6:追跡者という名の捕食者。
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住宅地をひた走り、井澄は道を辿る。さまざまな情報が集まっている手帳を参考にして男の逃亡する先を予測し、道を選ぶ。
結果的に回り込む形となって、男の眼前に姿を表すこととなった。
「お待ちしましたよ」
「おや回り込まれるとは……っと!」
駆けてきた男に向かって指弾を放つ。すぐに柄杓ではたき落とされるが、意にしないで井澄はまた硬貨幣を構えた。男も柄杓を剣のように向け、井澄に相対する。
「どうやって行き先を割り出したのかね」
「簡単です。こういう急な逃亡のときは、人間だれしも細い道だと先が行き止まりにならないか心配するものですから。少しずつでも広くなっていく道を探せば、おのずと現れるだろうと判断しました」
「ほほう……次からは気をつけることにしよう」
「次があれば」
と言っても業務が御守りである以上殺すつもりはなかったが、形式としてそう告げた。男はにやりと笑い、柄杓を頭上に掲げると、うなずきを返した。
「まったくだ」
そして、抜けた底の穴から、上を見た。
視線の先には、貯水塔がある。雨天時などに上の階で流れた水を下層であるここへ流すため、一時的に水を貯めておく場である。
「変じよ、〝死丹水〟」
詠唱と共に、貯水塔が内側から爆発四散する。思わず頭上を見る井澄に、男は実に楽しそうに語りかけた。
「上がお留守だよ――この範囲、逃れられまい」
先ほどまでとは比べ物にならない量の汚泥が。
掌を作り、井澄ごと周囲一帯を飲みこもうとした。悪あがきのように最後の指弾を飛ばしてみせる井澄に男は笑い、そして硬貨幣は汚泥の瀑布に呑みこまれた。
まだ注がれる汚泥が道へ広がり、男の足下まで浸す。
勝利を確信した男は笑うのをやめ「変じよ、〝変若水〟」とつぶやき、汚泥を澄んだ水に戻し貯水塔まで帰還させ、破損した貯水塔も術で修繕した。その後きびすを返して戻ろうとする。仲間、店を襲った相棒とやらが無事か確かめにいくのだろうか。
自分も無事では済まないというのに。
「ご愁傷様」
井澄が背後から指弾で男の左膝を砕いた。
手ごたえはある。膝裏、十字靱帯を断ち切った。
崩れ落ち、地に伏せった男は、うつぶせのまま首を動かし、目線だけで井澄を見た。
貯水塔とは反対の建物の二階、その窓のへりに立っていた井澄は、無言でもう一枚の指弾を打ち男の右肘を砕く。柄杓が、手から転がった。
「な、にっっ!?」
「すみませんが、あなたが
「……ばかな、なぜ、かわされて」
「それは、〝奥の手〟ですよ。たねは明かしません」
奥の手がバレれば殺し屋連中に伝わり身が危うくなるからだ。そう考えつつ、井澄は袖のカフス
腕を振るうことで釦を
「それに、なぜ、読まれている……私の術が?!」
二階から飛び降りた井澄は男に歩み寄り、問いかけに応える。
「馬鹿正直に何度も見せてくれましたから。二つの術の特性までだいたいわかりましたよ……穢れと破壊の死丹水、浄化と再生の変若水。ですが再生と言っても、『死丹水で
呆れたように乱発の愚策を説き、井澄は己の推論を説く。ポケットから出した井澄の左手は、先ほど貯水塔に戻っていくときの変若水に触れておいたため、すっかり回復していた。
ここまでの男との追走劇においても、そうであった。崩れた屋根を、足場を、変若水に触れさせることで男は元の形に復元していた。
「ゆえに、蒸気缶を私が壊したときは、直せなかった。だから、『すでにある水』を呼び水にそこから新たな死丹水、変若水を出せる能力を使ったんでしょう。八千草の鍋を台無しにしてくれやがったときと同じに」
推論が当たっているのか、男の顔に苦いものがのぞく。愉しみながら、井澄は推測が解答としてあてはまっていく感覚に浸った。
