだが、それだけは不可能だった。なぜなら、里中が『掃除屋』を管理する、というのは、死んだ田鍋の遺言だったからだ。『掃除屋』は元来ヤクザや殺し屋の部下ではない。『掃除屋』単体として動く集団である。田鍋融という人間の言葉があってどうにか里中に付いているだけで、そこに岩角が口を挟めば、翌日には『掃除屋』という名前ごと煙のように消え失せているだろう。


 あれから、5年が、経って。


 岩角いわすみりょうは今も若頭だ。山田やまだとおるは何でもない。里中さとなか銀次ぎんじも『掃除屋』の管理者であるということを除けば、何者でもない。


 水城みずき純治じゅんじが戻ってきた。


 5年経って、水城純治が相変わらずの笑顔で、岩角遼の目の前に戻ってきた。

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