13:かませという名の狂剣。

 追いすがる小雪路は、薄暗がりの中にも相手の姿をくっきりととらえていた。類まれなる嗅覚により位置を察し、気配により動きを補足し、視界の中央よりわずかにずれた位置に相手を置く。暗闇でものを見ようとする場合は、こうすることで相手の輪郭をとらえることができるのだ。


 前を行く男は長身で、先ほどいた眼鏡の男・ベルトハルトにひけを取らない。人を抱えているためか前傾姿勢でも狭い路地でも驚くほどの健脚により、身を前方へ滑りこませていく。足の筋肉が撥條ばねでできているのでは、と疑うほどに軽やかな足取りだった。


 しかしどれほど軽やかな足取りに見えても、人ひとり抱えての全力疾走は彼の身体に負担をかけつづけていた。次第に失速してゆく。かかとから地面に接し、爪先で蹴りだすまでの挙動に、遅れが生じ始める。これを見逃すほど小雪路は甘くはない。


 道幅が三間さんけんと少し広くなり、進行方向の頭上二間ほどの位置に橋がかかる場所に出た。ここで勝負に出る。


「しっ」


 鋭く息を吐き、丹田に重心を落として踏み込み。鈍い衝撃を膝から大腿へ通し、落としこんだ重心を前に打ち出して跳躍する。闇に軌道が焼きつくような、素早い動作で壁面へ接する。左手下方へ遁走を続ける男を臨んでさらに跳躍は続く。


 摩擦力を強め逃げ場をなくした力の運用で、空へ身を投げだす。くるりと頭が地面へと振り下ろされ、反転する視界のなか確かな感覚でもって足を天へ向ける。


「あ、ら、よっとぉ!」


 跳躍中に前方宙返りを成して、小雪路は橋の底、橋脚の根元に足を叩きつけた。


 そのまま膝を曲げ力を溜めこみ、地面へ引きずり落とそうとする引力をも利して真下へ走り込んできた男へと一気に墜落する。また落下中に前転することで頭を上へ反転させ右足を高く高く振り上げる。風切り音が、耳元で荒れ狂った。


「ぜあああっ!」


 渾身のかかと落としが、頭蓋を打ち割らんとする威力で迫る。男は脅威の存在に気づくや否や足を止め、逃れられないと知ったか、抱えていた主を道端へ投げだす。けれどもはや小雪路の足は止まらない。振りかざされた唐竹割りの蹴撃は男の頭頂部へ吸いこまれるように落ちる。


 男は、素早く構えをとった。


 左半身。左拳は顔から三、四寸の位置にかざされ、右拳はさらに近く、顎を守るように配される。腋は締められており、窮屈そうな肩の縮め方がなされ、両足の位置も狭く取られた。剣術諸流派に見られるような八の字に開いた撞木足しゅもくあしでもなければ、継ぎ足のしやすい位置でもない。運足の形がまったく見えない型である。


 その足が、きゅきゅ、と細かく踏み込みを刻んだ。

 体幹を崩さぬまま、上体がぶれる。


 腰をきり肩が入り、左拳が手首から先をしならせるように、鋭く動いた。だが下駄に触れようものなら、摩纏廊による摩擦力強化を成しざらついた表面に削られ男の手はずたずたになる。まず相手の攻撃手段を奪えるのならそれもよし、と判じて、小雪路は打ち下ろす。


 ぱん、と音が弾けた。

 下駄の命中した、音ではない。


 下駄が弾かれた音だった。男の左拳で弾かれた右足が、わずかに横へ逸れていた。そして奴の拳は……無傷!


「なんなっ、」


 言葉を継ぐ暇もなく、右拳が連なる。とっさのことで摩擦力低下を左腕にかけ、いなすようにして滑らせる。体表に鞭でしたたかに打たれたような、鋭く張り付く痛みが走るが内部まで衝撃を伝えずかわすことには成功した。


 そのまま右足から着地し、後退する。一間ほどの距離――徒手の人間を相手取る際、小雪路が摩纏廊による滑走と急停止を駆使しやすい、もっとも得意とする間合い――をとり男を観察する。

 先ほどと変わらぬ左半身で、時折細かな踏み込みを刻んでいる奇妙な構え。


 男はほとんど剃髪に近い頭で、耳の前から後頭部にかけてのみ、黒々とした髪が残っていた。えらの張った顔立ちはにやにやと笑んでいて、小さく細い瞳は絶えず小雪路を睨む。浅黒い身体は極限まで鍛え上げられ筋肉が隆起した二の腕を誇示するかのように、裸体の上に黒革のチヨツキとズボンを身につけており、足には編みあげの長靴ブウツを履いている。

