5 - 山田
部屋に戻り、羽織っていた上着を床に落とし、廊下をふらふらと進む。瞽女迫穣の話は長かった。その上重かった。駅前でクルマを降りるその瞬間まで、「信じてください。信じてませんよね?」と彼は繰り返していた。憐れな。
本棚で溢れるリビングに足を踏み入れる。寝室に行けばベッドがあるが、何せ寒い。ストーブで温めてからでなければ眠れる気がしない。まずは酒だ。そして煙草だ──
「おっ帰ってきたね山田くん!」
丸テーブルに二脚の椅子。その片方に男が腰を下ろしていた。
もう嫌だ。疲れた。
「どけ。どいてくれ。そっちは俺の席」
「あれ、奥さんの席じゃなかったっけ?」
「嫁はテレビが見える席がいいって言っていつも奥に座ってたよ。どけ」
「そっか〜。まあ俺も何回かしか会ったことないしなぁ。今どうしてるの? 元気かな?」
「知らん。俺なんかには関わり合いにならん方が向こうも幸せだろうから連絡は取ってない。とにかくどけ。それよりどうやって入ったんだ、人の家に──」
名を呼ばれた殺し屋は、若い頃とまるで変わらない無邪気な笑顔でベランダに通じる窓を指差した。
「開いてた!」
「勝手に入るな」
「だって外寒くてさぁ。いやぁ参った、日本の冬は年々寒くなるって噂は聞いてたけどほんとだねぇ。困っちゃう。あ、これお土産ね。ちょっと前まで韓国にいたんだぁ。山田くんが離婚してるの忘れててコスメいっぱい買ってきちゃった。彼女とかいる今? まあいなくてもスキンケア用品は山田くんが使えばいいよね、煙草やめてないんでしょ? 肌荒れしない? するよね? 俺はする! 美白ケアにはこれがいいよーってお店のお姉さんにめちゃくちゃおすすめされちゃって──」
「水城」
「ん?」
「少し黙ってくれ」
「おう! お疲れ? ご飯作ろうか?」
「いらない。黙ってくれ」
「おう……じゃ、山田くんが元気になるまでそこで本読んでるね」
ようやく定位置である椅子を明け渡した招かれざる客こと殺し屋
「ねえ山田くん」
「喋るなって」
「俺って今手配中?」
「ああ? 決まってんだろ」
「そうなんだ。いつになったら許されるかなぁ?」
「当分はされねえだろうな。若頭様が狂ったように探し回ってる」
「あらま。じゃやっぱ帰国しない方が良かった?」
「知るか」
どうでもいい。疲れていた。本来ならばこの場で水城と殴り合って引っ捕えて組本部に連絡を入れなければならないと、頭では理解していた。だが。
水城の膝の上には曼荼羅がどうとかというタイトルの古書が置かれている。本当にそれを読みたかったのか、おまえは。
「水城」
「はい?」
「予知能力って信じるか」
「あー、あるんじゃない?」
信じるのか。まぶたがぴくりと痙攣するのを感じる。疲労のサインだ。もう寝た方がいい。
「おまえ、いつまでここにいる」
「出てけって言うならすぐ出るけど……っていうか山田くんこっちの家にあんまり帰ってなかったじゃん? 前から。だから今日もいないと思ってたんだけどな〜」
穣が側にいれば予知しただろうか。市ヶ谷のマンションに人がいます、とかなんとか。数十秒から数分先のことしか予知できないと言っていたから、そんな都合良くは行かないか。
「水城」
「はあい」
「お茶を入れてくれ」
「え? お茶? ……つ、冷たいやつ? 冷蔵庫から出してコップに入れる感じでいい?」
なぜか焦った様子の水城純治に山田徹は薄く笑い、
「キッチンの棚に茶っ葉が……で、やかんでお湯を……」
「そんなめんどくさいことを俺にさせるの!? 山田くんどうしちゃったの!?」
「疲れてるんだよ。あったかいお茶かコーヒーが飲みたい」
「コンビニで買ってきた方が早くない?」
「おまえがこの家の玄関から出るのを誰も監視してないと思うか?」
「……あっ」
そりゃそうか、と合点した様子の水城がキッチンに向かい、茶葉とやかん、それに不揃いのマグカップを棚から出し始める。食卓に突っ伏した山田は、ほとんど寝落ちしそうな気分で旧友の拙い作業風景をぼんやりと眺めている。
山田徹の左腕を、まるで大根でも切るような気軽さで切り落としたのは水城純治だ。
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