14:食神鬼という名の災厄。

 四つ葉には、黎明期より流れ着き居ついた四名がいるという。


 彼らは十二年ほど前、四つ葉が四つ葉としての形、すなわち赤火・青水・黄土・緑風の四つの葉を抱いたころより四天神してんしんと呼ばれている。


 四天神に手を出すことは、四つ葉において数えきれないほど多くある禁忌のうちのひとつである。だが四つ葉の赤青黄緑の四色の葉をそれぞれ治める王、四権候しけんこう――黄土の月見里、緑風の仕立屋など――とはちがい、彼らは権力を持つわけではない。


 ではなぜ手を出してはならないかというと、これは単純明快。

 彼らは、個人としてあまりにも強すぎるのだ。


 ゆえにこそ、各葉に分かれ頂点の四権候が定まったころ、四権候は四天神を奪い合った。いざというときの大戦力として、彼らを擁しておこうと考えたのだ。人数もちょうど四名。各葉はこぞって争い、彼らを引き抜こうと裏で駆け引きを続けた。


 盗神とうじん怪神かいじん危神きじん詩神しじん……当時は他に隠神不通おんしんふつう、などという異名の男もいたそうだが、彼は四天神ではなく中途からやってきた外来者のため除外された。


 とにかく、四名。四名すべてに接触がはかられ、各葉につけば今後は手厚く遇すとの旨が伝えられると、彼らは示し合わせたように別々の葉へ赴き契約を受けた。

 かくして各葉の切り札として、四天神は〝神〟を戴く異名と共に君臨した。


 緑風へやってきたのは、四名の中でもっとも蛮行が目立ち悪辣非道と謳われた〝危神〟桧原真備ひのはらまきびという男であり、以降干支が一めぐりする間、四天神の一角として散薬を扱う〝楠師処くすしどころ〟という店に居を構え己の気の向くまま望むままに過ごしてきたとのことだ。


 ……一カ月前までは、だが。


 あくる日、あまりにも蛮行が過ぎたために近隣住民の溜まった鬱憤が爆発し、不干渉だったはずの四天神にもとうとう刃が向けられる日が来た。その刃というのがご存知……三船小雪路その人である。


 近隣住民の請願は同業者の間で相当たらいまわしにされたらしく、最後に辿り着いたのが井澄の在籍するここ、アンテイクだったということだ。そしてその日は護衛の夜勤明けで、うつらうつらしていた代理店主こと八千草はよく確かめずに請け負ってしまったというわけらしい。のちほどひどく後悔していた彼女の姿を、井澄はいまもよく覚えている。


 四天神は小雪路にとって、敬い憧れ恋い焦がれる存在であった。とはいえ戦いを渇望しているものの仕事以外ではしないやらない戦わない、と分別だけはギリギリのところでついている小雪路。ここまではまだ平穏無事に暮らしてきており、アンテイクの名もまだいまほど有名ではなかった……これは仕立屋が『仕事をしているかしていないかわかりづらい』という特殊な存在であることも理由のひとつだが。


 なんにせよ、当時は彼女の二つ名も〝赤無垢あかむく〟というかわいらしいかどうかはともかくもまだマシなもので、いまほど恐ろしげなものではなかった。


 それが、得られた戦の機会によって、たがが外れた。


 理性で押さえこんできた野生が解放されると、小雪路は死にかけながら、最大の愉しみを得ながら、暴れ回った。


 その日から彼女は〝四天神を食らった鬼女〟と呼ばれるようになり。


 兄の二つ名になぞらえて、〝食神鬼〟との二つ名を与えられることとなった。



        #



 己の全身に施した摩纏廊の術式が摩擦力を強化する。踏み込めば力は逃れることなく、まっすぐに地へと落とされる。四足獣のごとく低く構えた小雪路は、指先で慎重かつ繊細に、力強く、地面をとらえ、一気に身体を前に押し出した。


 先ほどまで殴られていた痛みは、熱さとして肌の内側に残っている。渡会の打撃は厳然たる負傷として、小雪路の体力を削っている。


 けれどなにより、頭が熱くて仕方がなかった。沸騰してしまいそうだった。


 戦いへの熱に、うかされていた。


「あぁあああははははッ!」


 踏み出し、三歩目から摩擦力を弱める。足の裏で地面を滑走し、より低く構えをとる。弾んだ胸が地面にこすりそうなほどで、顔だけは上向け、しっかりと渡会の身体を視界におさめる。