 すべてが巨大で、小雪路と比べれば腕も足も胴も一回り大きいのではないだろうか。


 咆哮するような、他者を恫喝することに慣れた声音で、男は口を開いた。


「おや、ずいぶんしつこく追ってくる娼枝だと思ったが……戦えるのか?」


 小雪路の、はだけたシャツに着物を羽織るだけの露出が高い服装に目を留め、男は笑う。


「あれ、あんたは異邦人じゃないのん?」


 耳に慣れた言語が飛びだしてきたことで、小雪路は首をかしげた。ふっと視線を斜め上へ逸らした男は、肩をすくめて答える。


「ああ、まあな。俺は渡会わたらい、英吉利へ渡っていたところをいまの雇い主に拾われて、帰ってきた次第でな」


 言って、ちらりと道端に倒れる主人へ目を向ける。まだ逃げてなかったのか、と小雪路が見れば、主人は足を押さえてなにやらわめいていた。投げだされたときに、足を痛めたらしい。


「やれやれ、痛めた程度だ、折れちゃいないだろうに。やたらとうるさい雇いぬ、おっと!」


 渡会が喋る間に主人だけでも確保せんと小雪路が迫れば、例の構えのまま身を屈めて突っ込んできて小雪路の進行を留める。笑んだ気色が、顔いっぱいに広がった。


「ったく油断も隙もない嬢ちゃんだ。大した腕と、あと胸だな」


「褒めてもらえてうれしいん、よっ!」


 羽織る着物の裾を払い、布の奥に予備動作を隠しつつ、右の前蹴りを放つ。例の小刻みな踏み込みで地面を削るように横へ身を開いてかわし、渡会は笑みに喜色を混ぜた。


「軽いな。俺にはかなわんよ。脚をおさめろ」


 ……かわされた。不可思議な体術で、小雪路を制した。

 先ほども、まったく負傷することなくかかと落としを捌いてみせた。事実が頭に沁み入り、小雪路の胸が熱くなる。


 続けて、右手刀、右肘鉄、左鉤突きと、三連続で腕を振るう。困った顔をしてみせて、渡会は構えに力を込めた。両手が素早く鋭く、小雪路の打つ瞬間を捉える。


「人の話を聞かん奴だな」


 ことごとくに摩擦力強化をかけ、相手を削ぎ裂く攻撃であったにもかかわらず、渡会は無傷ですべてをいなした。


 ――いなしたのだ。そして隙が生まれた小雪路の左肩へ、閃光のように瞬間を過ぎ抜ける、左拳を打ちこむ。のけぞって両腕の防御に生まれた隙間へ、続けざまに右拳を放りこむ。腕の間をすり抜けて拳が胸を打った。


 連打は途切れず、体重を載せた左拳がまたも胸へ振り下ろされた。最後に右拳が下から腹部を打ちあげ、小雪路は倒れた。息が詰まって、ひとつの呼吸が腹に重く感じる。見下ろす彼は、いよいよ喜色満面で、自分の拳を舐めた。


