11:遊び人という名のろくでなし。

 終わりはちかい、と小雪路は感じていた。


 じぐざぐに二層三区と四区の間を駆けまわり、舗装の尽きた路上を滑走し。いよいよ追いすがる小雪路の眼前には、四之助の散らす血痕が点々と残る。


 彼女の両手足についた血液はすでに乾いた粘土のようにぱらぱらと身体を離れつつあったが、彼の身体から流れる血液はまだ固まることもなく流れ続けている。いずれ失血で動けなくなるだろう。


 その事実を嗅覚――五感に含まれるほうではなく、戦闘勘や第六感と呼んでしかるべきもの――によってかぎとっていた小雪路は、静かに嘆息した。


 失望、というのだろうか。落胆、というのだろうか。どちらでもなく、どちらからも近い、そんな感情が顔にありありと浮かんでいた。


 あと一口で終わる、上等な食事。箸は進もうとするが、食べれば終わる。そんな感情だ。


 残念ということだろう。


「おしまい、か」


 長い腕を伸ばして建物の突起や窓の桟を手掛かりに飛びまわり逃避行を続ける四之助と奈津美だが、進む調子は徐々に落ちてきている。追いつかれまいと、時折その辺にあるものを投げつけて牽制してくるのがいい証拠だ。背後という、投擲するにあたって明らかに威力の出ない方向への攻撃を、それでも必要に駆られて行っているということなのだから。


「ん、」


 いままた、投げつけられるのは看板。近くの店から引き剥がされたそれは小雪路の身の丈ほどもあろう一枚で、残り五歩という間合いで放たれ、小雪路へ叩き込まれんとする。


 縦に回転する攻撃範囲の広いこれを避けるのであれば、滑走を止めて横に飛ばねばならない。だが、残り五歩という間合いを捨ててしまうのは惜しいと、小雪路はあえて滑走を止めなかった。


 たん、と左半身で空中に身を投げだし、正確に、看板の軌道を見切る。


 そして腕組みするような格好をとると、


「〝纏え天地擦る力の流れ〟っ!」


 詠唱を終えた。両掌が触れていた、左右の腕に力が宿される。左肘を前に突きだし、前腕で頭部をかばうような姿勢をとると、丁度の拍子で激突した看板は……ずるり、、、


 小雪路の前腕の上を滑って、上方へと飛んでいった。四之助に抱えられて背後を見続けていた奈津美は、目を見開いて眼前の奇妙な光景をつぶさに観察していた。


 間をおかず着地した小雪路は強い踏み込みで正面へ一気に距離を詰める。そして、先ほど力を宿し、後ろに振りかぶっていた右手で、鋭く横薙ぎに平手打ちを放った。走る最中で振り上げられていた四之助の左のかかとに掌が擦れる、、、


「――〝衣我得ころもがえ〟」


 ずるり。


 ただの平手打ちで、かかとの硬い肉が削ぎ落される。一瞬遅れでぱっと血しぶきを浴びて、次の踏み込みがかなわなくなった四之助に、今度は左手を向ける。指先を揃えて相手を突く貫手ぬきての構えだ。愉しい戦いの終焉に際して漏れる溜め息が、丹田に意識を集中させる攻撃の呼吸に切り替わる。


 小雪路の攻性補助用術式〝摩纏廊まてんろう〟は、詠唱のあとに手が触れたものの摩擦力を自在に操る能力である。下駄での滑走や看板をいなしたときのように、摩擦力を弱くすることで物を滑らせやすくし、逆に摩擦力を強めることで両手をやすりのごとき凶器に変貌させることも可能な、極めて汎用性の高い術である。


 ただしあまり大きなものに対しては発動せず、せいぜい自分の身の丈程度の物体までしか効果を付与することはできない。また付与した物体は手元を離れてもしばらくの間自在に強弱の切り替えができるが、一度につき効果を発揮できる物体は二つまで、という条件がある。ゆえに、両腕に力を発動するためには下駄の滑走を止めざるを得ず、空中に飛んだというわけだ。


