幕間

1 - 怪怪

 久しぶりに自宅で飯を食える状態になった。


 岩角いわすみりょうは都内に3つ自宅と呼べる空間を所持しており、今夜はその中のひとつ、神楽坂にあるマンションに帰宅した。その部屋では、この初夏に養子縁組をした子どもが暮らしている。


 養子縁組である。ヤクザの盃などとは訳が違う。役所への手続きもきちんと行った。岩角は徹頭徹尾ヤクザであり、さらに言えば『岩角遼』という名前自体持って生まれた名前とは別のものなのだが、それはそれとして顧問弁護士やら何やらをフルに使ってひとりの少女を自身の娘とした。名前はという。諸般の事情があって目が見えない。年は16歳だ。


 それにもうひとり。百裏ももうらという名の男を自宅に招くことにした。百裏もまたこの初夏に岩角の専属運転手となった男で、見た目は20代前後。お気に入りの子分だ。

 せっかくだから行きつけの焼肉屋にでも連れて行ってやろうかと声をかけたのだが、びわも百裏も声を揃えて「家でご飯が食べたい」などと言う。謙虚なのか貧乏くさいのか良く分からないが、ふたりがそうしたいのであれば仕方がない。暇そうにしていた舎弟連中に声をかけて、肉と野菜を山ほど買ってこさせた。


「焼肉? おうち焼肉?」

「そうだ。好きなだけ食え」

「遼さんってお肉ばっかり! お肉ばっかりなのに太らないのおかしい!」

「そういう体質なの。……百裏、おまえも食え。おまえこそもっとしっかり食ってでかくならないと」

「はい。いただきます」


 ホットプレートを囲んでの食事は、それなりに楽しいものだった。岩角にとってのこのふたりは、血の繋がりという忌々しいものを無視できる程度には本当の子どものような存在だった。

 食事を終え、百裏がもそもそと後片付けを始める。そんなことは後にしてテレビでも見て休憩すればいいのに──などと呑気に思う岩角の傍らで、びわが、見えないはずの両目を大きく見開いた。それだけではない。背筋をピンと伸ばし、口元を戦慄わななかせ、とにかく様子が尋常ではない。


「びわ、どうした……」

「若頭!」


 キッチンに立っていたはずの百裏が、気が付いたらソファの近くに膝を付いていた。


「おかしい、おかしい、こんなのは……」

「モモウラ、モモウラも気付いた? 何これ? 誰? 誰なの?」


 震えるびわの手をぎゅっと握った百裏が、鋭い目付きで部屋中を見回している。

 岩角には何も見えないし、聞こえない。だが、彼らがそうだと言うのなら、確かにその通りなのだ。


 びわと百裏には、この世のものではないものが見える。


 岩角はそれを承知の上で、彼らを我が子のように慈しんでいる。


「──百裏、いったい何が起きている。拳銃チャカでどうにかなるか」


 ソファの下から拳銃を取り出しながら尋ねると、若いふたりがぶるぶると首を横に振る。


「駄目です若頭、ここは自分が、」

「何言ってるのモモウラ! あんたにはもう見ることしかできないの。あたしが行く!」


 舌打ちをしたい気持ちをどうにか押し殺した。この世のものではないものが、今、何らかの、敵意にも似た感情を抱いてこの部屋を訪れようとしている。そして岩角遼にはこの世のものではないものへの対抗手段がない。元殺し屋、現若頭という肩書きもこうなってしまっては無力だ。人は殺せても、バケモノは殺せない。


「岩角さん」


 声が響いた。

 百裏の眼球がぐるりと動く。睨み据えたその先、ベランダに通じる窓ガラスの前に──室内に、その男は立っていた。


 知らない男だ。


 背が高い。細面で整った顔をしている。それに先ほどの奇妙に柔らかい声。

 こんな男は知らない。こんな男に名前を教えた覚えもない。


「枇杷に、苔桃──ああ、美味そうだ。たまにはも悪くない」


 艶々と光る濃紺のスーツ。先の尖った革靴。


「土足で人の家に上がり込んでるんじゃねえよ」


 拳銃を構えながら岩角は呻く。駄目です、若頭、と百裏がその背を庇うように向けてくる。

 歯痒かった。

 子どもを守れる親になりたいのではなかったのか、俺は。


「来ないで!」


 びわが吠えた。義眼がギラギラと輝き、牙を剥く。さながらけもののような表情をする少女に、見知らぬ男は呵々と笑った。



 撃鉄を起こす。無意味でも。撃たないわけにはいかなかった。

 男がこちらに足を踏み出す。

 刹那。


 潮の匂いがした。


 男の顔が大きく歪む。まるで拳銃で撃たれたかのように。だが岩角はまだ発砲していない。

 ではなぜ。

 この匂いか。

 潮の。


……?」


 岩角の腰にしがみ付いたままで、びわが呟いた。



 辺りを見回しながら百裏も唸る。


「どこから、海が──」

!!!」


 声と共に窓ガラスが大破した。粉々になるガラスと共に、飛び込んできた男がいた。

 岩角はその男を知っていた。

 潮の匂いのするなにかを抱えた男が、


「うわはははははははははは!!!」


 と笑った。

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