「くるか。ならば見せてやる、西洋拳術〝撲身求ボクシング〟の極致!!」


 笑みを隠しきれない小雪路に警戒を強めた渡会は、素早い後退で距離を取ろうとした。


 後ろに置いた膝を抜き前の足を伸ばすことで、上体をぶれさせることなく下がるのだ。なるほど普通の立ち合いでは下半身まで視界におけないので、この歩法は見逃し易い。


 だがどれほど巧妙な後退でも、全力前進の小雪路より早いわけもない。


 残り二歩で渡会の攻撃範囲に入る、というところで、小雪路は右足を浮かせ、左足のみで地面を蹴る。蹴る瞬間に摩擦力を強め、横っ跳びに渡会の視界から消える。

 狙いは彼の掲げた左腕の作り出す、ごくわずかな死角を横切ること。


「ぬ、」


 すぐさま身体の前面をこちらへ向け対応しようとしたが、右足が接地した途端に摩擦力を緩め、地面を滑りだす小雪路の動きに対して、一瞬渡会が出遅れる。

 ここで再び摩擦力を強化、今度は右足で地面を蹴り、雷光のように左から右へ折れ曲がる軌道で渡会の右手側をとる。


「くふふひひ!」


 移動しながら右手の、平手打ち。彼の右前腕の皮膚を削ぎ取ろうと迫る。反応した渡会は左足を下げ、瞬時に右半身に切り替える。そして、斜め下からの軌道で打ち上げる拳を、短く素早く放つ。先ほど小雪路が顎に受けたものと同じ軌道だ。

 が、


「遅い」


「?!」


 小雪路の右手、鑢と化した魔手の前腕が弾かれる。触れれば削ぐはずの一撃は、彼の拳によって弾き飛ばされていた。


「〝圧破あっぱ〟」


「つっ!」


 弾かれた右手を放置し、滑りすり抜けた小雪路は、摩擦を強めたはずなのにいなされるこの現状に違和感を覚えつつ、滑走して橋の根元、壁面へ辿り着く。


「ならこれで――」


 ぶつかる寸前で足を振り上げ、壁面に打ちおろして駆ける。

 二歩で壁面をのぼり、くるりと前後反転すると上から渡会を見下ろす。重力に飛び降りをせがまれる瞬間に、壁を蹴って砲弾のごとく空中を飛び去る。


 着弾地点は渡会の横をかすめて、背後半間の距離。風を巻いて、両手で着地した小雪路は、腰をひねって側転の動きで着地した。即座に摩擦を強めて跳ね返るように地面を蹴って疾走し、また渡会の横をかすめて過ぎる。ここで足下を払うべく右足の水面蹴りを繰り出す。


 小刻みに地を踏む例の動きにかわされるや否や、蹴り足を摩擦強化で止め、低い体勢から左後ろ回し蹴りに繋げる。上体を後ろに倒してこれを避けられれば、左足を下ろす動作で重心移動を済ませ、ぎりぎりと溜め込んだ力を解放しての右手刀を振り下ろす。

 しかしこの手も空を切った。


「打たせずに打つが撲身求の極意」


 上体を揺り動かしての回避。次いで拳が、閃きのように腕へ叩き込まれる。軽いが防げないその速度。二発が腕の動きを止め、


「〝邪撫じゃぶ〟――」


 最後に、左の拳がまっすぐに小雪路の頬を打ち抜いた。


「――〝捨零斗すてれいと〟!!」


 打たれるほうへ首をそむけることで威力をいなしたが、鈍器のような衝撃が、なおも頭の芯へ響く。

 たたらを踏んだ小雪路は、一歩だけ渡会の攻撃範囲から逃れる。ぼうっとしている頭でなおも考えた。迫る渡会の拳を、次はすんでのところで右腕で防ぐ。


「シィィィッツ!」


 細く鋭く息を吐き、勢いを奪い返さんとするかのように、渡会は左の連打と右の重打を織り交ぜた。連打は、もはや止められない。両腕で頭をかばい、隙間から見えた重打の接触する瞬間に、小雪路は摩擦を弱めた。


