3 - 山田
翌週、山田は斗次に引きずられるようにして新宿歌舞伎町を訪れていた。
かつて新宿コマ劇場があった場所にほど近い立地に建つ三階建ての雑居ビル、その地下に用事があった。
鉄製の立て看板には凝った文字で『純喫茶カズイ』と書かれている。狭い階段を歩いて降り、分厚いガラスの扉を押し開けると、そこにはカウンター席が三つにテーブル席がふたつあるだけのこぢんまりとした空間が広がっている。
待ち合わせ相手である瞽女迫
先日の喪服姿とは異なり、藍色のノーカラーシャツにブラックデニム、だいぶ履き込んでいる艶のある革靴といった出立ちの聖一と、オーバーサイズの橙色のセーターにカーゴパンツ、踵を踏み付けたスニーカーという格好の穣は、テーブル席に向かい合わせで座り、ランチのカレーライスをかき込んでいた。
「いらっしゃい」
顔馴染みのマスターが言う。白髪で、蓬髪で、口髭をたたえた彼がいったい幾つなのかを誰も知らない。老人であるということしか分からない。こんにちは、と斗次が頭を下げ、どうも、と山田も軽く会釈をした。この店に客人を招くという話は既に通してあった。
「斗次さん、すみません。早く着いてしまって」
ふたりの姿を見るなり、聖一が立ち上がって言った。斗次は営業用の柔らかな笑みを浮かべて、
「お気になさらず。ここ美味しいですよねカレー。私もいただこうかな」
「カツ丼ください」
カウンター席に腰を下ろす斗次に被せて、山田は言った。この店はカツ丼も美味い。というかメニューに書かれているものはなんでも美味い。マスターの腕が良いのだ。もちろんコーヒーだってとても美味い。
斗次と山田の前にカレーとカツ丼が置かれ、瞽女迫兄弟がカレーを完食し、遅れてきたふたりの食事が終わるのを待つあいだ、短い沈黙が横たわった。瞽女迫兄弟がカウンターに座る斗次と山田の背中をじっと凝視しているのが分かる。それなりに圧迫感を感じる。彼らは別に、この店にグルメ探訪に来たわけではないのだ。
山田がカツ丼の器を空にし、斗次がカレーに添えられていた水を飲み終えたタイミングで、店の扉に付いているベルが涼やかな音をたてた。入店する際に店の看板をひっくり返し、『臨時休業』としておいたはずなのだが──
「
聖一が呼んだ。扉の前には、出勤前と思しきホストが立っていた。
「……瞽女迫さん、こちらは?」
斗次がにこやかに尋ねる。山田は煙草に火を点ける。カーキ色のモッズコートを引っ掛けた金髪の若者が、斗次と山田にペコリと頭を下げる。
「飛鳥っす。あの、澪ちゃんの……」
「瞽女迫澪さんは、ホストクラブに通われてたんですか?」
「違うっす! 澪ちゃんとは、幼馴染っていうか……瞽女迫家も俺的には実家っていうか……」
「飛鳥くんは澪と、高校までずっと一緒だったんです。それで、その」
「彼氏?」
どいつもこいつも歯切れが悪い。紫煙を吐きながら尋ねた山田の目をまじまじと見詰めたホスト──飛鳥は、次の瞬間その場に泣き崩れていた。
「澪ちゃん、澪ちゃん、なんで……なんで澪ちゃんが、死ぬ、なんて……!!」
「まあ、まあ落ち着いて」
呆気に取られる山田と、余計なことを言うなとばかりに脇腹を抓ってくる斗次の目の前で、マスターが飛鳥の側に歩み寄った。
「お座んなさい。コーヒーは飲める?」
「はい……」
「じゃあ、今日は特別に俺がコーヒーを奢ってあげようね。それから、ゆっくり話をしなさい」
完全に余計な気を遣わせている。
「後で支払います」
と身を乗り出して囁いた山田に、
「要らねえよ」
とマスターは低く笑って応じた。
「それより、なんなんだあの子たちは。誰が死んだって?」
「俺にもどうにも……斗次の野郎が勝手に動くもんだから……」
「そうかよ。だが、それに付き合ってやってるおまえも随分なお人好しだな」
淹れたてのコーヒーをトレーに乗せ、マスターがテーブル席に歩み寄る。顔をぐしゃぐしゃにして泣いている飛鳥と、それを宥める聖一、そしてひとり手持ち無沙汰な様子の穣の前にカップを置きながら、
「ミルクは?」
「あ、ください……」
「砂糖はそこにあるから、好きなだけ使いなさい」
マスターの穏やかな声音に少しほっとしたような表情で、穣はテーブルの上にあるシュガーポットの蓋を開けた。
また、沈黙があった。
穣がコーヒーを啜る音と、飛鳥がしゃくり上げる声だけが狭い店内に響く。山田は手持ちの煙草をすべて吸ってしまった。煙草を買い足してくると言い訳して店を出てそのまま帰ってしまおうかと思ったのだが、
(──目が合う)
合うのだ。穣と、やたらと視線がぶつかる。
