7:従業員という名の厄介者。
アンテイクの朝は遅い。というより五層三区であるここに日が差すことはあまりなく、あっても薄い明かりにしかならないために、朝と呼べる時間があまりこないというのが正しい。
目覚めた井澄は壁にかけてある時計を見て、まだ三時かよ、とうめいて枕に顔をうずめた。だがこちこちという音がしていないのに気づき、時計が止まっていると知った。やむをえず起き上がりぜんまいをきりきりと巻いて、元の位置に戻す。
窓の外、下を見れば、人がちらほら歩いているのが見えた。
どうやらもうだいぶ遅いようだと知り、白い溜め息をついてから井澄はいつもの服をクロウゼットから出す。白いシャツにネクタイを締め、ズボンをサスペンダアで吊るすと漆黒のジャケツをまとった。
最後に眼鏡――伊達だ。これをかけ、長くも短くもない半端な長さの髪を整え、部屋を出た。
「おはよう」
「おはようございます、八千草」
階下へおりると、八千草の声が応接室である小部屋から聞こえた。
テエブルが設置してあるそこは、八千草と井澄にとって食事をとる場所でもある。のぞきこむとすでに食べ終えていたのか、珈琲をすする八千草が〝横浜日毎新聞〟を読んでいた。店内にある品物の時計を見ると九時を少しまわった辺りだった。
今日の八千草は裾周りに三段のフリルをあしらったショオトラインの黒いドレス。胸元にはアクセントに孔雀石のブロオチを付けて、肩周りを覆うケイプには茨の模様が刺繍してあり、連なる細いレエス地には薔薇の模様が咲いていた。
足下は常と同じ編み上げの
腰まで届く黒髪には常と同じ髪留めで一部を結い、あとは流し。蝋でできているがごとき白く艶やかで非人間的な肌に包まれた顔の中、群青と菫と黒の間としか形容できない深い色合いの瞳で、井澄に視線を向けた。
瑞々しい唇が言葉を紡ぐ。
「おなかは空いているかい」
「朝食はなんですか」
「ひえとあわに一汁一菜、めざしが一匹」
言った通りの献立が台所のお膳に載せてあり、井澄は丁寧に手を合わせてから応接室へ運ぶ。洋風の室内で洋装の人間が向かい合っているというのに、食べるものだけは和食というのはなんだかおかしな気もしたがとにかくこれがアンテイクの日常だった。
「いただきます」
「ああ、おあがりよ」
箸をつけ、変わらぬ味にじんとくる。
一応、食事は交代で作ることになっている。井澄がここへ勤め出して半年になるが、それ以前に仕立屋と二人で暮らしていたころも互いに作りあっていたということだった。
八千草の手料理毎日とか幸運な奴め、と井澄は仕立屋を羨み恨み申し上げていた次第だが、実際その位置に自分が収まってみると、まあなんだか来世が心配になってきた今日このごろである。いまの人生で最初に持ち点が百あるのだとして、得難い幸運によって日々点数を消費すると考えてみると。
「まずひとつ屋根の下であることが一点、食事で二点、洗濯で三点……」
指折り数えて箸を止めた井澄を怪訝な顔で見て、八千草は珈琲を淹れたテイカップで指すようにして井澄に問う。
「なんの点数だい?」
「……九十九、百……! 八千草、思うのですが私はいつ死んでもおかしくないんですね」
「そりゃお前、こんな仕事に就いているのだからね……」
かみ合わない会話をしながら、八千草は新聞をめくった。
四つ葉は本土から七里ほど離れた位置にある島なのだが、世の流れは常につかんでおかねばならない。〝赤火〟の白商会が貿易を成していることもそうだが、そもそも四つ葉の設立からして、世の流れがそうさせたからだ。よって新聞は一日遅れであるが本土から舞い込むようになっている。
新聞が三枚ほどめくられる間に、幸福に感謝しながら井澄が食事を終えた。
「ふう……ごちそうさまです。して、なにか面白い記事はありましたか?」
「まあ、特別大きなことはないかな。軍拡がどうだの、小麦が値上がりだの、いつも通りさ」
閉じた新聞の向こう、パイプにタンパーで煙草葉を詰めはじめた八千草は作業の途中で
アンテイクは小さいが、二階に三部屋を備えている。うちひとつは現在物置で人の住まう余地はないが、荷のほとんどはアンテイクを離れて暮らしている仕立屋の持ち物であるという。そういえばさいきんはあの人なにやってるのだろう、とぼんやり考えて、井澄は口に
だが応接室のドアをあけて入ってきたのは、八千草ではなかった。
「やほー。八千草んいるのん、ってなんだ井澄んか」
「なんだとはご挨拶ですね。おはようございます」
「あ、おはよぉございますー。で、八千草んは?」
きょろきょろしている少女に、井澄は自分の口にくわえた
「二階に燐寸取りにいってますよ」
「なるほどねん。じゃあうちも待ってよ」
弾むような声音で話す彼女は、井澄の前に移る。歩くたびからころと、紅の鼻緒が目立つ下駄が鳴った。
