15:冥探偵という名の官憲。

「あ、やっと来たん?」


 井澄たちが着いたときには、戦闘は終わっていた。


 いや戦闘と呼んでいいのか。呼ぶべきなのか、これは。


 ずたずたに引き裂かれ、毛羽立った雑巾のような肌をさらして倒れている男を中心にぶちまけられた、黒ずんだ血液。

 この返り血を浴び、かつての異名どおりの〝赤無垢〟となった小雪路は摩擦の強弱を生かすための露出の多い服装で、正座を崩したような格好で座りこんでいた。


「あーあー。まぁた服血みどろにしやがって」


「ごめんなのん、兄ちゃん」


 新しいの買わねぇとな、などと口にしながら近づいて、靖周は懐から出した手拭いでぐしぐしと小雪路の顔を拭く。されるがままの小雪路は借りてきた猫のようにおとなしく、この惨状を生みだした本人には、見えない。


 けれど対峙した人間からすれば、恐怖以外の何物も感じさせぬ悪鬼羅刹にしか見えない。なまじ「殺せばもう戦えない」との思考から止めを渋るクセも相まって、戦闘は拷問に近いものとなる。


 片腕の皮膚をすべて削がれかけたのを思い出し、寒気とともに井澄は彼女を見た。にこにことしていやがった。


「また怪我もしやがって。どうしてお前は最初から本気出さねーんだ」


「本気出したらすぐ終わっちゃうんよ」


「それでいーんだよ」


 ぺしぺしと頭をはたき、呆れた様子で靖周は近くに落ちていた着物を取りに行く。ぱたぱたと、元気そうに小雪路もあとを追った。


「派手にやられたようですね、小雪路」


「んーまーね。でも今日は山井さんのお世話にならんよ。明日には治っとる治っとる」


 ほとんどが返り血ということである。怪我は少ないというより、意にしない。


 やせ我慢ではなく、一定以上の負傷をすると、小雪路は痛みをすべて快感に変えてしまうのだ。もちろん怪我としては残っているということであるが、回復力も凄まじいので数日すれば大抵の怪我は綺麗に治ってしまう。

 山井にはいつも世話をかけている小雪路だが、本格的な手当てを頼むほどの怪我となったのは、それこそ神を食らった先月の戦いくらいである。


「それは重畳。しかし、また止めを刺していないんですね」


 ぎくりとした小雪路に、井澄は何も言わず横を通り過ぎて血だまりに沈む男に近寄る。かなりの失血で意識はほぼ無い上に、手足の肉も削ぎ取られているために逃げられることはまずないのだろうが、生きていることは生きている。

 井澄が腕を振るい、異刀鋸をちらつかせると八千草がか細い声をあげて目を逸らした。


 井澄は男から目を逸らさない。


「まあ放っておいても死ぬのでしょうが。反撃の懸念は無くしておきましょう」


「殺すん?」


「ええ。事情なら」


 小雪路の呼びかけに、橋の根元で震えている男を指差した。動きから察するに足を痛めている様子だが、それ以上にこの惨状に怯えすくんで、動けないでいるようだった。


「そっちにいる、こいつらの主人とやらに聞けばいいでしょうし。生かしておく意味も、また価値もありません。警察に渡すという手もあるにはありますが、今回は黄土が警察に対し隠匿しようとした事件を私たちで解決し、黄土へ貸しを作り優位を得るための行動です。根底からぱあにするのは旨味がない」


 というわけで、と屈み、異刀鋸を振り抜く。

 首を掻き斬られ男は容易く絶命した。あ、と間の抜けた声で小雪路は口を開けたが、終わってしまったことには興味を失ったか、ふむんと息のむ声とともに男から意識を離す。


「ざんねん。ひさびさに、歯ごたえのある相手だったんに」


「殺し屋同士など、一期一会で当然でしょう。そして殺し屋であるならば死するのも必然。条理ですよ」


 吐き捨てるように言えば、靖周がじっと井澄を見ていた。感情の色を見られている気がしてなんとも居心地が悪かったが、気にしないふりをした。


 こつりと地面にアンブレイラをついた八千草は、自分の存在を周りに知られるのを恐れたように、慌てて先端を浮かせる。身体の正面を向けた井澄に気づくと、すっと目を伏せた。