 腕の表面で拳が滑り、それでもなお有り余る力に押されて後ろに下がる。ここで上体を後ろへ倒し、倒れる。完全に倒れきる直前で摩擦力を強めて地面を蹴り、両足を跳ね上げて蹴りつけた。渡会には回避されるが、どうせ牽制に過ぎない。後方宙返りの途中で地面に片手をつくと蹴り足で弧を描いて着地した。


「逃すと思うなよ」


 先ほどの状況を、交代した。


 後退した小雪路を追い詰める渡会は、屈んでいた小雪路へ左の拳を打ちおろす。彼の戦闘術には拳以外を使用するという選択肢はないらしい。


「っは、逃げたりせんよ!」


 立ち上がる力で頭突きを放ち、拳と相殺しようとする。ぐわん、と、額に熱が注がれた。しかしにじむ視界の中、渡会の拳は無事らしく、二撃目が流れ星のように降ってくるのを見た。

 突き倒され天を仰ぐ。


 ……またか、と思った。

 またまっすぐな拳だ、と。


 触れれば削ぐ攻撃が弾かれる理由。それは……まっすぐな軌道の拳を受けて、小雪路にもようやくわかってきた。


 渡会はまた左半身に構える。基本はあの構えなのだろう。ではなぜ右半身に変えたか、それは彼の間合いにある。


 拳の軌道を、歪ませてはならないのだ。おそらくは一定の距離で打ちあうことを想定した武術であり、それぞれの技で有効な威力を持つ間合いが決まっている。

 斜め下からの打ち上げは近距離。軽く早い一撃は長距離。最後の重い直線的な突きは中距離。


 そして渡会の拳はまっすぐだから、、、、、、、、小雪路の攻撃を弾くことが可能なのだ。


「立て。あの世にも逃がさんぞ」


 渡会の声に跳ね起きて、小雪路は両腕を振るいながら間合いの外へ出る。しかし彼は上半身を激しく左右に揺り動かし、こちらに迎撃させないよう狙いをずらしながら迫ってくる。

 左の拳に応じかね、小雪路はまたも自ら足を滑らせようと摩擦力を弱めた。

 その瞬間の足の滑りを、渡会が目の端でとらえた。


「馬鹿め!」


 すくいあげる左の打ち上げが、今度は真下から襲いかかる。伸びのある拳が、顎を捉えた。摩擦力低下により体表で受け流され――るはずが、首が捩じ切れそうな痛みと共にのけ反る。


「どれだけ滑らせることができようと、この世の物体ありとあらゆるものには地面へ引っ張る力が働いている」


 引力。特に人間の頭部は重たい。言うなれば常に下に引かれている、落ち続けている状態だ。そこへ真下からの打撃があれば、いかに摩纏廊の術といえども受け流せる力は三割にも満たないだろう。かといって摩擦力を強化して鮫肌と化しても、彼の拳術の前には意味がない。


 彼はなんの術も持たないのに。

 ただの、極めた武術のみで追い詰められているという状況を、小雪路は噛みしめていた。

 口にあふれた血液を飲み下し、首を起こそうとすれば、渡会の拳が腹を穿つ。

 二つ折りになって、ぉゔぇと嗚咽しつつ小雪路は転がった。


 痛みが重みとなって、身体を地面に這いつくばらせる。

 身体が軋んで、ばらばらになってしまいそうだった。

 戦いの中にいるという確かな実感が、


 ここまで追い詰めてくれた、、、、、、、、ことへの感謝に変わっていく。


 渡会の足音が近づくが、彼は己の間合いに入ったところで動かない。あくまでも、拳のみで戦うらしい。


 大きく息を吸って、小雪路は呼吸を止めた。


「十数えたら終いの一打を叩きこむか」


 ひとつ、ふたつ、数えられていく。


 痛い。痛いという意識の中に、冷静な思考、相手を観察してきた思考が沈殿していくのを感じていた。口からあふれた血が顎を伝って喉元を流れ落ち白いシャツにしみを作っていく。


 みっつ、よっつ、数え上げが進む。


 痛みしかなくなって、やがて目を閉じれば、自分がまだ戦いの中にいられることさえ不思議に思えた。戦いとは世ではもっと激しく厳しく、辛いものだと言われているというのに。


 いつつ、むっつ、数えが時を刻む。


 感情としては痛みは不調の証拠であり、ないほうがいいものだと小雪路も思っている。けれど結局のところ痛みは感覚で、感覚である以上感情とは切り離されているとも思うのだ。


