2 - 岩角

 初めて相対した木野ビルディングの悪魔は、想像していたよりもずっと小柄で華奢で、少年とも少女とも付かないなんとも幼い顔立ちのひとりの人間だった。

 しかし整ったその顔に浮かぶ表情はひどく冷たく、来客室に通された岩角いわすみは8つの銃口に囲まれていた。木野ビルディングのあるじにして悪魔──あきよりもずっと年上で長身の、それぞれ異なるつくりのスーツに身を包んだ人間たちが、これまた各々違う凶器の先端を来客用の椅子に腰掛ける岩角に突き付けている。傍らに立つ響野憲造は哀れなほどに青褪めていた。


「響野憲造、よくこの男を秋のところに連れてこようなんて思ったものだね」


 カーテンが開け放たれた窓辺に立つ秋が、うんざりと言った。窓の向こうには冬晴れの空が広がり、秋の人形のように端正な顔には柔らかな日差しが降り注いでいる。だが、もう1時間もすれば太陽は地平の向こうに姿を消してしまう。冬なんてそんなものだ。


 


 人名であり、組織の名前でもある。名古屋以東の裏社会を生きるもので、秋の世話になったことがない者はほとんどいないだろう。岩角はその『ほとんどいない』はずのうちのひとりなのだが。木野ビルディングの悪魔。地獄の人材派遣業。秋の本職は殺し屋の派遣だ。関東玄國会、もしくは関西圏の巨大組織である東條とうじょう組など、専属の殺し屋を飼っている組織は実は少ない。職業殺し屋はもはや絶滅危惧種なのだ。それらの、殺ししか能のない人間たちと秋は契約を結び、必要な戦場に送り出す。今は里中銀次がその動きを制限している『掃除屋』と呼ばれる人間たち──殺し屋が作り出した死体を文字通り掃除する集団も、もともとは秋の持ち物であったと聞く。金さえ積めば秋はどんな願いでも叶えてくれる。ただし、人助けだけは絶対にしない。秋は、秋という集団は絶対的な悪だ。

 今岩角に銃を向けているスーツ姿の男女も、本職は殺し屋なのだろう。想像するのは簡単だ。8人が一斉に引き金を引いたら、さすがに生き延びられる気がしない。


「初めまして。岩角という」

「知ってるよ。名刺は要らない。秋はあんたと取引する気がない」


 体のラインが見えないたっぷりとしたサイズのフーディーに身を包み、色の濃いスキニーデニムに履き潰したスニーカーという格好の秋は、煙草に火を点けながら唸った。


「お引き取り願いたい」

「そうもいかない」


 まったく、初対面だというのに嫌われたものだ。嫌われるだけのことをしでかした自覚はあるが。

 岩角遼に名前と生き方と仕事を教えた男、父と呼ぶに相応しいただひとりの存在、かつては関東玄國会傘下の小さな組に所属する殺し屋であった田鍋たなべとおるという男も秋とは昵懇であった。横浜に到着するまでの道中で響野から聞き出したところによると、秋は田鍋だとか、水城、それに里中などに特別親切に接するという。好みのタイプが分かりやすい。