 傷つけることには慣れたといっても未だに生死に関わる手傷を相手に負わせることもなく。人死にには慣れない彼女の様子は、見ていると自分が責められるべき存在のように思える……という時期もあったが、いまはそうでもない。


 ただ彼女の分も己が刃を振るうだけだと、そう思う。

 振るおうと思うのではない。間に井澄の意志は介在していない。

 異刀鋸をしまった井澄は、倒れ伏した男の遺体を道の端へ移動させると、振り返って三人へ呼びかけた。


「さて引き上げますか。こいつには布をかぶせておいて、あとで回収しましょう。盗まれるような金品は持っていませんし、はらわたを奪っていた犯人も、先ほど死にましたし。放置するに問題はないかと」


「で、問題は、そいつかい」


 重たそうな口を開いた八千草は、アンブレイラの先で、がたがた震える男を指した。ここまで殺してきた護衛団の主人であるらしい男は自分が窮地にあると知って、やにわに慌て始めた。


 でっぷりと肥え太っており、仕立てのいいシャツをはちきれそうにさせながら、辛うじて釦を留めている。極端に胴体がまるまるとした様は、だるまを連想させた。金色の髪を肩まで伸ばした男は、肉に埋まった細い眼の周りを、汗と脂で光らせていた。ちいさなおちょぼ口が独逸語で聞くに堪えない罵詈雑言を吐く。


『くそ、クソッ! なぁにが護剣団ごけんだんだ! 私を逃がして死ぬならまだしも、このような目に遭わせおって、やはり剣など近代的ではない。役に立たんな!』


『彼らは手を尽くしたと思いますよ。逃げられなかったのは、運が悪かったのと、私どもが相手であったためです』


 同じく独逸語で返せば、男は首をかしげ、つばを吐き散らしながら叫んだ。


『……薄汚い極東の猿が、我が祖国の言葉を口にするか? はんッ、偉くなったものだな! つい先日まで国を開くことさえしていなかったというのに』


『いやあ我々が偉くなったというより、あなたが低い位置にまで降りてきただけではないですかね。嘉田屋はたしかにこの四つ葉においては随一の遊廓ですが、所詮はこのような裏の社会にある売春窟ですし』


『売春。そうその通りだな。いかに美辞麗句で飾り立てられる容姿であろうと、結局のところは売春だ! ああまったく不愉快だ、なぜあのような共同便所のチャブ屋風情を一人死なせた程度で、私がこんな目に遭うのか。理解できんよ』


『その共同便所を喜んで何度も買っていたのはどこのどいつです。職業に貴賎はありませんよ。人格に貴賎があるんです』


 まだわめこうとする男の言葉を聞くのが嫌で、井澄は左足で鋭く胸部を踏みつけ、男の動きを止めた。やわい、贅肉の感触に不快感をあらわにすると、折り曲げて親指で押さえ、力を溜めた中指を、男の顎に突きつける。


 がきん、と顎関節が外れる音がして、外れた下顎は喉にめりこむように落ちる。同時に激痛で男は気絶し、やれやれと指先をハンケチでぬぐった井澄はその場にそれを捨てた。八千草は、冷めた目でこちらを見る。


