8:四権侯という名の強者。
「ここ二カ月ほど起こっている、娼枝の連続殺人、でしたっけ」
ごとごと揺られる車内で、先日の四層で用いたのとはまた別の手帖を取り出して、井澄は近く起こった事件などについて調べる。各層、各区に対応したこのような手帳を井澄は数十冊所持しており、仕事のたびに使い分けて携帯するのだ。
「そ。今日は嘉田屋の上客が一晩中宴を開くそうなのでね、万一のことが今晩起こっては困るということなのだよ。そこで周囲を警護し、不審な行動に出るやつを逐次倒していく」
「いいのん? うちも戦って」
「ああ。……やりすぎないようにしておくれよ」
「はぁい」
嬉しそうな小雪路はくふふと笑って両腕を回し、己の身体を抱きしめていた。
興奮しはじめると戦いを挑む相手が見境なくなってくるのが玉にきずだが、少なくとも彼女の索敵能力――殺気の察知や追い詰めるのを得意とする機動力は井澄たちにはないものなので、信頼できないわけではない。闘争本能に忠実すぎるほど忠実であるがゆえの能力なのだろう。
「でもいまのところ、嘉田屋本店では被害がないようですね」
「列車と同じさ。上客や娼枝の保護の名目で、雇われた護衛が配置されているからであろうよ。見つかることを恐れておりかつ、弱者しか狙えない腕しか持たないのかな」
「被害はごく普通の、ありふれたものですから。楽に殺せたので味をしめたというのが実情のような気がしますね。嘉田屋からのれん分けされた支店を三軒、殺人一件ごとに店を変えて襲ったようです」
「娼枝は三人とも〝酒運び〟の途中であったのだよね」
「左様で」
八千草の確認に応じて、井澄は顔をあげる。開いた頁には細かな字で、〝銘酒屋の運び中に殺害さる〟と書いてある。
本土にある吉原、旭廓といった公娼の土地を除いた場――つまりここ、四つ葉もそうだが、そうした場所においては本来娼館の経営は許可されない。風紀の乱れを招くためだ。
そこで表向きはただの酒場のように振る舞う所を〝銘酒屋〟といい、どれだけ規模が大きく実態が知られているといっても、嘉田屋もこのくくりに入るのだ。そこから客に呼ばれて行く娼枝を、俗に〝酒運び〟というのである。ちなみに昼間から同様のことを致す場合は、四つ葉においては売春宿にて酒でなく蕎麦を頼む。昼でもおそばに、という洒落らしい。
「客に呼ばれゆく中途で止められ、殺されたと」
「その客の身の潔白は証明されています。娼枝は金品も奪われていたそうで、それと……」
「なんなのん?」
言葉につまったところに小雪路の追いうちが入り、本当にこいつは考えなしに喋る、とうんざりしながら井澄は答えた。
「……犯されていますね」
「生前にか、それとも死後にかい?」
こっちは迷いつつ口にしたというのに、あっけらかんと八千草に流されて、安心したような残念なような複雑な心持ちになった。表情を隠す意味でも手帖に目を落とし、頁をめくる。
「生前ですよ。死後はめった刺しのなます斬りにされ、解体もなされているようです。はらわたがいくつか無くなっていたとか」
「お肉、
「純粋そうな目でよく思いつくものであるね、小雪路……しかし熊の肝と同じように、人の肝が精をつけたり病の快復に効果をもたらすという話もあったねぇ。あれ、その場合は
「まあどちらも眉つばだというのが近年の蘭学、西洋医学の見解らしいですよ……あ、〝やまい〟と聞いて思い出しましたが、もしかしてこの嘉田屋の御守り、
「そうだよ。娼枝の腑分け(ふわけ。現代でいう解剖)を担当したのがあの人であったらしくてね。あの人自身、嘉田屋には所縁があるものだから、頼んできた次第だとさ」
最後の煙を吐いて、灰をパイプから落として手入れをはじめつつ八千草は言う。小雪路は山井の名を聞いて、つい先日までお世話になっていた身のくせに「うえーあの人ぉ」などとうめいた。とくに怪我の多い小雪路は、医者である山井と会う回数が多いのだ。そして治療に際して施される良薬が苦手らしい。
医者だというのに
表だって業務に携わることこそ少ないが、医学を用いた後方支援という形で怪我の多い井澄たちの面倒を診てくれる、なくてはならない人だ。……身内なのに法外な値段を吹っかけてくることが多いのが困りものだが。
