第四章 虚空
1 - 岩角
考えることが多すぎる。
突然姿を現した得体の知れない男。大破した窓ガラス。潮の匂い。それに高笑いをしながら飛び込んできた旧知の男。
できれば二度と顔を合わせたくなかった男。
「水城さん、なんで窓ガラス割っちゃうんすか! 玄関から入れば良かったでしょ!」
「玄関でピンポンしてこんばんは〜俺で〜すっつって遼がドア開けてくれると思う? 無理でしょ!」
「だからって……」
頭痛がする。ソファからダイニングテーブルに場所を移動した岩角遼の目の前で、成人男性がふたり正座をしている。もちろん床に。床に座らされた状態で口喧嘩をしているというのだから、肝が太いというか、頭が悪いというか、とにかく言いたいことも考えることも多すぎて、結果岩角は口を噤んでしまう。
窓ガラスを割って飛び込んできた男、
それにインターフォンを鳴らし「そっちに水城さんいませんか? 俺はライターの響野です!」と名乗って入ってきた男、
水城のことは、本当はすぐに殺さなければならない。頭では分かっていた。だが、床に座る水城の背中にびわがくっついている。文字通り、ぺったりとくっついている。曰く「この人が来てくれなかったら私もモモウラも食べられちゃってた」とのことで、そういう意味では水城純治は岩角遼の子どもたちの恩人だ。個人的な遺恨があるからといって、即座に銃を向けるわけにはいかない。
「──おまえ」
「ひゃっ! はいっ!」
水城と口を利く回数をできるだけ減らしたくて、響野を睨んだ。
「うちの窓ガラスは特注品でな」
「防弾ガラスですよね?」
「察しが良いところだけは褒めてやる。で、その特注品を粉々に砕いて、いったいどこのどちら様が弁償してくれるんだ?」
「そ、それは……」
口をへの字に曲げた響野が水城に視線を向ける。水城は──水城純治はただでさえ大きな目をさらに大きく見開き、
「俺ぇ!?」
「ほかに誰が!?」
「えーっ俺……俺そんなお金持ってない……」
「だから! 玄関から入れば!」
堂々巡りだ。
別に窓ガラスのことなどどうでもいい。大した額じゃないし、今日中に修理することもできる。というか業者はもう呼んである。寒いので。
問題はそこじゃない。
殺さなくてはいけない男に命を、それも自分の命ではなく子どもたちの命を救われてしまった。そちらの方が大問題だ。
「遼さん?」
「どうした、びわ」
「怖い感じ。この人のこと、嫌いなの?」
「……」
びわは目が見えない分鼻が利く。先ほどの妙な男の登場に気付くのも早かった。
容赦無く吹き込んでくる寒風からびわを守るために、
「若頭も」
「……ああ、ありがとう」
手渡されたダウンジャケットを羽織る目の前で、水城が大きくくしゃみをした。
「寒いの!? 大丈夫?」
「大丈夫……きみ、遼の友だち? 遼にこんな若い友だちがいるなんてびっくりしたなぁ」
「友だちっていうか……娘?」
割れたガラスの破片が付いた上着を脱いだせいで黒いノーカラーシャツにグレーのカーディガンという格好の水城の腕をさすってやりながら、びわが言った。
「む?」
「娘?」
「娘!?」
話がどんどんややこしくなって来る。
「娘!? 遼結婚したの!? あっ違うわ5年前にはもう結婚してたわ、えっでも
しかも気軽に話しかけてくる。駄目だ。この男のこういうところがずっと、本当にずっと、
「瑛美とは別れた。今どこにいるかも知らない。びわは養女だ」
「びわちゃんっていうの? 俺水城! よろしくね〜!」
よろしくしないでほしいのに、水城くん! よろしく! とびわは嬉しそうに握手を交わしている。頭痛がする。
「若頭、大丈夫ですか?」
「大丈夫ではない……が」
不安げな百裏の肩をぽんぽんと叩いてやりながら、岩角は言葉を続ける。
「今はあの妙な野郎だ。──水城純治」