思えばあの葬儀の日から、穣は山田の存在を気にしていた。無理もない話ではある。兄よりも斗次よりも上背があり、年齢も上で、しかも片腕がない奇妙な男。ろくに会話にも参加しないし、先ほどはうっかりカレーではなくカツ丼を注文してしまった。他意はなかった。だが、集団の中に於いてひとりだけ違う行動を取ると悪目立ちをする。そんなこと分かっていたはずなのに。
コーヒーを飲み終えた斗次が席を立ち、カウンターからテーブル席に移動する。店内には丸テーブルがふたつと椅子が四脚あるので、若者たちと椅子に座って話ができるのは斗次だけだ。山田は足を組み替えて、
「煙草ください」
とマスターに言った。マスターが投げて寄越したのは、紺色のピース缶だった。
「話、始めましょうか」
斗次が口火を切る。不安げにカウンター席の山田とその奥に立つマスターを見遣る聖一に、
「信じられないかもしれませんが、ここで喋った内容が外に出ることは絶対に有り得ません。私も、マスターも、必ず秘密を守ります。逆に、聖一さん、穣さん、それに飛鳥さんも、ここで見聞きしたことを決して口外しないでください」
「それって……」
「この店は、そういう店なんです。もちろん──信用できないようなら、ご帰宅いただいても構いません」
今日の斗次は髪を高い位置でお団子にし、服装も丸襟のシャツにレザージャケットとかなりカジュアルだ。敢えてそうしているのは分かる。デニムの膝に穴が開いていることだけが少し気になった。山田は山田で自宅を出る際床に落ちていた服を適当に着て出てきたので、派手な花柄のサテンシャツに黒のワイドパンツといういい加減な格好になってしまった。もちろん左腕は空っぽのままだ。
結果的に聖一の話す内容には大した価値はなかった。少なくとも山田はそう感じた。
彼は、妹は、澪は心を病んでいたのだと言った。自死を予告したり、実行に移そうとしたことも少なからずあるらしい。だから、だから?
「だから、公園で、あんな風に寝たまま死んでいるなんて──」
喉を震わせて聖一は言った。もしもすべてが演技だとしたら、瞽女迫聖一という男はなかなかの役者だ。
何の予告もなく店に現れた飛鳥というホストも、聖一の証言に同調した。彼は瞽女迫澪に惚れていたらしい。恋人になることはできなかったが、
「セックスしたことはあります」
と小さく呟いた。その件に関して、聖一はもちろん、高校生の穣も大して反応を見せないことの方が逆に気になった。
「飛鳥さんと交際しなかったということは、他に恋人がいたということですかね?」
斗次の質問にも、飛鳥は力なく項垂れるばかりで答えない。彼らはいったいここに何をしに来たのだろう。瞽女迫澪の死に様に何か思うところがあったから、葬祭ディレクターを名乗る見も知らぬ男と面会しているのだろうに。
結局のところ、斗次が証言を翻すことはなく(そもそも『公園のベンチで死んでいた』というのが嘘なのだ)、聖一が中身のある証言をすることもなく、会話はなんとなく終了した。時間を作っていただきありがとうございました、と聖一と飛鳥は頭を下げ、ご馳走様でした、と穣が小さい声で続けた。
瞽女迫一行が店を出てようやく、普通に呼吸ができるようになった。
「なんだったんだ? 連中」
両切りのピースを不器用に吸いながら、山田は呻いた。
「中身のない話を繰り返していたな。誰が死んだって?」
コーヒーカップを回収しつつマスターが呟く。斗次は眉を寄せて、
「お伝えしていませんでしたっけ? 水城さんが戻られたんですよ」
「……ああ? 水城が?」
短い沈黙ののち、マスターがひっくり返った声を上げる。何も知らなかったのか、と思った。もっとも、水城純治という殺し屋を飼い、使い、放逐した関東玄國会の内部にも、水城の帰還を知る者は少ない。若頭の岩角が話を広げることを拒んだからだ。岩角は、できるだけ誰にも知られぬように水城を殺処分にしようとしている。
「なんだ、あの野郎。戻ったなら顔ぐらい見せりゃいいのに」
いかにも不服げに呟くマスターに、山田は右肩を竦めて見せた。
「逢坂さん、忘れたわけじゃないでしょうけど、この店は常に見張られてますからね。水城が入店した日にゃあ、玄國会だけじゃない、日本中から殺し屋が集まってきて大変なことになりますよ」
「俺は別に構わないが」
「構ってください〜。頼んますよほんと……」
路地裏の世界に通じる者同士で軽口を叩き合う空間に、突然、再び、ドアベルが鳴り響いた。
扉の前に、肩で息をしながら瞽女迫穣が立っていた。
「忘れ、物……っ」
「何か忘れたのか? ハンカチ?」
マスターがつい数秒前までとはまるで違う優しげな声を出す。穣は答えない。荒く息を吐いている。
「どうした」
重ねて尋ねる山田に駆け寄った穣が、シャツの左袖を強く掴み、早口で言った。
「姉、予知能力者だったんです」
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