「まーまー、愉しかったんよ。じゃ――さよなら」


 転がり、横に身を倒してなんとか胸に抱いた奈津美を守る四之助だが、足が止まった彼の前には猛獣のごとく襲いかかる小雪路がいた。伸びる左手は喉の頸動脈を狙っておりかするだけで皮膚も肉も削ぎ落す。

 先刻のかかとへの一撃より派手に、けばけばしく、血が噴き出す。


「うううううああああぁっ!」


「あれ」


 風切る指突は、しかし奈津美が左手を犠牲にして払っていた。いなすだけでも、持っていかれる。掌からは肉はおろか白い骨までもが露出していた。痛みに奈津美は泣く。泣きながら、


「四之助ッ!」


 呼びかけ、この隙に四之助は右手で小雪路を突き放し、また距離をとろうとした。だが突き飛ばされる瞬間に下駄の滑走に摩纏廊を切り替え、後ろへ滑ることで衝撃の威力を受け流しながら小雪路は無造作に右手をあげた。


 つかまれる、と判じたらしい四之助は素早く腕を引く。


 かすめたのは、人差し指一本だけだった。


 けれど一本触れた。それだけで。


「――〝一指不纏いっしまとわず〟」


 強めた摩擦力でぴたりと密着させ、押し込む。腕を引く力にさらに予想外の力が加算されたことで四之助は身体の均衡を失い、また背中から地面に転がる。


 体勢を崩したと知るや否や、小雪路は踏み込んで、下駄の裏で四之助の左膝を蹴り砕く。当然ここにも摩纏廊による摩擦強化が働き、膝の皮膚は擦り切れた。その下で砕けていた皿が、断裂した血管と共にごぢゃごじり、と音を立ててかき混ぜられる。音に身悶えした奈津美が、憎悪に満ちた頬の歪め方をした。


「……四之助っ、よくも、貴様ッ!」


 残る右手で、医術刀を投擲する。眼球を狙った一刀に、回避もまばたきもせず小雪路は応じる。一指不纏に用いた右手の人差指と中指の間で、刃先を挟んで止めた。そのまま手首を返して投げ落とし、奈津美の腹部に刃が迫る。他に手もなく、もはや使いものにならない左手でこれを受ける。いままた、高い悲鳴があがった。


「じゃあねん」


 五指を広げた小雪路の右手が飛びかかる。血まみれの顔をさらに血に染めようと。だがまた奈津美の右手に防御された。指をからめあう二人の手の間から、だくだくと血が流れる。

 無言で手を引くと、奈津美の小指が千切れ飛んだ。痛覚はとうに振りきれているだろう。大声で喚き散らし、長く轟くように叫び続けた。小雪路は片手で耳を押さえる。


「そんなんなって、よく耐えられんね」


「うううう、ああぅう……でっ、も、しのすけよりはっ、ましさ、ね」


 涙に顔を覆われながら、奈津美は笑って見せた。実際、四之助の怪我は奈津美よりも遥かにひどい。


 摩纏廊により発動する小雪路の体術は、そのすべてが残虐な一撃なのだ。肉を削ぎ落す攻撃は広く皮膚を傷つけ、血が止まりにくい。皮膚が薄い場所なら、白い骨をあらわにする。


 しかもなまじ小雪路は相手を殺すことを忌避するため、戦闘を長引かせるきらいがある。彼女の欲求不満に付き合わされて長く戦ってしまった四之助は、モルヒネにより痛みを消していたものの頭部の何ヶ所かは皮膚が削り取られ、両手足も防御に用いたせいでぐずぐずになってしまっていた。


「そ。でも時間稼ぎにもならんよ」


 目を伏せた小雪路は両手を貫手の形に構え、突き出す。今度こそ防ぐ手立てはない。これでおしまいか、などといささかならずがっくりきていた小雪路は、深く、最後の溜め息をついた。


