2 - 里中
いかにも頑丈そうな黒の国産車が、木野ビルディングの駐車場に停まっていた。
「それでは、ご無事でね」
と手を振ったっきり、秋は書斎から出てもこなかった。
その秋から瞽女迫家の家系図のコピーを渡された男──
「なんでおまえが出てくるんや」
「歌舞伎町に顔出したら、おじいちゃんにちょっと横浜行けって言われて……」
「逢坂さんか」
響野憲造は、ヤクザを飯の種にしている。それと同時に、戦後日本で狂ったように人を殺して回った殺し屋として名高い逢坂一威の孫でもある。今里中たちが巻き込まれているような奇怪な事件が起きるとすぐに記事にしようと近付いてくるのだが、直接渦中のヤクザたちに接触できればまだ良い方で、その前に祖父に捕まって『当事者』として事件の中に放り込まれることも少なくない男だ。まだ30にもなっていないというのに、こんな生き方をしていては早死にするぞと里中は密かに響野の身を案じている。
案じてはいるが、Q県までのアシとしては使うつもりでいた。それはそれ、これはこれだ。里中には両足の小指がない。理由はそれだけではないが、クルマの運転もあまり得意ではない。Q県に辿り着く前に事故を起こす予感しかなかった。秋専属の運転手を借りることができれば、と思って木野ビルディングを訪ねたのだが、良く考えたら秋専属の運転手のレンタル代はとんでもなく高い。現在、関東玄國会に籍を置く人間として碌な仕事をしていない自分に、事件解決までの期間のレンタル料を滞納せずに払える自信は正直なかった。
そこに飛び込んできた響野憲造と水城純治だ。ちょうど良い。逢坂がそこまで見越して孫を事件の中に投入したのかどうかは分からないが、とにかく無料で使える運転手がいるのは大変ありがたい。
「里中さん、里中さん助手席に座ってください」
「なんでや。こん中やと俺がいちばん年上やろ。後ろがええわ」
「水城さん隣だとうるせえんすよ! クッソ、5年ぶりに顔を合わせたからもっとしんみりするかと思ったら……」
「しんみりしたじゃんさっき! 歌舞伎町で! なんでそんな言い方すんの!」
くちびるを尖らせて喚く水城を後部座席に投げ込んで、里中は渋々助手席に腰を下ろした。このクルマには以前も乗った記憶がある。どういう事件の時だったかは忘れてしまったが、響野はクルマやバイクに対して一家言がある人間なので、椅子の座り心地は良いし、車内でタバコを吸うこともできる。
「レッツQ県〜……」
「いえ〜い!」
響野のしおしおとした声に較べて、水城は元気いっぱいだ。カーナビで目的地を設定する響野を横目で見つつ、
「Q県言うても広いで。まずどこに向かうんや」
「Q県行きたいって言い出したのは
「せやな。まずは瞽女迫姉弟の実家かな」
亡くなった澪と穣の生家。おそらくその近くに番場明日香の実家もあるだろう。
「実家に行って、何を聞き出すんです」
「うん……? そこはそれ、そうやな……」
「ノープランっすか?」
「秋に相談しよと
「えっ! 秋が泣いたの!?」
後部座席からの大声に、里中は両手で耳を塞ぐ。
「うるさっ」
「なんで! 里中くん秋になんか意地悪言ったの!?」
「言うとらん! 人聞きの悪いこと言いなや。……5年前の話や。あのボケ、まだ引き摺っとる」
「──とりあえず、瞽女迫澪さんと穣さんの実家、っすね〜」
響野がアクセルを踏み込み、里中はダッシュボードに放り出されていた家系図のコピーを手に取った。人名も注釈もすべて毛筆、それも凄まじい達筆で書かれており、正直言って読み難い。走るクルマの中でこんなものに没頭したらあっという間に酔ってしまいそうだ。
「5年……」
後部座席から水城の声がした。
「俺は秋に逃がしてもらったけど」
「せやったな。俺はおまえを捕まえられん殺せへんで岩角に足の小指を両方持ってかれたわ」
「……お噂はかねがね、だったけど、マジなん?」
「マジや」
5年前に岩角遼というひとりの男の命をめぐって殺し合ったふたりの会話を、ハンドルを握る響野は黙って聞いている。何のために殺し合ったのか、本当はどうなるべきだったのか、殺し合いの最中にいた者を除いてそれら真実、真実めいたものを知る人間がいるとすれば、響野はその中の数少ないひとりだ。
響野は部下をすべて失い自身もまた岩角による折檻でほとんど再起不能になるまで打ちのめされた里中のもとに「本当のこと」を知りにやって来た。山田のもとにも押しかけ、水城とはすれ違いで会うことができず、岩角を訪ねて行った関東玄國会本部では塩を撒かれたと聞いた。たいした度胸だと思う。
だから、響野の前では何も隠し事をしなくていい。
「岩角はご丁寧に俺の小指を秋に送り付けてな」
「超悪趣味」