下駄から伸びるすらりとした足には、奇妙に裾の長い黒の足袋が
西洋の、男物と思しき大きなシャツだ。ボタンはいくつか留めておらず。谷間が大きくのぞいて、年の割に成熟した部位を強調しており煽情的。
肩には緋色の着物を羽織っており、そこにかかる色素の薄い髪は、頭頂部近くにて朱色の紐でひとまとめに結い後ろから流してきたものだ。総髪に近い髪型だが前髪は下ろしており、座りこんで膝の上に頬杖つく顔はまだ幼さ残る丸いまなこと勝気な眉、笑うと口の端から八重歯が目立つ。
「今日はお仕事あるのん?」
「
「つまり?」
「昼から仕事ですよ。少なくとも私は」
「へへぇ、うちも連れてってくれるん?」
「必要になる状況があれば、八千草が連れていくでしょう」
言外に「基本的には要らぬ」との意志を伝えたのだが、少女は嬉しそうに頬を緩ませ、眉をたわませる。だが瞳は笑っていない。当然の話だ、彼女にとって仕事ほど真剣に向き合うものはないのだから。
「
「八千草ん、おはよぉ。顔合わせるのん久しぶりね」
パイプから煙をあげながら現れた八千草に、少女、
井澄は腰かける八千草から燐寸を受け取り、自分の
「今日お仕事?」
「お前にも頼みにいこうかと思っていたところであるよ」
「げ」
「どうしたのさ井澄、急に蛙の断末魔の悲鳴みたいな声を出して」
「いえ、だって、靖周はまだ、仕事から帰ってきていなかったでしょう」
「うん。兄ちゃんはここんとこ帰ってないんよ」
「また
じっと、その一件を引き起こした原因である彼女を見やる。視線に気づいた小雪路は、ん? と小首をかしげて井澄を見て、屈託のない笑みを浮かべた。一切の悪意がない。
「ということは、私たちも会うのはひさびさですし、特に靖周からなにか言われては」
「兄ちゃんから言われたこと? とくにないよん」
「……うわあ。八千草、今日本当にこいつを連れてゆくんですか。私たちが『暴れるな』と言っても絶対聞かないでしょう」
「ぼくがその程度のこと考えずに呼ぼうとしたと思っているのかい? 呼んでも支障ない仕事だったからに決まっているであろうよ」
不安そうに八千草のほうを見る井澄に、彼女は無い胸を張って答えた。が、井澄ほどではないにせよそこそこの上背があり、体型に起伏と
パイプなどの小道具と雰囲気でなんとか上司らしく整っているが、八千草のほうが年下にしか見えない。実際には八千草が十九、井澄が十八で小雪路は十六なのだが。出会ってからの半年の間にも、さらに外見的な年齢差がついた気がした。
どこがとは言わない。ただ井澄は煙をくゆらせながら、胸部を見比べただけだった。
「……どこを見ているんだい」
「小雪路は外見ばかり大人になっていて、いつになれば中身が成長するのだろう、と思ったまでです」
「大きなお世話だよこの野郎」
なぜか八千草に煙を吹きかけられたが、井澄も煙を吹いて相殺した。舌打ちしてアンブレイラに手が伸びそうになる八千草だが、さすがにこんなことで抜くのは阿呆らしいと思ったか、パイプの吸い口をかじりながら話を続けた。よくわかっていない様子の小雪路は下駄を履いた足をぶらぶらさせながら聞き流している。
「とにかく、暴れても構わない、むしろ暴れる人間をこそ必要とする仕事のようだよ」
「どこの馬鹿ですか、年の瀬に怪我人を出したいと思ったのは」
「殺し屋殺しとしての依頼でないだけマシさ。……といってもまあ、小雪路の場合、殺しは好まないのであろうがね」
すっと横に視線をずらしながら言えば、名を呼ばれたと気づいた彼女が目をしぱしぱさせた。
「え、なになに、なんのお話してるのん?」
「仕事の話だよ。お前の大好きな、ね」
苦笑を浮かべながら小雪路の頭を撫でて、八千草はパイプを口から離した。
「御守りの業務だ。今日一日、嘉田屋の催事を護衛する」
#
一見すると危険に過ぎる行いだが、四つ葉建立の黎明期より二つの間を行き来してきた嘉田屋の主人はそのあたりの均衡をとることに関して絶妙な感覚を持っているらしい。
双方に対して牽制するように、自分たちを侵略した場合の有利となる部分不利となる部分を提示することで、黄土への不可侵を守ってきた。
……赤火青水どちらからも必要とされる〝技術者〟〝作り手〟を擁することで不可侵を成したと言いつつも、引き抜きなどの圧力には常に晒され続ける緑風の人間と、黄土の人間はだいぶ境遇がちがう。
四つ葉においてあらゆる人間は土地、あるいは職種により四つの葉閥のどれかに属すことを余儀なくされるが、これは生活するにあたっての自由さをとるか大きな力の傘下で安心をとるかの境遇選択とも等しいのだ。
選択に誤り、行動に過ちがあれば、もうその人間は四つ葉で生きてはいけない。まちがいは一度までだ。その一度でさえ、死に直結することもある……普遍的にだれでも持ちうるものであるがゆえ、相対的にみて命ほど安いものはこの街にはない。