「なんと言っていたんだい?」


「知らないほうがいいですよ。やはり、語学が達者でもいいことばかりではありません」


「つーかお前いくつの言語操れるんだ」


「五つですよ。この国の言葉に、独逸、英吉利、清、和蘭オランダ


「どこで学んだのだろうね」


「どこでしょうね。八千草は、いまは英吉利のを覚えるので手いっぱいでしたっけ」


「やめておくれよ……どうにもあの、早口で大仰な連中と話すのは、難しいのだよ」


 困り顔でうつむく八千草を見て、やっといつもの調子に戻ったかな、と感じた井澄はちょっと笑った。


 それから太った男を縛り上げ、嘉田屋へ引き渡す準備をする。ほどなくして追撃してきたらしい嘉田屋の護衛たちが井澄たちを見つけ、夜半過ぎ。ようやくこの一件は終息した。



        #



 三日ほどして。


 細かな事情の整理もあらかた終わったところで、井澄たちは再び嘉田屋に向かっていた。先日と同じく、盛江ステイション前の水晶広場から、馬車に乗って移動する。御者は小雪路が助けた久保で、「あのときは本当に助かりました」などと改まったお礼を口にされて、照れた小雪路はにこにこと笑みを絶やさなかった。


 車中でパイプから煙をくゆらせる八千草は、あれからのことについて思い出したように語った。


「そういえば、あの通り魔の女、奈津美とやらの腑分けも、山井さんが担当したそうだよ」


「へえ、そうなんですか」


「あの人からしたら自分の知人を殺した女だ、いろいろ思うところはあったのだろうけどね。仕事は仕事、割り切ってやったそうだ。すると、わかったことがあった。奈津美は、子を産めない身体だったということだ」


 空いた手で、なだらかな曲線を描く腹部を撫でる。なまめかしい手つきに見えた井澄は目を逸らすか否か迷ったが、八千草がじいとこちらを見ていたので、視線を顔へあげた。


「子を宿すことができないと?」


「正確にはそのための器官に損傷があったらしい。腫瘍、と呼ばれるものらしいね。かなり肥大化していて、取り除くこともできなかったそうだ。そして驚くべきは、奴の胃の腑に入っていたものさ」


「人肉でも食べていましたか」


「え、だれかに聞いたの?」


 きょとんとした顔でこちらを見る八千草に見とれつつ、この前小雪路が冗談で言っていたのを拝借しただけですよ、と返す。なあんだと納得した八千草は、車窓からの景色に目を移して端正な横顔をこちらに向けると、またパイプをひと吸いしてから言葉を吐いた。


「あいつが食べていたものこそ、子を宿す場所、子宮さ。ほら、ぼくらが現場に踏み込んだとき、あいつは『ごちそうさま』なんて口にしていたろう」


「ああ、あれ本当に食べていたんですね。ということは、解体を派手にしていたのも、持ち去られた臓器が複数あったことも、子宮が目的だと明かさないためですか」


「そのようだね。……そうそう、しんの国では、身体の不調がある部位を治すには、生き物の同じ部位を食せという考えがあるそうだよ」


「足を怪我すれば足を、腕を怪我すれば腕を、というやつですか」


「そう。普通は生き物といっても、他の獣などのことだろうけれど……人肉食は呪術的な意味合いが強い。皮肉なものだね、生きたまま他人を解体できるほどの医術を身につけながら、最後に頼れたのは呪術だったとは」


「効果はあるんですかね」


「さてね。少なくとも三人分の子宮を食したわけだけれど、腫瘍に変化はあったのか、なかったのか」


 ごとごと馬車は進み、景色が移り変わる。大通りを抜けて、薄暗い、三区へと進んでいく。

 車内では小雪路が早くも居眠りをしており、靖周は話を聞いてこそいるもののとくに口を挟む様子はない。こんなことなら二人とも来なければいいのに、そうすれば二人きりなのに、と思いながら、井澄は八千草に話を振った。