「い、や。ちゃんと、稼がせて、もらった!」


 笑みのままに小雪路の指先を迎え入れようとして――とたんに、ぐわっと二人の身体が遠のいていく。空振りに終わる両手を不思議そうに見つめて、すぐに小雪路は目を向ける。


 通りを向こうからやってきた馬車に、四之助が伸ばした腕を引っかけ、引きずられるままに逃げているのだ。四之助が顔をあげる。並んで見えているためだろうか、どうにも、奈津美とそっくりの笑みに見えた。大口を開けて小雪路につばを飛ばし。


「悪いが逃げるがかっ、」


 勝ち、と言おうとしたのだろう口腔の中から、危うげに尖る剣先が現れた。



        #



靖周やすちか


 八千草と声を合わせてしまい、井澄は睨まれた。通りの向こうからやってきたのは、八千草より高く井澄より低い背丈の男だった。継ぎぎをあてるのではなく継ぎ接ぎのみで造ったと見える妙な羽織風の上着の中に、厚手の麻でできた作務衣をまとい、足袋に下駄を履いている。


 若干色の薄い髪を、ひとつにまとめて後頭部のあたりで結い、これがはねた筆のようになっていた。少々鼻の高い顔の造形は悪くなく、まなじりが低く垂れている点に愛嬌がある、少年と呼んでいい容姿である。ただ、嘉田屋を見るだらしのないにやけ顔が女性遍歴をうかがわせ、二十四という彼の実年齢を示唆していると思えた。


 三船靖周。小雪路の兄であり、アンテイクの業務を担う一員にして、八千草や井澄とはちがい生まれたときからこの島に住む人間だ。アンテイクの古株であり、二人にとって先達である。


「靖周、あなた楠師処くすしどころで護衛の任についていたはずでは。職務放棄ですかこの忙しいときに」


「んあー、そういやまだ途中だったな。けど帰ってくれってさ」


「靖周、お前またなにかしでかしたのではないだろうね」


「やってねーぇよ。楠師処の女こえーもん」


「嘉田屋でツケを踏み倒そうとした馬鹿の言葉とは思えませんね」


「やめろよ支店とはいえ嘉田屋の前でそういうの思い出させるの。ちょっとびくっとしちまっただろうが」


 情けないことを言いながら、懐から出した四寸ほどの煙管をくるくるともてあそぶ。


 先達であり古株であるのだが、井澄と八千草からの扱いは、まあいつもこんなものだった。


「ではどういう理由で帰るように頼まれるんだい。評判を下げるようなことをしたのであれば」


「やめろ、刀に手ぇかけんなよ。なんか近くで事件が起きたとかなんとかだそうだぜ……とにかく、金はもらえたしいいだろ。んでお前らこそ、なにやってんだ? 妹が向こうに走ってくの見えたけど」


「小雪路は仕事の最中であるよ。嘉田屋からの仕事でね、その娼枝殺しの犯人が見つかったので、捕まえにいった」


「捕まえる? 殺すの間違いじゃねぇのか、そんなに血の匂い漂わせて護衛はねーだろよ」


 煙管を口にくわえ火皿を上下にゆすりながら、靖周はそんなことを言った。大して観察した様子もないのにこういうことを見抜くあたりは、さすがに長くこうした生業についているだけある、と思わざるを得ない。


「……まあそうだけれど。それだけでなく、他にも困ったことがいくつかあってね」


「なんだよ困ったことって」


「偽装依頼、というわけではないのですが、嘉田屋が私たちに依頼した業務は、彼らの本来の目的を隠すための表向きのものだったようです。おそらくは、」


「はーん。犯人が客だったか、複数いる犯人のうち一人が客だったか、そんなとこか」


 まだろくに話をしていないのに先を言われて、井澄は意気込んで話をしようとしていた肩ががくっと落ちるのを感じた。


「……なぜ」


 問いかけに靖周はけろりと、こともなげに返す。


「ただの推測の連続だよ。お前らが娼枝殺しを殺すために雇われる、ってことは護衛の人員が足りてねーってことだ。でもそこの支店をのぞいてみたら、俺たちみたいに雇われた護衛ばかりで、普段常駐してる嘉田屋直属の護衛がいない。