「さて、では行きますか」
八千草と共に小雪路を連れだってステイションにおもむき、井澄が本日向かう先は二層三区。治安の面でも悪くはなく、ステイションのある二区ほど陽のあたる表に立ってはいないがためにいわゆる『そういう』目的の人々が気安く来易い場所である。
奈古ステイションから乗り、運賃を三人分支払うと、しばし八千草は眠りにつく。今日は小雪路がいるために横の席をとられてしまい
「八千草ん、お疲れなのかしらん。いっつも昼間ぁ寝てるんね」
「どこかの誰かが騒ぎを起こすせいで、頭を悩ませてて心労が多いんじゃないですか」
「んー、だよねぇ。この街も、も少し静かんならんと八千草んの仕事増えるばっかだもんね」
「くっ……」
「うちは騒がしいのんも好きだけど。自分の知らんところでなにか起こってるのって、ちょっと楽しい。まぜてほしくなるんよ」
取り合うのも馬鹿らしくなり、井澄は閉口する。けらけら笑う小雪路はしばし取り留めもない話題を井澄に振ってきて、それにいい加減に応じているうちに列車は二層についた。
今日は特別絡まれるようなこともなく済んだことに安堵を覚えながら、井澄は八千草のアンブレイラを取る。列車の停止で目を覚ましていた彼女は大きく伸びをすると、井澄に差しだされたアンブレイラを手に取り、寝起きの一服とばかりに煙草葉をパイプに詰めてからのんびりと降りた。
「二層に来るのんはひさしぶりね」
楽しそうに言う小雪路は、羽織っている着物の上にさらに丈の長い外套を羽織る、奇妙な格好でホームに降り立った。続く井澄もコウトを上に着用し、いつもの赤い襟巻を巻く。八千草はドレスの下に厚着しているのか
「仕事でなければ用事がないからね」
言いながら煙を吹く。乾いた風に、渋みと辛みを帯びた八千草の煙が混じる。
ここ、
富裕層ばかりと言っても住んでいる人間が多いわけではなく、ここは仕事の場、商業の場としての顔が大きい。
下層に比べての治安の良さと相まって、二層二区・一区はさまざまな商売が軒を連ねる一大市場と化しているのだ。ステイションから出てすぐの通りをまっすぐ行けば、商店の連なる二つの大通り〝
「嘉田屋まではどうやって行くので?」
「迎えの馬車が広場に来ているはずだよ。とりあえずそこまで行こう……小雪路、はぐれないように」
「わかってるのん」
遠目にも見回すほどに人、人、人、でごった返している広場へと、三人で固まって歩みを進める。ちらと井澄がうかがえば、ステイションの傍では今日も元気に警官が詰所を出入りしていた。
二層ともなるとこうした点でも下層とのちがいがあり、当然犯罪の検挙率もぐっと上がっている。とくれば、井澄たちのような用心棒まがいの人間は用無しであるように思われるが、そこはこの四つ葉だ。警察にも
閉じた島であり外部の目が無いため、裏では青水や赤火と癒着している部分があるのだ。けれど『検挙率だけは』たしかに上がっている。……そう、表に出ず、最初から事件自体が起きていないと扱われる事例が多いのだ。ときたま起こる葉閥同士の抗争などが、主な例である。
「さて、馬車も多くあるようですが、どれでしょうね」
「中が見えないようになっている馬車であろうよ。行き先が嘉田屋なのだから」
「どうして嘉田屋が行き先だと中見えなくするのん?」
「……まあ春を謳歌しに行くのに、人々から冷たい視線を向けられたら台無しだからでしょう」
「?」
理解していない様子の小雪路は放っておいて、井澄は広場を見回した。八千草もパイプをくゆらせながら、手でひさしを作って馬車を探した。
二本の通りもさることながらこの十字路も広く、不等辺八角形の縁の中へ大理石でできた台座と彫像をいくつも配した巨大な噴水が中央を占めている。師走であるいまのような冬場はここの水量が減り凍っていることが多いため、〝水晶広場〟などと呼ばれている。
この噴水の周囲を巡るようにして、十字路の各方向へと伸びる石畳の近くに、それらしき馬車を見つけた。ギヤマンの小窓は小さく、けぶるように曇らせており、中をのぞくことはできないようになっている。漆のようなつやのある黒い車体に朱塗りの扉がついていて、いかにも豪奢なつくりをしていた。
近づいてみると、座台から降りて馬の横で待っていた初老の
「アンテイクのみなさんですな」
「ああ、ぼくらがそうです」
「主人より案内仰せつかりました、久保と申します。ではどうぞこちらへ」
開かれた扉の向こう、香の焚かれたようなにおいの漂ってくる車内へ、久保は手をさしむけた。む、とにおいに顔をしかめた八千草は少しの間迷ったが、結局室内へと煙を吹きこんでにおいを蹴散らしながら乗車した。
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