「あの腕が異様に長い男、四之助はなんだったんですか?」


「あれは……なんだろう、よくわからないらしい。ただひとつ、腕に異常があったとか」


「構造以外でですか」


「うん。両腕が、ちがう人間のものであったらしい」


 膝に肘ついて頬杖を立てた八千草は、うさんくさいものを実際に目にしているかのように、眉間にしわを寄せた。井澄はあのしわを指でつつきたい、という衝動を抑える。


「死体から、継ぎ接ぎしたような印象だったとか。医術も極めると、妙なことをしだすものであるね」


「腕が他人のものになるなど、ぞっとします」


「あー、お前の場合、戦闘において支障が出そうだものね」


 けらけらと笑い、八千草はまた景色に目を戻した。そして井澄は手帳を確認し、今回の事件についての走り書きに、いま聞いた話を備考として付けくわえた。


 そこで端にあった「八千草と煙管 買いに行く 重要」という文に気づき、忘れてしまっていた自分の頭をひとつ殴ってから、パイプの手入れをはじめていた彼女に声をかける。


「あの、八千草。今日の給金が入りましたら、煙管、買いに行きませんか」


「ん……? ああ、そんなこと言ったっけねぇ。言われてみたら、煙管で刻み煙草を喫みたくなってきた。帰りに、明藤本通りのほうでお店を探すとするかい」


「私から贈りますよ」


「ええ、自分で選びたいのだけれど」


「……ではお代を出します」


「いいよ。井澄もたまには自分のためにお金を使えばいいのではないかな」


 八千草のためが自分のためなのだ、と思いつつも、いまは言っても通じまいと涙を飲んで口をつぐんだ。この様子を見て思うところでもあったのか、八千草が問いかける。


「なにか欲しいものはないのかい。なんなら、ぼくからもたまには贈り物をしようか」


 ならば八千草本人を、と言うわけにもいかず、井澄は悩んだ。物欲として形に表せるものがほとんどないのだった。横で見ていた靖周は……じつは井澄の心境、八千草への好意を察している数少ない人物のひとりであるため、そっと笑って窓枠に頬杖をついていた。助け船はくれないらしい。


 あまりに真剣に、長時間悩んだので、次第に八千草がうろたえはじめる。ばつが悪そうに目を伏せて、ちらちらと上目遣いにこちらを見、唇をむずむずとさせていた。


「……えーと、井澄。もしかして、とは、思うのだけど」


 はっ、と悩み過ぎていたことに気づき、今度は井澄がうろたえる。狼狽する二人が向き合う構図はかなり奇妙だろうと思いながらも、もし相手に自分の真意が伝わっていたら……と考え出したら、恐怖で頭がいっぱいになってきた。


「や、八千草、」


「……ああ、やっぱり」


 やっぱりって? なにが? 名前呼んだだけなのに。


 動揺した井澄は座席の背もたれに深く背をあずけ、もういっそこのまま車体と同化したいとさえ思った。すると心のどこかで冷静な自分が、それはちょっと同化してるぞとくだらないことを言った。つまるところぜんぜん冷静じゃない。そこに、追い打ちをかけるように八千草が間を詰める。座席から身を乗り出して、大きな瞳に、井澄を映す。


「やっぱり、ぼくの」「あああ八千草そのですね」「ぼくの給金では足りないようなものなのかい」「……へ」


 固まった井澄を見て、八千草は図星をつかれた人間の反応と見たか、間違った確信を得て小さくうめき、小さくうなずいた。靖周が噴き出した。井澄ににらまれると、妹にならって眠ったふりをした。


「ひょっとして、生活費用をのぞいて嗜好品も買わず、とくにお金を使わないのも……買いたいもののために貯金をしているのかな」


「え、あの、クロウゼット預金はしていますけれど、べつにそういう、」


「軽はずみに欲しいもの、などと訊いてしまってごめん。煙管をぼくに贈るというのも、貯金の負担になるようなら、しなくても構わないから」


「ええー」


 落胆して肩を落とす。ちらと顔色をうかがえば、肩を落としたのを安堵の表現と判じたか、八千草は照れ笑いを浮かべて髪の毛先をいじりはじめた。


 だめだこりゃ、と頭を抱えた井澄は、横でひっひひと笑いだした靖周の向こうずねを右足刀で蹴り飛ばした。


「……けれどたまには、従業員をねぎらってなにかしたいところではあるね。あ、そうだ、二九九亭はもうないけれど、四層四区にまた新しく肉鍋屋ができたそうなのだよ。今日はそこにみんなで行くというのはどうだろう。もちろんぼくがお代を持つよ」