まず普通に放つ死丹水で蒸気缶を冷やし、水を作る。この水から死丹水を出すことで一瞬ながら蒸気を防いだ。かつ、そのまま上にいる井澄に牽制として放ち、あの路地を逃れたのだ。
「さて、とにかくもあなたのたねは全て把握しました。これ以上の抵抗は無意味、店への妨害をしても人件費の無駄だと上にお伝えください」
「上が、誰だか存じてのことか」
「……〝赤火〟の白商会では?」
かまをかければ、追い詰められた男は表情で如実に物語る。近しい人が営業妨害の依頼主、と言ったのは八千草だ。彼女の予想は当たるなあ、と己の上司を誇りながら、井澄は男に笑いかけた。
「そこまでわかっているなら少年、このまま引くと、思ってるのかね」
「でも柄杓ナシじゃなにもできないでしょう? 陰陽道の符札、神道の玉串、密教の独鈷、西洋魔術の剣や杖。『術の発動には魔力を自然へと媒介するものを要する』。術師には自明のことです」
「ああ……そうだな」
だが、と言葉を切り、男は歯を食いしばった。
井澄は異様な気配を覚える。
「腹芸が、切り札でね」
次いでえずき、口から吐き出す。
握りこぶしに納まるほどの大きさであるが、たしかにそれは柄杓であった。底に穴のあいた、舟幽霊の柄杓――これを口にくわえ、ぶざまながら貯水塔へ目を移す。
柄杓の、穴の底越しに!
「出でよ〝死丹水〟」
指弾より、少し早く。
男の詠唱が、終わろうとして――終わった。最後の一手が、打たれた。
けれど汚泥は、撒かれない。
男が、目を白黒させて井澄を見ていた。そのあごに指弾による硬貨幣が叩きつけられており、脳震盪を起こした男はやがて気絶に至った。
これを確認してのち、井澄は硬貨幣を拾い上げ、店へ戻る道へきびすを返した。
「……奇遇ですねぇ」
私も〝切り札〟は隠してるんですよ、と言いながら井澄は襟巻を口元からずらし、舌を出した。
真っ赤な舌の中ほどには、一点、銀色に輝く部分がある。
白銀の、
「言葉を発する権利があるなら、逆もある、ということです」
言葉を、殺す権利。
発言権ならぬ、〝
「ま、日に三度しか使えない欠陥品ですがね……さぁて、戻りますか。八千草が鍋の準備をしてくれてる気がしますし」
殺し文句でなく文句殺しを操る彼は、予感でなく願望を口にしながら店への帰路についた。
#
「遅かったね」
「多少手こずりましたので」
椅子が一脚壊れていることの他は、壁と畳に刀傷が増えた程度。八千草は早々に片づけたのだろうと思い、井澄は苦戦した自分を恥じた。
「こっちの相手も強くはあったのだよ」
「でも早めに勝ってるみたいじゃないですか」
「ぼくのほうが一枚か二枚ばかり、上手だっただけのことさ」
余裕しゃくしゃくという奴である。かなわない、と心中で苦笑しつつ、井澄は八千草の横へ座った。また、店の中には良いにおいが満ちてきており、四方田が次の肉鍋を用意してくれていることがわかった。
「私のぶんもありますか」
「あるとも。肉はぼくのだけれど」
「そう言わずに。……左手を負傷した埋め合わせ、してくれるのでしたよね」
「う」
左手をポケットへ隠したまま、井澄は詰め寄った。
「これでは取り皿しか持てません」
「箸を持て」
「
「おたまで一旦すくって取り皿に入れて、そこから箸で食べればいい」
「指弾も羅漢銭も指が疲れる技です。それを、今日は片手でこなしていたものですから、箸を持つのも辛くてかないません」
「どうしろというんだい……」
ほとほと愛想の尽きた顔で困った心情のみを表に出しつつ、八千草は問う。井澄は即座に答えた。
「八千草が食べさせてくれれば万事解決かと」
「うえぇ……あ、わかったいやがらせだな? これはいやがらせだと判断させてもらうよ?」