「ん」
正座したままの水城がこちらを見上げてくる。ああ嫌だ。この男の目が嫌だ。あまりにも真っ直ぐにこちらを見る。5年前も、今も、まるで変わることなく。
殺してしまいたい。その目を抉ってしまいたい。
「おまえはガラスをぶち破って入ってきたが、あいつは気が付いたら部屋の中にいた。どういうことだ?」
「あれは怪物」
水城は一瞬も躊躇わずに言った。
「俺だって窓ガラス割る気なんてなかったよ。鍵が開いてればそのまま入るつもりだった」
「そもそもどうやってベランダに入り込んだ? 7階だぞここは」
「壁を……」
「いい、説明しなくていい」
「訊いたのはそっち……」
「黙れ。黙って質問に答えろ。びわ。そいつにあんまりベタベタするな。人間性が歪む」
ええ〜、と不満そうな声を上げるびわを百裏がひょいと抱え上げる。水城がまたくしゃみをした。
「さっむ」
「誰のせいだと?」
「俺!」
「質問にまだ答えてないな。さっきのアレは」
「だから怪物だって。山奥から出てきた蛇、みたいなもん」
「蛇?」
言っている意味が良く分からない。小首を傾げる岩角に、そういえば、と百裏が小さく言った。
「けものの匂いがしました」
「ほう?」
「それに、土の匂い、水の匂いも」
「……ふうん」
この世のものではない存在に明るい百裏が言うのなら、その通りなのだろう。
「蛇。蛇の怪物……」
「そうそう」
明るく相槌を打つ水城に響野が肘鉄を入れている。行動としてはとても正しい。
「アレが蛇の怪物だとして……なぜ急に立ち去った? びわ、百裏、おまえたちは何もしなかったよな?」
「っていうか、できなかった」
百裏に運ばれてソファに腰を下ろしたびわが、心底悔しそうに呻いた。
「すっごく力が強くて……
「俺も、俺が食われているあいだにふたりに逃げてもらうことしか考えていませんでした」
口々に呟く若者たちに岩角は静かに頷き、水城、と今度こそ目の前の男に向かって声をかけた。
「何をした? ただの殺し屋のおまえに、あんな化け物を追い払う術があるとは俺には思えない」
「これ」
ぴょん、と跳ねるように立ち上がった水城がずっと握り締めていたらしい小瓶を差し出した。蓋は開いている。中身はない──いや。
手のひらの上で逆さにして振る。ポタリ、と水滴が落ちた。
岩角は躊躇いなくその雫を舐めた。
「……塩水?」
「そう。あ、でもいきなり舐めるのはどうかと……」
「黙れうるさい。おい響野憲造、どういうカラクリなんだこれは? あの蛇は海水が苦手だっていうのか?」
「実は俺らにもあんまり詳しいことは分かってないというか、話し合いをするために移動してるとこだったんですけど……岩角さん、予知能力って信じます?」
「は?」
信じない。信じたくない。本当のところは。だが、岩角の傍にはびわと百裏という異能の存在がいる。彼らを認めているのに予知能力を否定するというのは、とんだご都合主義だ。
「いるんじゃないのか、世界中探せば、そういうのも……」
それでできるだけ柔らかく返した岩角に、いるんだよ! と水城が飛び付いてきた。両手を捕まれ、引き寄せられる。若い頃と変わらずキラキラと輝く瞳に、岩角自身の姿が映っていた。
──離れろ、殺すぞ。
「予知能力者が予知したんだ。遼ん家に蛇が来るって。それで俺たち、俺と響野くんだけど、このマンションに来たんだよね」
蛇の化け物。予知能力者。それに海。
考えることが多すぎる。
チャイムが鳴った。百裏が応対している。窓ガラスを修理に来た業者だという。
「通してやれ。びわ、百裏、ここを出るぞ」
「どこに行くの?」
駆け寄ってきたびわの髪をくしゃくしゃと撫で、岩角は小さく息を吐いた。
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