「あの人からの依頼では、仕方ないですね」
「うん。実際、嘉田屋の主人の依頼料とは別に、ぼくらにお金を包んできたからね」
「え、あの守銭奴が」
「言いつけるよ井澄。……あれだよ、死んだ娼枝のひとりが、あの人が嘉田屋に身受けしてもらっていた頃に面倒を見ていた子だったそうだ」
「……あの人こういう、たまに湿っぽいところがあるから嫌いになれないんですよね」
「ついさっき守銭奴と罵った口でよく言うものだねお前。まあ、情に厚いところもなければ、長くこの街で生きることはできないのさ」
「こんな街で情けをかける余裕なんて、と考える人も多いでしょうけどね」
「こんな街だから、だよ? 荒むのさ、心が。でも人にかける温情で、自らも救われる」
……時々切支丹みたいなことを、言う。そう井澄は思うが、それは井澄の知らない、八千草がこの島で過ごしてきた期間にあった経験から語っているだけなのだろう。
人間いろいろな経験があるものだ。手首に重いカフス釦を押さえながら、井澄は思った。
#
嘉田屋は二階建ての大きな屋敷で、馬車のまま抜けられる門の向こう、広い前庭の奥にでんと構えていた。派手なつくりではないが、屋根の上にある火難避けの
降り立った井澄たちは久保が馬車を停めてくるまで、外観を眺めて過ごした。といっても美的感覚などを鍛えてこなかった三人なので、ただただ圧倒されるばかりである。
このあたりにまだ自分たちが若く、仕立屋や山井、靖周のようにさまざまな経験を積んだ者とはちがうなあと思ってしまう部分がある。
「前庭に馬車乗り入れるんね」
「客が入るところを見られないようにするための配慮だろうよ」
「とはいえこんなところに来られる人間、限られてますよ」
事前に調べたところ、嘉田屋で遊女をとるには最低でも一時間で一円二十銭、と聞いた。無論飲み食いのお代は除いた上で、である。……七日働いて一人三円五十銭の井澄たちと比べ、どれほどのものかはおして知るべし。
戻ってきた久保に案内され、玄関に入る。正面には坪庭があり、枯山水というやつか、岩と砂礫を配した静謐な空間が広がる。どうやら建物はロの字型になっているようで、回廊の奥からは談笑する声などがひっそりと耳に届いてきた。
招き猫が出迎える帳場が左に、張見世が右にあり、間隔の広くとられた格子の向こうには八畳ほどの座敷があった。
座布団の上に楚々としてたたずむ娼枝が羅宇(らお。煙管の火皿と吸い口の間の管を指す)の長い朱塗りの煙管をふかしており、煙草に目のない八千草が、香りにいち早く気づいてちらちらとうかがっていた。目ざとく見つけた井澄は煙管に目端をきかせながらぼそっと話しかける。
「煙管ほしいんですか」
「ううん、うーん。たまにはあちらもいいかなと思うのだけれど、一回の喫煙が短いのが少し困りものなのだよね……買うなら火皿の大きなものがいいな」
「今度買いに行きましょう、お供しますから」
「本当かい?」
ちらと上目遣いにこちらを見て、嬉しそうなものだった。ただ、仕事中というのを思い出したか、「今度な、今度」と己に言い聞かせるようにつぶやいていた。危うく井澄も理性を忘れかけていたので、その所作で我を取り戻す。……今度な。今度か。記憶に刻んで、忘れぬように手帖にも書いた。
と、横合いから話しかけられる。そちらを向くと一人の娼枝が煙管を差し出して、小首をかしげて井澄を見ていた。
「……おにいさん、おにいさん」
「はい?」
「初めて見る顔じゃ。まだお相手は決まっておらぬのかや」
「ええまあ、決まっていないというかなんといいますか……」
「そう。もしよかったら、わっちを選んでくりゃれ。主がとってくれるなら、精いっぱいのもてなしと奉仕を約束するが」「
やにわにざわめきたち、煙管を見ていただけとは言いづらい状況が構築される中、井澄は苦笑いを浮かべながら差し出される煙管に閉口して八千草を見た。だが間に小雪路が割り込んで、「井澄ん色男なんね」と余計なことを言った。
「私は煙管の雨が降るような男ではありません」
そもそも女連れで遊廓に来る男がどこにいる、とこづいた。