「ちがいます」
断固としてちがう。単に、ねぎらってもらいたいだけなのだ。しかし八千草はどうにも捉え方が異なるようで。煮えた肉鍋を前にしてしばしの硬直を見せ、それから意を決した様子で肉をつまみ、井澄のほうへ差し出した。
「ほら、食べるがいいよ」
「……目一杯腕を伸ばして極力近づかないようにしているのはなんですか」
「いや、だってお前、なんだか近づいたら肉ごととって食われそうな目つきをしているものだから」
箸を戻して肉を取り皿へ下げた八千草は、引き気味に言った。
「食べやしませんよ」
つまみ食いは趣味じゃないので、と言葉には続けず心中でつぶやく。それから、八千草の対応を待った。うずうずしている井澄の様に折れたのか、八千草は面倒臭そうに箸を取り直すとまた肉をつまみ、井澄のほうへ差し出す。が、あと一歩のところで引き戻して自分の前へ持っていった。
「焦らすのは三度までにしてくださいね」
「二度までは許すのかい、寛容なことだよ。……べつに焦らしたのではなくてね、お前はほら、舌にアレを挿しているから、熱いもの食べると熱が伝わり易いじゃないか。火傷が心配であろうよ」
ふうふー、とふいて冷まして、八千草は羞恥のためか頬染めて目を逸らしながら、ずいと箸を突きだしてくる。
「はい。食べなよ」
そんな八千草の気遣いに、井澄は感極まった様子だった。目を逸らしているため彼女は気づいていないのだろうが、井澄も同じくらいに顔を赤くしており、身体も少し震えていた。
ひとくちようやく食べてから、ぼそりと井澄は漏らした。
「……火吹き竹を突っ込まれた心地です」
「え? まだ熱かったのかい?」
「いえ……」
「じゃあさっさと食べよう、じゃんじゃんと。ぼくも自分のぶんを食べたいのだからね」
結局二回目以降は八千草もだんだん作業化してきて慣れたのか、終盤はほいほいと井澄に食べさせてきたものの。井澄のほうは食べさせられることにまったく慣れることができず、せっかくの肉鍋も大して味を記憶できないまま、満腹と相成った。
「肉、おかわり」
「へい」
けれど空腹以外のもののほうが満たされた気分があり。井澄はぱくぱくと肉に箸を伸ばす健啖家の八千草を見て、机に頬杖つきながら満足そうにそっと笑った。
御守りの業務は七日間。とはいえ送りこんでいた人間が初日で二人まとめて撃退されたのだからいましばらくは来るまい、というのが八千草の予想であった。……予想は的中し、その後六日は周囲を交代でぶらついたり、出店を見て回るだけの平穏な日々が続いた。
そして最終日となり、御守りの業務による給金をもらう段になって、八千草の予想はもうひとつ当たることとなった。
「……四方田さん、少々、金額が多い気がしますが」
「いえ、ほんのこれっぱかり、お気持ちを包んだだけですんで、へえ」
受け取った井澄が突き返そうとすると、お納めくださいと返される。
とはいえ業務の主義上良くないことであるため、対処に迷った井澄は八千草のほうを顧みる。少々、などという言葉を使いはしたものの、本来もらうべき賃金の四倍近くが入っていたのだ。
するとあごでしゃくるようにして、受け取れ、と無言の圧力で強いてきた。曲りなりにも上司である彼女の意見をないがしろにするわけにはいかず、井澄は常より重たい金額の入った袋を押し戴く。
そこで四方田の口にした言葉に、八千草の無言の意味を感じとることとなった。
「そんでは、
四方田から、嫌な空気を感じとった。ああ、最初から、これが目的で井澄たちに依頼したのだろう、と。浅い思惑をにじませる、小汚い策を思わせる言葉だった。
卑屈な保身に逃げた人間の、腐ったにおいが漂っている。もう井澄は四方田と顔を合わせずに店をあとにしたが、見なくてもわかる。媚びへつらった、醜悪な顔をしていただろうことは。