 かといって、拠点防衛が主な任務の護衛を慣れない巡回警護に回して危険にさらすはずはねーんだから、十中八九、嘉田屋本店の警護を固めるのに使ったってことだ。じゃあ考えてみろ、わざわざ身内しかいない状況を作る理由。外に漏らしたくないことをするってことだ。さらに考えろ、客商売の嘉田屋で漏れたら困る、悪評判が立ちそうなこと。……客に不利になること、客に危害を加えることが思いつくだろ」


 あとは娼枝殺しが横行してることに当てはめりゃおしまい、と手を打って、靖周は推論語りを終わらせた。現場にやってきて、ものの数分でことのあらましを自らで探り当ててしまった。八千草もいたたまれない様子で、足下の地面に長靴の爪先でのの字を描いていた。からから、健康的な靖周の笑い声が響く。


「なんだ、自信失くしちまったか」


「靖周は友達を失くしそうですよね」


「うん。あとその得意げな顔をやめてくれないかな、ひどく不快ですごく苛々する」


 アンブレイラに手をかけながら八千草が迫れば、両手を肩の高さまであげて丸腰の姿勢を取りつつ「落ち着けよぉ」などと大して真剣でもない声で靖周は言った。

 ややあって呆れた八千草は鯉口を元に戻し、きびすを返すと小雪路の去ったほうへ向かって走り出す。井澄もすぐあとを追いかけた。


「ああもう、馬鹿にかかずらっている時間が惜しいのだった。そうだよ、その嘉田屋本店から逃げたと思しき客が、先ほど通り過ぎた馬車に乗っていたのだよ! さっさと追いかけて捕まえ、嘉田屋に突きだしてやろうと考えていたのに、そこにお前が通りかかるから!」


「えー、だってそれ業務外のことじゃねーか。我が妹の追っかけたほうを突き出すだけで、仕事は終わりだろ」


「二兎を追って二兎を得られるならそれがいいに決まっているであろうよ」


「一兎で腹膨れたら二兎目はいらねーよ……まーでもアンテイクの代理店主は八千草だしな。意向にはなるだけ添えって仕立屋からも言われてる。しゃーねぇ、ここは手伝ってやるぜ」


「何様のつもりですかあんたは」


「俺様だよ」


 格好をつけたように言って、靖周も追いかけてくる。身の軽さは兄妹で共通の事柄なのか、あっという間に井澄たちに追いついてきた。


「道は任せろ、この辺に関しちゃ井澄よりも俺のほうが慣れてる」


「じゃあ頼んだよ、馬車が通りそうな道へ、先周りを」


「おうよ」


 たったっと狭い歩幅で素早く移動し、靖周は先頭を走る。たしかに、ここら一帯についてはよくご存知のようだった。走りにくいこともなく、うまく目的地へ運べる道案内をしている。大したものである。そういえばまだ業務に慣れぬころ、靖周にこの近辺を案内してもらったことを、少し思いだした。


 ふと気になった井澄は、後姿の靖周に問いを投げかけた。


「そういえば靖周、なぜ五層の自宅に帰らず、こちらに来たのですか?」


「妹から、仕事あるって聞いてたからな。ちょっと顔見て冷やかしてやろうと思ったんだよ」


「……小雪路に仕事を振ったのは今日だ。それと、お前もう七日ほど自宅に帰っていないだろう」


「……、」


「まさか、嘉田屋で遊ぶのに楠師処での給金を使おうなどと、考えて来たのではあるまいね」


「あ、ここから道悪くなるから気をつけろよ」


 露骨な話題逸らしに、井澄と八千草は溜め息をついた。


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