「ははは、やれやれ……引かんつもりのようだな」


 じっと、小雪路の、年齢にそぐわないほど豊かに発達をみせた胸部へ視線を落として、下卑た笑みを浮かべる。渡会は、明らかに愉しみはじめていた。


「嬉しそうに、見えるんけど。気のせい?」


「強い女を屈服させんのは、わりと愉しいさ。相手が別嬪べっぴんで、胸が大きいとなりゃ、なおさらだ。殴るついでにそのご立派な物に触らせてくれよ」


「……あは。触りたいんならご自由に、どうぞ」


 つぶやいて起き上がり、つかみかかるように五指を開いた両腕を眼前にかざした小雪路は、抱きしめるようにその腕を閉じる。


 そこにはもう渡会はおらず、一歩引いて回避した位置から二発の左拳で両肩を叩かれた。体勢が崩れ、またも前面をさらけだしてしまう。彼は右拳で抉るように胸を殴りつけた。

 左半身で、長距離を以て加速をつけた右鉤突きは、当たるのは一瞬にもかかわらず重たい威力が後味を長く残す。


「いい感触だ。倒したあとで、また存分に愉しませてもらおう」


 笑いながら、執拗に胸を攻める。痛みが、小雪路の構えを小さくとらせる。けれど渡会の攻撃は隙間を縫うように的確に、狙った箇所へ飛んできた。


 やがて構えが崩れ、腕の防御がなくなったところ。


 渡会の左拳が掻き消え、衝撃が頭から全身へ鳴り響く。真下から、左拳が小雪路の顎を打ち抜いたのだ。


「終わりだ」


 頭がゆらり、揺らめき、意識が、途切れかける。


 だが歯を食いしばった小雪路の口元には、渡会のそれとはまたちがった、大きなおおきな笑みが浮かぶ。


 強い。強い。強い相手に、出くわした。


 宙へ浮きかけた身を沈めるようにして着地し、下駄を滑らせて距離をとった。明滅する視界を、大きく深呼吸することで、なんとか回復させる。身体の内側から痛みと熱が巻き起こり、打たれた部位が激しく軋んだ。これらを知覚し、また大きく息を吸う。


 顔をあげた小雪路は、はっきりしてきた視界の中にいる渡会を見て、また大きく笑った。口の端に、喜色が乗る。


 強い。こいつは、強い。


「くふ」


 不穏な空気を感じとったように、渡会がぴくりと反応する。これだけ攻め立てて一方的な展開を見せてもなお、警戒を解いていない。そこに強者としての風格を感じとり、また小雪路は笑った。


「ふふ、くふっふふふ」


 強者。強者だ。


 ひさびさに遭遇できた、自分と対等以上に戦える、人間だ。この認識が小雪路の中に生むものは……恐れ、畏れ、怖れ、惧れ、どれもちがう。――ただひたすらな、喜びだ。向かう先に見える快楽に身をゆだねようと、彼女は着物を脱ぎ捨てる。


「ん?」


 渡会は疑問をまとわせた一音を発する。


 小雪路が着物の下にまとうシャツは、肩まで袖の無い、不可思議な代物であった。二の腕と腋をさらして、小雪路は散らかすように下駄も脱ぐ。そして、己の喉と、シャツに両手を触れ、身体を掻き抱くような格好をとる。


「……くふふ、ふふふふ、ふふふははははあははははは!!」


 哄笑が場を満たし、渡会が異常な空気を感じとったようだ。あれだけ攻められてまだ小雪路が動けることもそうだが、あの、自信に満ちた笑い声はなんだ。とでも思っているのだろう。


 歪めた口の中から唸り声を漏らし、拳の狙いを定めている。これを見て、小雪路は熱っぽい目にかわる。十六という年齢ゆえに、発育豊かな身体を持つにもかかわらず所持するには至らなかった、艶っぽさまでもが表情に宿る。


 少女は、渡会の前で変じ、羽化した。


 上気した頬に、蕩け潤む唇と瞳。くねる身体の腰から脚、うなじから背筋の曲線が、淫靡で煽情的な色を垣間見せる。先ほどまで打たれ続けていた青い少女の趣きは消え失せ、熟した、雌の芳香が、むんと場を満たした。