「せやな。まあ、悪趣味はどうかの判断はともかくとして、秋は……」
「……秋さん、意外と人間っすからね」
響野が低く口を挟むのに、里中は静かに頷いた。
「そういう話」
「りょ。じゃ俺からはもう突っ込まない。響野くんっていうスーパー頼りになる運転手もいるしね! よろしくう〜!」
「よろしくされたくないっす、俺は情報だけ欲しかったのに……なんなんですか、未来予知一族殺人事件って。
訝しげに言葉を吐く響野の気持ちも分かる。里中にも自分がなぜこんなことになっているのか良く分からない。
強いて言うなら、あの瞽女迫聖一という男。
彼がいったい何者で、何を考えて家族を殺して回っているのかは分からないが、最終的に予知の力が聖一のもとに流れ着くとしたら。
(厄介や。殺さなあかん)
直感がそう告げている。かつて、田鍋融のもとで人殺しの術を学んだ、元殺し屋としての直感が。
煙草に火を点けようとしていたら、上着のポケットに突っ込んだままだったスマートフォンが震えた。番場明日香の護衛役の掃除屋・
「俺や」
『今どちらに?』
「横浜から──」
『Q県に向かうところですか? 高速? 中央道? もう乗りました?』
「今乗るとこ、響野ちょい待て、そこのコンビニにクルマ停めえ」
「うす」
コンビニの駐車場に一旦クルマを停め、虹原の言葉を待つ。腕時計を見るとまだ15時を回って少し経ったぐらい。虹原は、番場明日香とともに大学にいるのではないだろうか。
「虹原?」
『……はい、少し待って、番場くん──』
やはり一緒にいるのか。それにしてはどうも、声が切羽詰まっている。
『すみません里中さん、高速やめてください。番場くんが未来を見ました、クソバカデカいトラックが逆走してくるみたいです』
「分かった。なんや、番場明日香は授業中に昼寝でもしとったんか」
『それが』
短い沈黙があった。
『断片的に急に、色々見えてるみたいで。ちょっと混乱しててヤバいんで斗次さん呼んでます。今は大学の側のカフェに……え、何? 下道もだめ?』
スマホの画面をタップして、スピーカー機能をオンにする。響野と水城にも聞かせておく必要があった。
番場明日香は混乱して叫び出したり、泣きじゃくったりはしていないようだ。虹原に向かってボソボソと、低い声で語りかけてる気配がある。
『下道も……クソバカデカいトラックが……』
「下道の方がまあ避けられるやろ。どや、響野」
「断言はできないっすね。ほら、映画とかで良くあるみたいに横っ面から突っ込んでこられたら──」
『それです! そうなります下道だと! あ……交差点の名前が、見える……?』
「言うてくれ。メモ取る」
助手席の足元に置かれていた響野の私物入れらしいトートバッグからボールペンを取り出して、虹原が告げる交差点の名前を左手の甲にぐりぐりと書き殴った。三ヶ所ある。どれも聞いたことがない名前だ。
交差点名をスマホで検索する響野が首を傾げている。
「かなり狭い道っすよ? クソバカデカいトラック……」
「でもまあ高速逆走トラックよりは逃げ道あるくない? 下道の方が。時間はかかるけどさ」
後部座席から身を乗り出して水城が言う。
「明日香くん、聞こえる? 聞こえなかったら虹原が伝言して。俺ら下道で移動すっから、何か見えたらまた教えて!」
「あの、俺運転手の響野っていいます! 俺の番号今から言うんで、もし里中さんのスマホが音信不通になったらこっち使ってください!」
響野が早口で告げる11桁を、虹原が倍速で復唱する。
『ご武運を、』
『水城さん、里中さん、僕です! あの、本当に気を付けてください! 本当に……!』
最後に割り込んできたのは、明日香の声だった。泣いてもいない、震えてもいない、凛とした響きに、
「オッケー!」
「頼るど、番場」
口々に応じて、通話を終えた。
「さて、マジで行きます? Q県」
響野の問いに、スマホの画面に視線を落としたままで里中は薄く笑う。
「行く。あと、クルマを何台か手配しとく」
「は?」
「残念やけどな響野クン、きみのこのクルマは目的地に到着する前に大破する可能性が高い。かなり高い」
「えっ……」
「全部終わるまで生き延びられたら新しいの
「えええ……」
頭を抱える響野を他所に、明日香くんさ、と水城がぽつりと呟いた。
「
「せやな。夢でしか予知でけへんて言うとった」
「でも」
「……瞽女迫に碌な人材がおらんから、番場に鞍替えした、っちゅう可能性もあるわな」
カーナビの設定を変更した運転席の響野が「6時間!」と悲鳴を上げている。6時間で、本当に済めば良いのだが。
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