横でパイプに火を入れていた八千草はゆっくりと煙をふかし、全体に火を回してから、井澄の前を歩きだした。それから語る。
「ここ、二九九亭近辺は四つ葉の中では、〝赤火〟に属していたね」
ぷかりと浮かんだ煙を追って、井澄の視線は上を向く。天井というより上の層の底である場所を眺めつつ、四つ葉の由来に思いを馳せる。
この名の由来はそもそも島に街が作られるうちいつの間にかできあがっていた四つの派閥、すなわち〝赤火〟〝青水〟〝黄土〟〝緑風〟のことを指し、名づけられたのだという。
赤火は白商会という商売人の一団を軸に、貿易と流通にて力を持つ派閥。
青水は瀬川一家という侠客の一家を軸に、賭博と暴力にて力を持つ派閥。
黄土は嘉田屋という遊廓の遊行所を軸に、接待と娯楽にて力を持つ派閥。
緑風は仕立屋という暗殺者の人脈を軸に、産業と細工にて力を持つ派閥。
これらは互い争い、特に赤火と青水は縄張り争いにより対立を深めて、いまなお水面下での戦いが静かに続いている。黄土と緑風は間で揺れ動き、時勢によって位置を変えながらも、島の外で生きられない人間たちであるためけっして無茶はしない。
……だがどこにでも、踏みとどまるべき一線を越えてしまうものはいる。
「近所か、知り合いとの怨恨。そういうことですか」
八千草はこの件に関わる際にそう言った。井澄も賛同した。
つまりここで言うなら、それは彼が所属する〝赤火〟の人間。
「赤火は貿易と流通に強い。だからこの辺りの奥まった位置でも、肉鍋屋などという生ものを扱う仕事ができた。赤火に属すからこそ受けられる恩恵で、彼の商売は成り立っていた。それが、」
四方田から受け取った紙袋を井澄からもぎとり、八千草は中身をのぞき見る。
「こんな形で、仕立屋へと――ぼくらの雇い主、緑風の頂点と噂される男へと上納金をおさめようとする。赤火から緑風への、乗り換えの意図だ……彼がなにをしたのかはおおよそ見当がつくというものであるね」
「四方田さんが扱うのは生もの、通常の手段での早い輸送にはより高い対価が要求される。これをよしとせず、たとえば荷降ろしの際に盗んで持ってこさせるなどした、ということですか」
五層四区で列車から飛び降りていった連中を、井澄は思い起こした。同じことを思っていたか、八千草はパイプの吸い口を噛んでぶらさげながら、嘆息した。井澄は紫煙の残り香をかいだ。
「おそらくはね。だってそうだろう、流通を担う赤火に逆らったというのに――足のはやい食べ物である鮪も肉も、きちんと振る舞えるだけの量を確保していた。つまり彼の属す赤火、ひいては上に存在する白商会を通さない取引をしたのであろうよ。これはひどく、赤火の看板に泥を塗る行為だ。制裁がくるのは、当然のことだね」
「それでもまだ比較的温厚な営業妨害で済んでいたのは、最後の交渉の余地、ですか」
「白商会は人材を大事にすると聞く。裏切りが死に直結する青水よりは、ということだけれどね」
「青水よりは」
「比べてましというだけの話だよ」
つまり末路は定まっている、と。八千草は紙袋から規定の金額である三円五十銭を抜きだすと、残りを戻して、懐へ入れた。
「正規の料金はお前が持っておくれ」
「そちらはどうするので」
「厄介事に巻き込まれるのはごめんだね。派閥同士の抗争になりでもしたら、笑い
「承知」
「列車の時間だ。早く戻ろう、アンテイクに。読みかけの本があるのだよ」
もう興味なさげに、振り返ることもなく。歩みをはやめた八千草に追いつきながら、井澄は懐から手帳を取り出す。
そして自作の地図に記してあった二九九亭の名に、斜線を引いて消しておいた。
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