3 - 岩角
横浜を出たその足で新宿に向かい、歌舞伎町の純喫茶カズイに顔を出した。本日休業、という札が出ていたが関係ない。びわと
「じいちゃん、ただいま〜」
防弾ガラスの扉を押し開けて響野が言う。暖房の効いた店内には響野の祖父でありこの店のマスターでもある逢坂一威、それにびわと百裏の姿があり──
「若頭、お邪魔しております」
「……
カウンター席に座っていた男が、立ち上がってこちらに一礼をする。見た顔だった。確か、掃除屋の、
「里中の」
「左様でございます。こちらも少し事情があって、合流させていただきました」
「あ、遼さん! おかえりなさい!」
声で岩角の存在に気付いたのだろう。テーブル席に着いていたびわが、白杖もなくこちらに駆け寄ってくる。コートの腹にぽふりと顔を埋めて抱き着いてくる娘の頭を軽く撫で、
「何か食ったか?」
「カレー! 美味しかった、ね、モモウラ!」
「はい。とても美味しかったです」
嬉々として報告するびわと百裏は、過去一度だけこの店のマスターと顔を合わせている。だがあまり良いシチュエーションでの邂逅ではなかったし、強いて記憶に残しておくべき出来事でもなかったから、岩角は敢えて詳細を伝えずに「横浜に行ってくるから、そのあいだこの店で待っていろ」とだけ伝えてふたりを歌舞伎町に連れてきた。どうやら百裏は何かに勘付いているようだが、びわは無邪気に『純喫茶』という普段足を踏み入れることのない空間を楽しんでいる。
「もう少ししたらケーキを出そうって話をしてたんだ」
カウンターの中に立つマスター・逢坂一威が穏やかな声で言う。逢坂。この男との因縁は、水城とのそれとはまた違う方向で根深い。こんな──化け物が絡んでくる事件でもなければ、絶対に頼ったりはしなかった。
しかし、背に腹は変えられない。岩角ひとりでできることは限られている。それをあの夜、海水の入った小瓶を手に登場した水城は行動で示して見せた。
「あ、あの……」
声がした。顔を向けると、斗次の長身の向こう側に人影がいるのが分かった。
「遼さん、
びわが明るく行って、今度は明日香──
「この度は、お騒がせしてしまって」
「構わない。俺にも無関係な案件じゃない」
「何か分かりましたか?」
尋ねるのは斗次だ。びわと百裏が座っているテーブル席に椅子を一脚加えて移動し、その子、と岩角は番場明日香に視線を向ける。
「半分人魚だってよ」
「え?」
「は?」
「人魚!?」
戸惑う番場明日香、斗次に加え、びわがはしゃいだような声を上げる。
「人魚? 人魚姫? 分かる! 明日香ちゃんってそういう感じ!」
「びわ、ちょっと大人しくして」
百裏に引っ張られるようにして元の席に戻ったびわが不服げに頬を膨らませるのを見ながら、岩角は里中ら一行がQ県で手に入れた一升瓶の中身と、それにまつわる秋の推理について手短に伝えた。
「なるほど」
合点が言ったような声を上げたのは斗次だ。
「少しでも──その、人間ではない何物かの才能を番場さんが持っているのだとしたら、納得できる要素が増えますね」
「つまり?」
今度は岩角が質問をする番だった。響野はいつの間にかカウンター席に腰を下ろし、一心不乱にカルボナーラをかき込んでいる。
「番場くん」
「はい、僕が説明します。僕がその、番場家、
今はなぜか、起きている時も未来が見える。未来が降ってくる。その証言に、岩角は然程驚きもせずにまつ毛を揺らした。
「聞いた話だが、ボディガードだった虹原の死も予知したとか」
「はい……予知した未来を、変えることができなくって……」
悲しげに目を潤ませる番場明日香はぱっと見は女性なのだが、言葉を交わしてみると男性的な面もあり、最終的にはどちらでもない、横浜の秋に近い佇まいが印象に残る。びわはおそらく、明日香を女性だと思っている。百裏はどうだろう。視覚的な情報があるのとないのとでは、感じる印象もまったく変わってくるだろう。
岩角は、番場明日香を人間だと思った。
「その、夢見人であるあなたに未来が見えるようになったきっかけは?」
「きっかけ、ですか」
細い顎に手を当てて俯いた番場明日香が、短い沈黙ののちに口を開く。
「
「澪?」
「
響野の解説に、ああ、と岩角は目を細める。
水城から直接話を聞いたわけではないが、トランクの中に詰められた時にはその女性は既に亡くなっていたとか──
「澪ちゃんがどこでどうやって、どんな風に命を落としたのかを僕は知らないんです。でも、前に澪ちゃんが僕に」
遺言のようなことを口走ったという。
「夢枕に立つどころじゃなくて真っ昼間に未来が見えるようになったのには驚きましたけど」
「だが、あなたのその予知のお陰で里中たちはトラックに激突されることなく目的地に到着できた」
「……はい。だから、僕は、トラックのこととか、そういうのを教えてくれたのは澪ちゃんだって思ってます」
「そういうのを、ということは、そういうのじゃない予知もあるということか?」
問いかける岩角に、番場明日香はしっかりと首を縦に振る。
「あります」
「例えば」
「虹原さんの死がそうです。僕にはどうすることもできなかった。虹原さんと一緒に虹原さんが死ぬ予定の場所まで移動して、それで、彼が死ぬのを見届けることしか」
「……」
斗次の部下である掃除屋・虹原は、斗次との待ち合わせ場所であるショッピングモール内の映画館前で心臓発作を起こして死んだらしい。掃除屋とて一応はアンダーグラウンドの人間たちだ。その中のひとりが不審死したとなれば、当然岩角の耳にも情報は入る。
「今は?」
「え?」
「今は何か見えるか? そうだな、俺の──岩角遼の未来だとか」
立ち上がり、ふところからカードケースを取り出して、名刺を一枚手渡した。小さな紙切れを受け取った明日香が、びくり、と一瞬体を痙攣させるのが分かった。
「また、来ます」
「誰が」
「蛇が……いえ、アレは、蛇なんでしょうか……?」
未来が降ってくるという表現はどうやら的外れではないらしい。突然頭痛に襲われたかのように頭を抱える明日香の背中を、斗次が優しく撫でてやっている。
「狙ってる……びわさんとモモウラさんのこと……おふたりは、もしかして、ふつうの人生を送ってこなかった……?」
びわが見えぬ目をパチパチと瞬かせ、百裏がぽかんと口を開いている。
長い話になる。だが、番場明日香には伝えておく必要があった。
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