「お、なに? 俺たちも連れてってくれんの?」


 うまく力をいなしたか、さほど痛みもなさそうな靖周が下手なたぬき寝入りをやめて会話に参じてくる。また余計なことを、と歯ぎしりを響かせれば、うわ、と引いた声をあげて、靖周は井澄から距離をとろうと尻の位置をずらした。


「……とか調子いいこと考えたけど、わりーな。今日はひさびさに兄妹水入らずでつつましやかな食事しようと決めてたんだ」


「そうかい。四人分くらいならばなんとかなるのだけれど……事情あっては仕方がないね」


「というわけで二人だけですね。二人ならば肉鍋も味気ないでしょうし、先月食べたばかりですし。八千草、私は久方ぶりに酒を飲みたい気分なんですが」


 早口でまくしたて、靖周がもう余計なことを言わないよう、そして八千草が変なほうへ勘違いしないように方向性を定めた。


「酒?」


「だめですか」


 じろりと見下ろせば、なにか圧力でも発してしまったのか、乗り出していた身体を心もち後ろに下げて、いや構わないけどと八千草は言った。よし、これはこれで結果良好。井澄は心中で拳を握った。


「酒というと、焼酎か、清酒か、なにがいいんだい?」


「たまには洋酒などもどうでしょう。三層にバアラウンジというところがあるそうですよ。最近はそこで電気ブランというものを出しているそうで、以前から気になっていたんです」


「あ、電気ブランはいいね。そういえばぼくも少し前に気になっていたのだよ」


 そりゃそうだ。それを覚えていたからこそ井澄は提案したのだ。


「いくらかひっかけてから帰りましょう。明日は仕事もありませんし、遅くまで寝ていても大丈夫です。それになんといっても」


 酒は百薬の長だ。



        #


           #



 暗い部屋に閉じ込められて、激しい責め苦にあって、いったいどれほどの時間が過ぎたのか。


 護剣団の主人であった、太った男――ヨハン・リヒターという商人は、時間の感覚も失いつつある中で、ただただ行いを悔やんでいた。それは「次はこのような失敗には遭わない、うまくやろう」という決意であり、世間一般でいうところの反省とはほど遠いものであったが、もはやそれを聞く者もいない。


 冷たい石の床の上で、裸のままに寝転がり。すでに足は感覚もなく、全ての指から爪は失われていて、力を込めて立つこともできない。隙間風が吹くと、剥ぎ取られた頭皮の残骸が激痛を催した。


『ぐう……』


 ただ彼を生かしているのは、執念。自分をこのような目に遭わせた者たちすべてへ、復讐を果たさんという歪んだ意志のみだった。


 けれどそれにも限界がある。途切れがちになる意識の中で、ふわりと、腰のあたりから身体が浮くような感覚に襲われることがあった。これが死の縁ではないかと恐怖に駆られ、血が乾ききった掌で、石の床を叩いた。


 長い間、そのようにして正気を保っていた。いや、感覚として長いのみで、実際にはわずかな時間なのかもしれない。とにかく、生きていようというだけの意識が、頭の中に浮いていた。


 だから扉が開いたとき、彼の頭には助けがきたのだという無根拠な自信のみが渦巻いた。ここまでの拷問にあってなおそんな思考ができたことは、賞賛に値するのかもしれない。

 それともすでに彼は、気がふれてしまったのか。


 元からか。


『だれ、だ! わたし、を、たすけ』


今日こんにちまたまた御機嫌よう。貴殿がヨハン・リヒターでありますかな』


 流暢な独逸語で話しかける人物は、ひさびさの光に慣れぬヨハンには、うまく視認できない。松明たいまつと思しき、揺らめく焔で手元を照らしているらしく影が長く伸びていた。