「そうなのん? にしてはみんな、わりと声音が本気混じりんなってるような」
「お前はまだ子供だからわからないんでしょうが、世の中には社交辞令というやつがあるんです」
「子供って、井澄んとうち、二つしか歳ちがわんけど」
「二年あれば赤子でも、立って歩いて喋るようになる。二年を馬鹿にしてはいけません。ねえ八千草」
「……ん?」
興味が無く聞いていなかったための生返事か、それとも怒っているから短文で済ませたのか、井澄には判断つかない表情で八千草は首をかしげた。後者だとしたら大変なことだ。考えなしに思いついたことをなんでも喋る元凶・小雪路をにらみつけて、井澄は怒っているのか問いただすべきか少し悩む。
その間に奥との連絡がついたらしく、久保がこちらですと案内をはじめてしまったものだから会話の機会は失われ、ああ、うう、とうめく井澄は肩を落とし、回廊状になっている屋敷にあがった。八千草のアンブレイラと
「んんー……ん!」
そして今度は小雪路が、なにか気づいたと思しき表情になる。八千草が酒と煙草をこよなく愛するように、彼女の場合愛してやまないものといえば……
「強そうな人のん気配がする」
「小雪路、たぶんそれは護衛で雇われている人であるからね。倒しにいってはいけないよ」
「あ、なぁんだそうなのん」
横にいる井澄の肌がざわざわと粟立つような研ぎ澄まされた気配を放った小雪路だが、八千草の声でふっと元に戻る。とろけたような顔で目を細めていたのが、人らしい表情を取り戻す。
呆気に取られて足が止まっていた久保に気にしないよううながして歩を進めるが、戦場を求め過ぎるこの気質は、彼女自身では制御できないものだった。
「だいぶ落ち着いてきたほうなのだけれどね、これでも」
「そういや半年前は私も襲われましたっけ」
「えへへぇ、悪気はないんよ?」
「知ってます、戦意しかないのは」
「あーじゃあわかってるんならお願いしたいんけど、たまにでいいから、井澄んも組み手してくれん?」
「やですよそんな。なんでわざわざ」
「勝てる気がせんから、ってのはだめなん?」
「お前は負けたいんですか?」
「勝敗のわかんない戦いじゃなきゃ、やっとられんもん。でも山井さんはうちがしたい戦いさせてくんないし、八千草んは手抜くし、兄ちゃんはもうやり飽きてるんから燃えないのん」
「私は可燃物じゃないんですが。あと仕立屋が抜けてますが」
「
なぜだか両手の人差し指をつんつんしはじめて、うつむき加減になった小雪路は変な返答をした。そこにどういう思惑があるにせよ、とにかく井澄が戦いやすい相手であるというのが彼女の本心であるらしい。面白がってにたにた笑いながら、八千草は二人のことの推移を眺めていた。
「私あのときわりと全力で対処したんですけど」
「だからいいんよ! 拮抗してる感じが!」
「勘弁してくださいよ、勝ったのは相性の問題ですって」
「えっ、じゃあうちと相性抜ぐ」「お前と抜群なんて願い下げです」
一段階声が低く落ちて、犬歯を剥き出しにする。怖いものなしのはずの小雪路が、恐れおののいたように一歩ひいて「ひゃひ」と声にならぬ声を出した。ずり落ちた眼鏡を戻しながら井澄が嘆息すると、小雪路の向こうで若干八千草も怯えていた。なぜ、と思うようにならない現実に井澄は歯噛みした。
「……あの、そろそろ着きますが」
「あ、はい」
久保に言われて仕事中であると思い出し、八千草が進み出て応対する。井澄も頭をひとつ掻いて意識を切り替え眼前に迫る仕事に備えることとした。小雪路は自然体のままで、まあ井澄は少なくともこのへん期待していないので、よしとした。
「では。主人の間です。粗相などございませんよう」
通され、ふすまを抜けた先にあったのは、想像していた和室の構えではなく洋風の書斎であった。六畳ほどの部屋は両側を本が占拠する棚に挟まれ、ギヤマンの窓を背に樫でできた大振りのテエブルの向こうに座る人影がある。
前結びで整えた着物に
「いらっしゃい」
「お初にお目にかかります。アンテイクより馳せ参じました、橘八千草と申します」
「山井から聞いております。どうぞ、かけて」