 鼻にかかる声が語尾をだらしない情欲がごとき情感の余韻に浸して、渡会に向けられる。


「あははははっ、ははははぁ! いいよ……やっぱり戦いってこういうのんよ。強い強い、ひさびさなん、強いひと……」


 えずくように笑い、呆けた顔で渡会を見る。怖気づいたように一歩引いて、彼は言う。


「誰だ……さっきまでとは、別人」


「くふぅ。ずっと殴っとったのに別人なんて、ひどいこと言うのんね」


 一人でいかんでよ、と踏み出して、小雪路は自らの首を絞める己の手に力を入れる。


「続けよ。やろ。もっと、もっと、二人きりで……〝纏え天地擦る力の流れ――忌蝕獣いしょくじゅう〟!!」


 魔力が流れ込み、彼女の体表とシャツを纏う。


 使いやすさを重視するべく〝両腕〟などと狭い範囲でかけていた術を〝全身〟へと付与する。


 小雪路は、四つん這いに着地する。雌豹のごとき構えをとって、ゆっくりと渡会を見上げた。


「くふふふぅ。アンテイク所属従業員〝食神鬼しょくじんき〟の三船小雪路――もう、いく」


 八重歯を剥き出しにして、小雪路の攻勢がはじまった。



        #



 ベルトハルトは八千草が。ルドガーは靖周が。そしてアラトリステの相手が、井澄となった。


 だらりと左腕を下げて、肩幅かそれ以下に両足の幅をとり、アラトリステは構えていた。右腕はほぼ肘を曲げず伸ばしきっており、長剣というわけでもないのに、間合いが広い。


 先制して井澄の左手が腰の横につけられたまま指弾を放つ。突き出したままの剣をわずかに動かして軌道上に刃を置くことで、狙いは外される。


『おいおい、飛び道具使うのかお前。なっちゃいないね』


『無手に見える人間に初っ端から切っ先向けてるのもどうなんですか』


『決闘、はじまってるんだろ?』


 受けから攻めへアラトリステはなめらかな移行を見せた。


『〝ウーノ〟!』


 つぶやきと共に、二間ほどあった距離が一気に詰められ、突き出される。いや、突いたという印象は薄い。運足により進んでくる彼が剣を構えているために、それが刺さりそうになるという全身での体当たりがごとき刺し技だ。井澄は身体を開いてかわそうとするが、直前で危険を察しさらに屈むことで二段の回避を成す。


 頭上で、引き斬る刃の動きが風を撹拌した。――刺突は、突く際に刃の全長を利して包丁さばきのごとく押し切ることや、引き戻しにより切っ先三寸で刻むこともできる。よく言われるように「外したら隙が大きい」などということは決してないのだ。


 二度目の突きに移られる前に屈んだ姿勢から残る指弾により顔面は鼻の下、人中という急所を狙う。例の半球状の鍔により防がれ、また一足一刀の間合いになる。両手に、また硬貨幣を構えた。


 アラトリステは井澄を中心に円を描くように、横ばいに移動を始める。これを見てとると、井澄は即座に右半身の構えを解いた。両足を横に並べ、一切構えをとらずにただぶら下げた両手の指弾のみを狙う。応じて、アラトリステは足を止めた。


『……ふむ。計算外だよ、これは』


『でしょうね。〝デストレエサ〟は相手の動きにくい場へ己を置こうとする技ですし』


 口にすると、アラトリステは切っ先を揺らしながら、へえと感心したつぶやきを漏らして帽子のつばを下げた。余裕ともとれる、笑みを浮かべていた。


『知ってるのかい、俺っちの剣術。珍しい……独逸語を話せることもそうだけど、相当に異国文化に親しんでるんだな、お前』


『親しんじゃいませんよ。相手取ることを想定し、戦う場合の対処を知っていただけです』


『対処ねぇ……でも、名を知ってるってことは当然わかるよな。この剣が、かつて最強の剣術のひとつに数えられたってこと』


 刃を振るい、細かに風を斬りながら、アラトリステは威嚇する。井澄はなにも表情には出さず、ただ狙いを研ぎ澄ました。


 西班牙イスパニア剣術、デストレエサ。西欧の刺突に適した剣、レイピア――西班牙の言語にしてエスパダ・ロペラという細剣を用いた剣術である。その名は高く知れ渡り、対峙した他国流派の剣士から「卑怯だ」とまで言われるほどの猛威を奮ったという。


 その剣術の根幹となるのが、相手を中心に円を描く歩法である。相手の構えに応じて回り込む方向は変わるが、相手の腕の外から突きを繰り出すことに執心する。ただそれだけを突きつめた結果生まれる、合理的な剣術だ。


 相手が右半身、たとえば常の八千草のように右片手正眼に構えていれば、自分から見て左へ動いて相手にとっての右へ回り込もうとする。人間の間接は内側へ閉じる動きのほうが機敏で、また力も強いためだ。相手の動きづらく力を発揮しづらい位置へ移動するのである。


 その際に間合いを測り易く、また間合いを伸ばせるため、肘をあまり曲げず突きだした構えを取る。また相手の攻撃に応じて回避しやすく、踏み込みの際は幅をとれるため、両足の間は狭くとる。左手は邪魔にならぬよう身体の横へ置き、いざ刃が迫りしときは被外套マントをはためかせ絡めとるなど、防御に用いる。


 熟練すれば相手を一方的に蜂の巣に刺し殺すことも可能となる、極めて強力な剣術だ。


『でもどんな剣術でも、極めれば強いことにかわりはありませんよ』


『そうだな。では訂正するよ。この剣術を用いる俺っちが、最強ってだけだ――〝ドス〟!』


 ふざけた物言いで、二撃目の突きが迫る。井澄は左右二連続の指弾で、今度は細剣の刀身を狙う。切っ先をずらそうという目論見は、しかし外れた。


『どこ狙ってるヘタクソめ』


 しなるようにアラトリステの手首の動きに連なり回避され、ただいたずらに無防備な前面をさらすこととなった――かに思われたが。


『まあ術は所詮、道具ですよね』


 井澄が右腕を引くと、空中に一筋の、視認することも難しい〝線〟が引かれる。細剣の切っ先が操られるようにずれた。驚愕し、アラトリステは硬直する。


『お前ッ、その――!』


 否。

 実際に、操られていた。細工の要は二発目の指弾。硬貨幣ではないものを放っていた一発。その正体は、手首についていたカフスぼたん。袖の中に仕込んだ極細の鋼糸が、連なっている。