 ななつ、やっつ、数えが終わりを迎えんとする。


 そして感覚を探り続けていくと――ふしぎだが、どこかで痛みは快楽に繋がっている。


 快楽の向こうには幸福がある。

 幸福は、感情ではなく感覚なのだ。感情と同じく目に見えないものによって発生するはずなのに、幸福は感覚という物質的なものの中に位置する。


 ここのつ――、時間が引き伸ばされる。


 小雪路の中でなにかが弾ける。


 目を開けば多幸感が、痛みと共に限界を越える。


「十。じゃあな」


 自分の顔面へ振り下ろされる、鉄槌のごとき硬い拳を見て。


 裂けあふれでる血のほとばしりと、ただの衝撃だけを覚えた。


 転がっていた小雪路の頭蓋は、渡会の拳と地面の間で強く挟まれた。


 なにかが弾ける感覚があった。


「……あー。今日は出る・・のん遅かったー」


 しゃがみこんで下段突きを放った姿勢の渡会に向かって、両足を振りまわす。背中の一点を軸に回転する独楽こまのように動き、勢いで飛び起きる。


 ふらつくこともなく直立した小雪路は、ぐきぐきと首を鳴らし、真っ赤に染まった顔を手の甲でぬぐう。だがこちらに傷口はない。


 熟れた石榴ざくろを思わせる傷口をさらした渡会は、左拳を押さえてうずくまった。


「な」


「んでだ、とか考えとるん? 答えは簡単、摩擦を強く生じさせるには、押すか引くかしなきゃならんのよね」


 刃物と同じことだ。刃物が押し引きで物体を斬るように、鑢は押し引きで物体を削る。


 渡会の拳はまっすぐだった。それは軌道が、というわけではなく……小雪路の体表に対して垂直に、面と面を押し当てるように打ちこまれていたということである。


 接触が垂直かつ一瞬で、押し引きされる間もなく離れるのであれば、物体が削れる道理はない。ならば小雪路のほうが、体表の角度をずらすか、わずかな接触時間でも摩擦が強く作用するほどに相手より早く動けばよい。後者はあの、じゃぶとかいう最速の拳術を前にしては行うに難しと判じたため、今回は前者を採用した。


 渡会の拳に対する、体表の角度を変えるようにする。しかし彼の拳は正確無比で、激しく動きまわる小雪路相手でも一切狙いを外すことはなかった。


 ゆえに強制的に角度を変えさせた。


 当たる瞬間に滑らせて、拳がずれたら摩擦を強める。摩擦緩和から摩擦強化への高速変化だ。これにより体表を滑った拳は威力を損ないかつ摩纏廊による摩擦で表皮を擦りおろされる。


「ぬかったかッ……」


「ああ愉し。でも愉しいのもそろそろ、終わりなんね」


 ゆっくりと滑って詰め寄ると、渡会は残る右拳に引きぬいたベルトを、左拳にハンケチを巻きつけ、もう拳を奪われぬようにと右半身に構えた。身体に触れさせぬ体術に、砕くに難い拳が付随する。これではさしもの小雪路も打つ手無しかと思われたが。


「無理。もう、いま、痛くないんよ。気持ちよくて、なにもかもぜんぶ、感じてる」


 肌で。頭で。周囲の動きを感じとれる。


 もはやすべてが快楽と化したに等しく、だから小雪路は身を震わせた。

 ……それが食神鬼と呼ばれた彼女の本領。

 異能ではなく、ただの才能。痛みを感ずれば感ずるほどたかぶり、猛り、最終的にはすべてを快感と判断するようになる。


「ッシ、ァァァッツ!」


 再び、右の連打が飛び交う。この拳の下を、小雪路はくぐりぬける。


 左足を滑らせ、開脚することで抜ける。狙い来る右の拳があっても、そこは首を横に素早く振るうことで防ぐ。振りまわされた髪が、渡会の拳を引き裂く。


 渡会の右拳に髪が触れた瞬間、いくつもの裂け目が刻まれていた。瞬時に摩擦力強化に切り替え、首の動きにたなびいた彼女の髪が、一本一本細かな鋸のように変じたのだ。


「く、おお」


 痛む左拳で、追撃の鉤突きを放つ。髪を振るう勢いで右へ反転してゆく小雪路の背中に当たる。けれど動きを止めるには至らず、彼女は左手を地面へつき、右後ろ回し蹴りを振り上げた。右拳を引き戻した渡会は身体を退いてかわす。