 はきはきと、律動を刻むような語調で、人影は喋った。


『巷を騒がせていた娼枝連続殺人事件の下手人を探そう、とのことで捜査を進めてまいりましたが、いやはや真実事実とは小説戯曲よりも奇なり。まさか下手人が二人とは。事件の中に死体を投げ込み、事実を隠匿しようなどとは……お上をも恐れぬ大胆不敵な所業にございますな、ヨハン殿』


『な、にを』


『いえわかっておりますとも。そのようなことがあっても、人は法の下に平等。あー、まあ、貴方がた異邦人にはそもそも、治外法権というものが働くのではありますが、異国もこの国も同じ空の下ならば法の下であることもまた同じ。由々しき事態でありますな』


 歌うように言って、進んでくる。


 やっと光に慣れた目に照らされたのは……カァキ色の詰め襟に、沼のごとき濃緑の被外套マントを羽織る、痩身の男。きちんと帽子をかぶっており、眼光が、松明を映して揺らめいていた。


『法の下でしかと裁きを受けねば。暗闇にまぎれてこそこそと私刑を行うようでは、まっこと不平等。そうは思いませんか?』


『う、む……』


『ご安心を。自分は式守しきもり四等巡査。警察であります』


『けい、さつ』


『ええ。もう安心です。貴殿は法の下に出ることができたのです』


 まだ死なずに済む、とそれだけを思う。助けが来た、そのただひとつの事実に、ヨハンは胸の内でくすぶらせていた復讐の怨念を果たす機会ができたと、歓喜の涙を流した。


『涙流すほどに嬉しいのでありますか。そうも喜んでいただけると、自分としても感極まりますな。では、いきましょうか』


 式守は被外套をはためかせてヨハンの横へ屈みこむと、彼の腋の下へ手を差し入れた。肩を借りても歩けないかも、などと嫌な予想をしたが、そのような考えはまったく必要無かった。


 うつぶせだったヨハンは仰向けにされたのみで。


 その心の臓に、刃を突き立てられたからだ。


『は、』


『うむ、やはり法は即断即決がよろしいですな。時間をかけても結果は変わらないのです』


 突き立てた軍刀サアベルを引き抜き、式守は満足げにヨハンを見下ろした。そして、懐から紙片を取り出した。


『ヨハン・リヒター。罪状は殺人と、禁取引物輸出入法違反であります。阿片あへんの輸入を行おうとしたことを覚えておりますかな』


 阿片、と言われて、ヨハンは首を横に振ろうとした。ヨハンはたしかに商人であり、貿易のためにこの四つ葉に滞在していたが、そのようなものは扱った覚えがない。けれど式守はひとりで納得してしまった様子で、また満足げな笑みを見せると、軍刀をその紙片でぬぐって、鞘に納めた。


『いけませんな、まっこと、いけません。罪あらば裁かねば。警察は忙しいです』


 かつかつと去りゆく背中に、声をかけることもできず。ヨハンは、自分の顔の横に落ちた紙片に、震える眼球の焦点を合わせた。


 そこに記された文章は、まるで公に認められたものとは思えない、落書きじみた汚い文字の羅列だった。


『おっと、ひとつ名乗り忘れましたな』


 扉を閉める直前、式守は人差し指を立てると、ヨハンを振り返った。


『四等巡査は表の名であります。自分、いまの本職は探偵――〝冥探偵めいたんてい〟と申します。ではさようなら』


 扉は重く、二度と開かないのではないかという音と共に、閉ざされた。


「さて次は――ヨハン殿の配下にあった護衛団、これを皆殺しにした者たちですな。罪状は殺人。遺体損壊。遺体遺棄。腕が鳴りますな」


 式守は、愉しそうに歩く。


「罪悪には恩赦など不要、許しも不要、ただ即座に刑罰を執行すべし、迷いは不要」


 誤った正義官は、すでに行き場を定めていた。


「そしてなにより……罪人の人権も不要!」



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