『あなたの言う通り。──強さは、使い手で決まる』


 師の言葉を思い返し、致命的な隙を見せたアラトリステの眼前に、左手を突き出す。先刻と同様に指弾の構えをとり、鉛製のカフス釦が眉間を狙って放たれる。頭を横に振り、帽子を空へ浮かせながらアラトリステは回避する。


 けれど軌道上に敷かれた鋼糸が、井澄の左腕の一振りで横薙ぎに首を狙う。


 師より賜りし暗器。携帯するに易く、拘束・陽動・罠、そして直接の斬撃にまで用途幅広く……使いこなせば手首の動きと引き斬りであらゆる切傷を再現し、凶器の判別を難しいものとなす暗殺者の得物。


『ぐぅぅっ!』


 上体を逸らすことでアラトリステは斬撃をかわし、細剣をきりもみするように回転させることで、糸による拘束を抜けた。無理な体勢のまま、切っ先を井澄の喉に向ける。


『くっ、そ、が――死ね、〝トレス〟ッッ!』


 左腕を振るった勢いで右に旋回しつつ井澄は避ける。反転して、遠心力を纏わせた右腕の糸を、またも首を狙い水平に振り抜く。


 アラトリステは突きをくり出し掲げたままだった細剣を横へ薙ぐことでこれを防ぐ。が、糸の先端はカフス釦のおもりに従って、背後より回り込む。自分の左手から突如現れ頸動脈に迫る糸に、彼は左腕を上げることで盾と成した。


『悪手です、王手』


 左腕に巻きついた糸を引くことで、細く血がほとばしる。ぐ、とうめくアラトリステに、さらに突きつける。井澄は引いた右腕の下から、指弾を構えた左手をのぞかせた。


『そして詰みだ』


 放たれた指弾は顎を穿つ。骨が砕けたか、木の枝を折るような破砕音があった。同時に口から血があふれ、のけ反り倒れたアラトリステの口から、白い破片まで転がり落ちる。折れた歯を井澄は冷徹に見据える。


 井澄は両腕を振るい、袖内に仕込んだぜんまい仕掛けで糸を巻き取り、釦を元の位置へと戻した。この所作を見て、ごぼごぼと血を流しつつ、アラトリステはつぶやく、


『糸……お前、まさが……〝異刀鋸いとのこ〟の、』


『――黙れ。この糸を、お前ごときがその名で呼ぶな』


 目を見開き、瞳孔を細く引き絞って、井澄は舌を出す。銀の短剣を模した刺飾金ピアスが、殺言権の術式を媒介する。アラトリステの言葉が消滅し、彼は呆けた顔をした。


『舌禍を悔いて、逝け』


 鋭く、右腕を振り下ろして井澄は発言を制する。釦が放たれ、標的の首の横へ落ちた。

 ひ、とつぶやく間に、腕が引き戻され糸が首を裂く。アラトリステは、客死した。


 激してしまった自分に対して嫌悪感を隠しきれない面持ちで、しばし固まったあと、井澄はまた糸を袖の中へ収納した。いつどこでだれに聞かれているかわからない世の中だと警戒を露わにしていた。


「まったく……最期まで口だけの奴」


 殺し合いの場において決闘などと口にし。相手に手の内が露呈しているのに、こちらの手の内を探ろうともせず、最強だなんだとのたまった挙句に対処も考えない。


 術も武器も道具に過ぎない。扱う人間が機と相手と間合いを見る力により運用せねば、ただのがらくたになり果てるのだということを理解していない。愚者の極みだ。


「して、そちらは」


 井澄が見やると、靖周はすでに短刀も符札も納め、腕組みして立ち尽くしていた。ルドガーは離れたところで壁に背をもたせかけ、絶命している。そして八千草もまた、ベルトハルトをすでに無力化していた。右手足を斬られ膝を屈し、剣を失い無手になった彼の喉元に、切っ先を突きつけていた。