 だが当たりにいく軌道の中途で蹴りは力を失い、溶けるように崩れ落ちる。当たらずと判じた瞬間に、摩擦力を弱めて左手を滑らせた。


 そして再び摩擦力を強め、前に出していた左足の五指でしかと地面をつかむ。膝を曲げて、上半身を引き寄せる。纏うシャツにも摩纏廊は施してあり、こちらは摩擦力緩和で滑り易くなっているのだ。


 真下へ滑りこむ小雪路。身をうねらせ、股下をくぐりぬけんとする。さすがに渡会も足を使わざるを得なくなり、横に逃げようと足を上げる。致命的な隙に小雪路は反応する。

 上げられる左足に添わせるように、摩擦力を強めた右手を伸ばして、爪を立てた。


「ぐう!?」


「くふ」


 革のズボンは裂け、皮膚もずたずたにされ血にまみれる。上から降りかかる血に歓喜しながら、小雪路は滑り抜けた。背後をとると、振り向きざまに渡会の拳が放たれる前に、鋭く右の前蹴りで腎臓の位置を打つ。摩擦力を弱め身体に跳ね返ってくる反作用を利して、軸足の左のみで器用に均衡をとりながら後退する。すぐさままた前方へ飛び出し、正面切って向かい合う。


 肌の上に渡会の左拳を滑らせ、瞬時に摩擦を強めることで、一瞬だが硬直する時間を与える。

 ここで小雪路は深く踏み込んだ。

 削ぎ裂く魔手による〝衣我得〟を叩きこみ、腕の皮膚を奪い取る。


「そちらは……くれてやる!」


 捨て身。右の拳が小雪路を狙う。

 だが次の瞬間には小雪路の蹴りが、渡会の鳩尾深く刺さっていた。

 右拳が当たる前に停止し、なぜ、と彼は疑問を浮かべた顔をした。


 踏み込んだ足、だからこそ力が乗っている。そこに摩擦力緩和がかかれば、足は滑りだす。一切の予備動作がない、偶然滑ったかのような蹴りが生まれるのだ。

 ぞくぞくして、愉しくて、小雪路は頬に衣我得の一打を放つ。頬の肉が削げ、血しぶきがあがる。


「ぎ、い」


 果実の皮を剥いている気分だった。良い香りが漂い、鼻腔の奥深くでただれた匂いを感じさせる。


 渡会の右拳が真横から小雪路の顎めがけて振るわれる。肘で受けると、摩擦を弱める。くるりとかかとを軸に一回転し、右の手刀で首を狙う。直前で渡会は頭を下げ、こめかみに食らったが、まだ倒れない。


 けれど負傷は目に見えていて、顔中を血に染めている彼は、右半身に構えながらも、どこか目に怯えが混じっていた。


「お前……さっきと、別人」


「さっきも聞いたんよ、それ」


 愉しい。打たれるのも快楽だが、打つ快感もまた至高だ。そうある以上与えあうべきだ。小雪路の思考はそのように働く。

 血に濡れた腕を振るい、構えとも見えない無構で歩み寄る小雪路は、湧きあがる悦楽の情を隠しきれなくなっていた。


「くふふ――死合わせ、死合わせ」


 もっとだ。もっと欲しい。

 そう笑う小雪路に、足を引きずる渡会は顔を引きつらせた。ぞっとしたのか、構えに揺らぎが、手足に震えが混じる。見逃さず、小雪路は少しだけ、寂しい気持ちになった。


 なぜ臆すのか? 疑問に思いながら、痛みを与えにゆく。ただひたすらに、拳を振るう。そこに小雪路は疑問をさしはさまない。快い一瞬を求め獣が交尾に至るのと変わらない。


 獣と同じく。小雪路は強いから、逆らえない相手でも蹂躙する。彼女にとって、痛みは一方的なものではなく、与えられるときも与えるときも等しく愛しいものなのである。


 理解を得られたことは、ない。


 そして此度もやはり、理解は得られなかった。


 ……やがて通りは、染料をこぼしたように、ひとつの色に彩られた。


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