 つまるところ、秋は悪人が嫌いなのだ。

 岩角とは決定的に相性が悪い。


瞽女迫ごぜさこ家の件だ」

「秋には無関係」

「それは違う。あなたが里中に情報を与え、水城と響野を同行させてQ県に送り出した。俺の目だって節穴じゃない」

「……」


 大きな舌打ちをした秋が、窓辺に置かれた灰皿に吸い殻をぐりぐりと捻じ込んだ。


「つまり?」

「秋、あなたは既に関わっている。そして俺も」

「あんたが? 嘘だろ」


 嘘。決めつけるような物言いが少しばかり愉快だった。


「昨晩、俺の家に瞽女迫聖一せいいちという人物が現れた」


 秋は答えない。窓の外を見ている。


「瞽女迫聖一は本当に突然部屋の中に姿を現し、俺の娘と、それから運転手を見てと言った」

「──?」

「あの件の時は俺たちはあなたと直接接触をしなかったが……ついこの前の夏の話だ。まさか忘れちゃいまい。の件では世話になったな」


 藍色の目を大きく見開いた秋が、かじゅえん、と小さく呻いた。


「あの時の子どもたちか!」

「そう。枇杷びわと、苔桃こけももという。今は違う名前で生活しているが」

「よりによってあんたが引き取ったのか、岩角遼」

「俺の手元にいるのがいちばん安全だ。何せ俺は関東玄國会の若頭様なものでね」


 秋が長い、長い溜息を吐いた。


「ふたりは無事?」

「無事だ。今は別のところに預けてある。ただ、瞽女迫聖一とは二度と接触させたくない」

「だろう。だろうね。アレは化け物だ。秋だって……枇杷と苔桃がまだ生きているのなら、あんな化け物には絶対に会わせたいと思わない」


 口調が、ほんの僅かだが和らいでいた。響野と視線を交わす。(今です)と響野の目が必死に訴えている。(情で押すなら、今です)と。


「これを」


 座らされている椅子の前にはテーブルも何もなく、ただ八つの銃口があるだけだったので、岩角はスーツのふところから取り出した小瓶をいちばん近くにいたドレッドヘアーの男に手渡した。


「俺たちだけだったら瞽女迫聖一を撃退できなかった」

「だが生きてる」

「その瓶を手に、が乱入してきたんだ」

「──が?」


 リコリス。リコリス・ラジアータ。秋が水城をそう呼んでいるということも響野から聞いてはいたが、変な気分だった。全然知らない人間の名前のようだ。

 学名、リコリス・ラジアータ。この国で良く知られている呼称は彼岸花、或いは曼珠沙華。

 『水城純治』とは一文字も重ならない名前だというのに。

 ドレッドヘアーの男から小瓶を受け取った秋が、傾きつつある日差しに瓶を翳している。中には何も残っていないはずだ。昨日、岩角が逆さにして振って出てきた雫、あれでおしまい。


「……海、か?」


 それなのに、秋は何もかもを承知のような声で呟いた。さすがに驚く。足を組み直した岩角は、煙草を取り出して火を点ける。


「なぜ海だと?」

「潮の匂いが」

「恐ろしい嗅覚の持ち主だな。俺は昨日、その中身を舐めた」

「……あんたもそれなりに狂ってる。普通は舐めない」

「普通?」


 と、岩角は鼻で笑い、


「家の窓ガラスを割って飛び込んできた水城純治が部屋中に瓶の中身を撒いたんだ。現場には俺と瞽女迫聖一だけじゃない、枇杷も苔桃もいた。人体に害があるものを、あいつが見境なく振り撒くはずないだろう。化け物に対しては十分効果があったようだが、ね」

「なるほど」


 一理ある。秋はそう言って、ドレッドヘアーの部下を経由して小瓶を岩角に戻した。


「響野憲造」

「ひゃい……」

「リコリスはこの瓶を、というか中身をどこで?」

「それなんですけど、みんな『海』『海』って言うけどそれ、Q県で手に入れたものなんですよ」


 困り果てた様子で眉をハの字にする響野を見上げ、続けて、と秋が促す。


「Q県の……瞽女迫と番場の一族が話し合いをしている現場に突っ込んで、まあなんやかや話を聞いて。じゃあ引き上げますかってタイミングで、女の人が、里中さんに」

「女性が? どんな女性?」

「掃除屋さんたちが保護してる番場明日香っていう子の叔母さんって言ってたかな? 番場みつさんって名前だったと思います。その蜜さんが、役に立つだろうから、って一升瓶を里中さんに……」


 その話はここを訪れる前に聞いていた。二本目の煙草に火を点けながら、岩角は黙って響野の声を耳に入れる。


「役に立つだろうから? その番場──蜜とかいう女性はQ県の人間じゃないのか?」

「あの……秋さん怒んないで聞いてね?」

「怒る? 秋がなぜ怒る必要が?」

「あまりにも荒唐無稽な話だから」

「言え。言わないと怒るぞ」

「その一升瓶の中身、番場明日香さんの死んだお母さん……つまり番場蜜さんのお姉さんの嫁入り道具だったそうです」


 秋は怒らなかった。ただ、納得したような顔をした。


「いやおかしいでしょ嫁入り道具が海水って? しかもその、番場明日香って子は今19歳とかはたちとかで、んな昔の海水……」

「もう喋らなくていい響野憲造。少し考えれば分かるだろう」

「えっ?」


 秋は大きく溜息を吐く。


だよ」

「は?」

「人魚」

「え?」

「響野憲造、ちゃんと聞け。番場明日香の母親とその妹は人魚だ。人魚の嫁入り道具に海水が入っていたとしても何もおかしくはない」

「つまり──」


 三本目の煙草に火を点けながら、岩角はようやく口を挟んだ。


「番場明日香とかいう大学生は、人魚と人間のあいだに生まれた子どもという認識でいいか?」

「番場家は人間の一族という話だから、間違いないんじゃないかな」


 化け物には化け物を。或いは人外には人外を。

 厄介な話になってきた。

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