 八千草は顔色が悪く、頬をひきつらせていた。


『……完敗だね』


 ただまっすぐにベルトハルトは八千草を見て、それから、視線だけを左右に振って、ルドガーとアラトリステの死にざまを見た。嘆息し、また向けられる刀身に目を戻す。


『奴らとは護衛の職についたのが同期だったけど、死ぬときも一緒か。ま、ぞっとしないな』


 眼鏡の奥の瞳は澄んでいて、表情だけが卑屈な笑みをかたどった。八千草は彼の言葉が理解できていないのだが、表情から意思を読み取ったと思われた。


『まあいいさ。主と逃げたのは僕らの大将、一番強い奴だからね。いまごろあの女の子も殺されるか犯されるかしていることだろう』


『お生憎様。あいつも私たちの中で一番強い奴でしてね。神を食らった鬼なんです。やられているのは、どちらかわかりませんよ』


 井澄が声をかけると、もう目を向けることもなく、ベルトハルトは無関心そうにへえと言った。靖周は黙って見ていた。


 ベルトハルトは目を閉じると、うつむき加減になって、うなじを見せるようにした。井澄は近づいて、また右腕を振るった。首筋に鋼の糸――異刀鋸と呼ばれる刃が巻きつき、引き戻す動きで、左右両方の頸動脈を断ち切る。傷跡は長剣で斬ったようなものに偽装しておいた。


 橙に近い明るい色合いの血が吹きあがり、前のめりに、ベルトハルトは倒れた。八千草は直刀を構えたままだったが、やがてゆっくりと下ろし、アンブレイラに納刀する。


「……行きましょうか。小雪路に加勢できるなら、したほうがいいでしょう」


「ああ」


 力なくうなだれた八千草は、井澄の言葉に弱弱しくうなずきを返した。やはりまだ殺人に抵抗がある――恨みを買いたくないとか御託を並べていたが、そんな理論だった思考のもとに彼女は殺人を嫌うのではない。

 ただ、嫌いなのだ。それはこの四つ葉で生きていくにあたり、どうしようもないほど面倒な性質としてとらえられる。


 集団戦であればなおさら。一瞬の躊躇いで、仲間が殺される可能性だってある。いまも、ベルトハルトを無力化できていたとはいえ、それは確実なものとはいえない。ひょっとしたら、仕込みの短剣など持っていたかもしれないし、意味を理解できなかった言葉の羅列は呪文の詠唱だったかもしれないのだ。己の舌を貫く銀の短剣型をした刺飾金ピアス、殺言権の発動媒介である術具を思い、井澄は襟巻の縁を口元まで引き上げた。


「井澄」


「はい」


「すまない」


 八千草がこう口にするのを、何度となく聞いた。そのたび返す言葉を、彼女も幾度となく聞いている。


「補助は、しますから」


 八千草が殺せないなら、戦えないなら。そのためにこそ自分はここにいるのだから。こう返す常のやりとりのあと、やっと八千草は微笑んでくれた。日向にいるように、ふわりとした、かすかな温かみを持つ笑みだ。


「殺しってのは、そういうもんじゃねぇと思うけどな」


 背後から、腕組みしたままで靖周が歩む。わかっていますと井澄が返せば、わかってねぇよと靖周が静かに言う。八千草は、身を強張らせていた。下駄の足音が、かつかつ、通りに反響する。


「うちの妹は相手を殺さねーだけで、完全に壊すところまではやる。だから本当に補助で済む、俺の残業は刃で首を掻き斬るだけだ」


 倒れていた全身装鎧の男に寄ると、屈みこんで短刀を取り出す。首の骨やってるな、とつぶやいて、鎧の隙間から頸動脈を、引き裂いた。乾いた咳のような音が鎧の中で響いて、手甲に包まれた血まみれの指先がうごめき、落ちる。立ち上がり、血濡れた刃をぎらつかせながら、靖周は迂回して戻る。


「でもお前らのそれは、ちぃとばかしちがうぞ。果たすべきことはしてねぇし」


 八千草の横を通りながら言い、


「お前は仕事らしくねぇ」


 井澄の横で、ベルトハルトの服の裾で短刀を拭いつつ、言葉を継ぐ。


 言っている意味は、わかるようで、わかりたくはない。


「……ま、今後は気をつけろってことだなー。今度こそ、な」


 気の抜けた声で、こちらを見ずに靖周は締めた。


「いこうぜ。いまごろ、あっちも終わってんだろ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る