5 - 岩角
「海」
翌日。岩角は池袋にいた。山田徹の持ち物である廃業したクラブに顔を出すためである。
クラブ自体は廃業しているが、雑居ビルは繁盛している。1階から6階まではすべてメイド喫茶及びメイド関係の店舗。7階だけが廃クラブである。
廃業したと聞いていたのに、店内は綺麗なものだった。なんならカウンター内にはすらりとした長身の、端正な顔立ちのバーテンダーまで立っている。
「こっちだ、若頭」
「ああ」
手招かれるままに大きな丸テーブルを囲んだソファ席に座る。正面には山田、右隣には里中、左隣は空席だった。
「響野から話は聞いた。相手は蛇だって?」
「どうやらそのようだ。里中、相手に関してはおまえの方が詳しいだろう」
現地にまで赴いたのだから──と話を振れば、里中銀次は肩を竦めて、
「Q県まで足伸ばした
「その、一升瓶だ」
ぐっと身を乗り出す岩角の前に、里中が無言で藍色の風呂敷に包まれた一升瓶を取り出す。テーブルの上にどんと置かれたその瓶にはQ県ではない海辺の土地の名物である日本酒のラベルが張られており、瓶そのものに色が付いているので中身の色を確認することはできなかった。
「海水やって? 中身……」
「俺も確認したし、例の──中華街のオンナ、あいつも海だと言っていた」
「オンナ……? ああ、
「しかも番場明日香の死んだ母親は人魚だとかいう。いよいよこれは、海だろう」
「人魚……それも秋が?」
「ああ」
「あいつ結構適当言うこともあるから全部信じんのはどうかと思うけど、せやけどまあ……水城がこの一升瓶の中身で瞽女迫聖一を一回撃退したんはほんまやろうし……」
ぐるぐると頭を悩ませる里中はさて置くとして、岩角は真正面の山田に向き直った。
「中華街のオンナには見せてもらえなかったんだが、瞽女迫・番場両家には動く家系図があるとか」
「動くというか、正確には生きる家系図、かな」
紙巻きに火を点けながら山田徹が応じる。揺れる紫煙が合図になったようで、バーテンダーが3人のもとにグラスを運んできた。中身はノンアルコールの、ジュースだ。
「響野憲造が秋から手に入れた家系図のコピーがこれ……それから、番場明日香の父親から受け取ったコピーがこっち」
「ふむ」
手渡された二枚の紙を、岩角はしげしげと観察する。番場明日香の父親から譲られたというコピーには、確かに亡くなった瞽女迫澪の祖母に当たる女性・梅、それに夭折した梅の兄・イヲの名前の傍らに『聖一』と筆文字で記されている。
一方秋から手に入れた家系図のコピーには梅、イヲの傍らには聖一の名前はなく、
「澪と穣は死んだだろう。今、『聖一』はどこにいるんだ?」
「それは秋か番場家、瞽女迫家が持ってるホンモノを見ないと分からない」
「里中、おまえ中華街のオンナと親しいだろ。電話して訊け」
「悪いけど岩角、俺も秋にそんな適当に接して許される立場やないんや。質問がある時は、中華街に足を運んで仁義切らんと」
「そんな時間はねえんだよ」
手元のグラスをひと息に空にし、煙草に火を点けながら岩角は唸った。そう、時間がない。瞽女迫聖一は岩角の身内であるびわと
「一升瓶の中身は塩水、瞽女迫聖一はほんの数滴の水を嫌がって逃げた」
「ってことは本当は蛇じゃなくて淡水魚って可能性もあるかもな」
「
「淡水魚を海水に入れたら死ぬだろう」
山田の飄然とした語り口調に岩角は小さく顔を傾ける。魚。山奥の誰にも知られていない真水で育った巨大な魚。巨大になりすぎて、元々自分が何だったのかも分からなくなって、そうして人間に崇められるがままにああなってしまったのが瞽女迫聖一の正体なのだと──したら。
「餌を連れて海に逃げるか」
「餌ってのは?」
「番場明日香に決まってんだろ」
「……ちょい待ち。あの子は
「抵抗するのか? 放っておいたら確実に聖一に殺られるっていうのに?」
睨め付けた先で、里中はぐっと奥歯を噛み締めて黙った。まあまあ、と山田が片方だけ残っている右腕をひらひらさせながら空笑いを浮かべて見せる。
「若頭、餌ならおまえのところにもいるじゃないか。びわと──」
「それ以上言ったら残りの右腕も叩き落とすからな」
「おお
「里中、餌を提供しろ。悪いようにはしない」
「せやけど、海、やろ。番場明日香を連れて海に逃げたとして、聖一が大人しく追い掛けてくるとは限らへん。罠やと思われるのが精々と違うか」
一理ある、あるといえばある。
テーブルの上の灰皿に吸い殻を放り込み、岩角は再び、二枚の家系図をじっと見詰める。
せめてこれが動いてくれれば。瞽女迫聖一が今どこに、どういう立場で存在しているのかさえ分かれば、何かのヒントになるかもしれないのに。
「──お待たせしましたー!」
その瞬間だった。
神楽坂のマンションの窓を割った時と同じテンションで、クラブのドアが大きく開かれた。
潮の匂いがした。
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