しっとりと歳を経て要るべき場に居るという、歯車の噛みあったような印象を受ける人物で、なにがしかの書面に万年筆で記している最中だった。
顔をあげるとかけていた眼鏡を外し、鋭い狐目でこちらを見据えるとソファを示した。床を覆う
「改めまして。依頼させていただいた、
八千草の対面へ腰かけた女性――月見里は、ゆっくりと会釈して八千草たちを見た。眼光は威圧感を伴い、目を合わせておらずとも内側に斬り込んでくるような剣呑な輝きで三人を睥睨した。さしもの小雪路でさえ空気を読んだか余計なことは言わなくなる。
これが、嘉田屋の主人。無法者集う四つ葉の黎明期、乱立する派閥の中で独自の情報網を駆使し、人を動かすことで赤火や青水に並ぶ一大派閥〝黄土〟を作り上げた先人。
年の頃は四十か、五十かというところだが、歳月経た仏閣などを目にしたときのような、長い経験を蓄えた物を前にした感覚にとらわれる。濃密な人の生に触れている気がした。
「……やだわ。そう硬くなられてはお話がやりづらくなってしまうのではありませんこと?」
す、っと力を抜いたように、掌を口元へあてがって月見里は目じりを垂らした。圧力が消えて、井澄は生唾を飲む。ここまでの威圧感は嘘だったのではないか、と思うほどに柔和な表情がのぞいて、わずか、力が抜けそうになる。
が、ここで踏みとどまった。積み重ねた修練の日々の中で獲得した勘が、月見里の目が笑っていないことを察した。瞬時に気を引き締め、さりげなく横と正面の気配を探れば、小雪路も八千草も一切気を抜いていなかった。……四つ葉に住んできた歳月の差か、と自嘲気味に井澄は咳払いをした。
「危ないところでしたわね」
「……ええ、申し訳ない」
悟られたことを悟ったという合図に、月見里は微笑みを返してきた。八千草は残念そうな顔をして、横目でこちらを顧みる。ぐさりと胸に刺さるものがあり、井澄は泣きそうになった。
「人の命は大事に扱えば百余年を生くるに足る、とても丈夫なもの。けれど失われるときは瞬きの間でも十二分に足る。あなたがたが踏み込んでいるのがわたくしの領土であり、生殺与奪が握られている旨、しかと自覚なさい。気を抜けば殺します」
「肝に銘じておきます」
「一応の及第点はさしあげます。足らぬようであれば、この場でくびり殺すもあなたの宿運かと思っておりましたが……人手が足らぬもまた事実。今日の宵より明け方まで、御三方には警護をお願いしたいと存じます」
頼む立場であるが、とてもそうは見えない態度であった。下に見ているのでもない。へりくだるのでもない。ただあるがまま己の見たままのものを捉え、相応の職務を割り振る。上に立つ者としての審美眼、とでもいえばいいのだろうか。これにおいて卓越した能力を持っていると、見受けられた。
「警護、ですね。つまり、御守りの業務ということで」
「いえ。警護ではありますが、皆さまには能動的に動いていただきたいと考えておりますの」
「……能動的、とは」
眼鏡をかけなおした月見里は、テエブルまで戻ると一枚の書面を手に取り、八千草の前に来ると万年筆で署名を成した。こののち、左手の親指を立てた月見里は指の腹を歯で噛みちぎり、流れた血により判を捺した。
――血判状。先日の業務で二九九亭の御守りをした際とは、ちがう。これが八千草に受理されるということは。
「……殺し屋殺しの遂行を、命じるということでよろしいですか」
「ええ、徹底的に。ここ最近の殺人の下手人であろうと、なかろうと。わたくしの領土にて蛮行なして無事でいられると信ずるうつけものには――相応の、報いを」
見敵必殺。
ざわりと肌に粟立つものを覚えた。井澄はこれが月見里から放たれた怒気によるものか、横の小雪路による狂気によるものか判じかねるまま、血判状に目を落とす。
八千草は丁重に受け取り、了解しましたと告げ、やはり己の親指を噛み切り血判を捺す。
……情に厚いことは大事だ。たしかにそれはそうなのだろう。けれど情が敵意に変換されるとき、それは温情が非情に変わるときではないか、と井澄は思った。
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