第92話 居場所
「からだは温まりましたか?」
「ああ。……話せるか?」
「あと少しで作業が終わりますので、それまでお待ち頂けますか? どうせこの嵐ですから、今夜はこちらへ泊まっていかれるのでしょう?」
本当は、今すぐにでも彼の胸に飛び込みたいのに、そうしてしまうと、身勝手な願望が次から次へと溢れて止まらなくなりそうだから、敢えて冷たいメスの感覚に意識を集中させて、なんとか自制心を呼び戻す。
「ああ、そのつもりだ。……じゃあ、お茶でも淹れるよ」
ローズのことだから、これで湯を沸かすんだろう? とでも言いたそうな瞳で、フラスコを持ち上げる。
「ふふっ。ありがとうございます。茶葉はそちらにありますから。ちなみに、それは疲労回復効果のあるお茶ですよ」
「っふ。それは、今の俺にぴったりだな」
こういう会話も、今夜が最後になるかもしれないと思うと、全てが愛おしくなって、引っ込んでいた涙がまた溢れそうになる。
メスの手入れが終わると、ローズはフェルディナンが腰掛けている寝台の隣に腰をおろした。
「……1週間ほど前に、ようやくローズからの手紙を受け取ったんだ。出征のこと、一人で決断させてしまって、本当にすまなかった」
「謝罪するのは私の方です。なんの相談もなしに決めてしまって、申し訳ありませんでした」
「私たちの婚約は、解消されたそうだ」
「そうですか……」
自分で決めたことなのに、フェルディナンの口からその事実を告げられると、冷たいメスで心を刺されたような痛みを感じた。
「ローズ。……俺と、結婚してほしい」
「っ……フェルディナン様、私は従軍しています。無事に戻ってくると誓うことは、できません」
「貴女は、もう戦地へは向かわない」
「え?」
「ようやくパルナス王国との休戦協定が結ばれたんだ。3日前に撤退命令を出したのも、休戦協定の内容がほぼ固まったからだ」
「本当に? ……終わったんですか? もう、戦わなくていいんですか?」
「ああ。これから戦争の全面的な終結に向けて交渉を行っていくことになる」
「っ、終わったんですね。そっか……良かった……ほんとに、よかったです」
緊張で硬くなっていた心と身体に、久しぶりに温かな血が巡る感覚を覚える。安堵の泪が次から次へと零れていったが、涙ですら、温かく感じた。
フェルディナンはローズの目尻にキスを落とし、涙をせき止めると、ローズの身体を軽々と抱き上げて自分の膝の上に座らせた。
「王命による婚約は解消されたが、今度は、自分の意思でローズに結婚の申込みに来たんだ。俺は、ローズと一緒に幸せな家庭を築きたい。俺と結婚してくれないか?」
「……」
何か言葉にしたいのに、驚きのあまり言葉が出てこない。ローズの身体を支えるフェルディナンの手が熱を帯びていく。
「ローズの答えを、聞かせてほしい」
いつだって、北の国境へ向けて出征したときですら揺るがなかったフェルディナンの鮮やかな青色の瞳が不安げに揺らぐのを見て、胸の奥がトクンと波打つ。
「そんなの、決まっているじゃありませんか。わたしも、フェルディナン様と一緒に幸せな家庭を築きたい」
「そうか。じゃあ、今度は受取ってくれるか? もちろん、モンソ―侯爵とフローランス夫人にも婚姻の許可は貰ってある」
はにかんだ笑顔でそう言うと、フェルディナンは無造作に胸ポケットの中から指輪を取り出し、左の薬指に通してくれた。
愛された女性の人生の軌跡。そのバトンを今度は自分が受け取った。フェルディナンのご先祖様からも2人の結婚を祝福されたような気がして、とても幸せだった。
その夜は、久しぶりにフェルディナンの温かい身体に包まれながら眠りについた。
――迎えた翌日の早朝。
2人は近くの小さな教会で結婚の誓いを交わした。オリヴィエ隊長とクロエが証人として立ち会ってくれた。
その後すぐにフェルディナンは戦後処理のため王都へ急ぎ戻って行った。だんだんと小さくなる彼の背中を、オリヴィエ隊長とクロエが一緒に見送ってくれた。2人の存在が、とても心強かった。
「……じゃあ、俺たちも持ち場に戻るか」
「はい」
「……ローズは、今日は休んでいていいぞ。その……あれだろ、身体、辛いだろう?」
「え?」
「いいから。クロエ、あとは頼んだ」
「えっ? 私なら大丈夫です。昨夜はたしかに、雨降りで背中の古傷が痛みましたけど、もう治まりましたし」
「……マジか。あいつ……(共寝して手を出さないとは、強靭な精神力だな)」
ローズはそのまま騎士団の訓練所の近くに開設された負傷兵のための医療施設で救護活動に当たることになった。
クロエは、偶然その施設に派遣されていたのだという。クロエから聞いた話によると、国境線近くの戦闘が激しかった地域には、医学アカデミーの同級生が何人も自ら手を挙げ、負傷兵の救護活動に当たってくれることになったらしい。
「みんな、ローズの勇気に力を貰ったのよ。一緒に卒業はできなかったけれど、みんな、ローズのこと、いつも想ってた」
「……ありがとう。実はね、少し寂しかったの。9月に復学したら、みんなもう卒業しちゃってたから。でも、そっか、居場所って、場所じゃなくて、心の中にあるものなんだね。嬉しいな」
2か月程その地で救護活動を行ったのち、ローズは王都にあるフェルディナンの別邸へと帰った。
義両親をはじめ、本邸別邸の使用人たちがみな勢揃いして温かく迎えてくれた。
「ローズ、お帰り」
「ローズちゃん、お帰りなさい」
「奥様、お帰りなさいませ」
ティボーやターニャから「奥様」と呼ばれ、嬉しさと恥ずかしさとで顔が真っ赤になってしまった。
フェルディナンは相変わらず戦後処理で忙しくしているようで、お屋敷にもほとんど帰れていないと聞いた。
その日は義両親と夕食をとり、久しぶりの娘気分を満喫して別邸へと戻り、湯浴みを済ませたところでフェルディナンが帰宅したとの知らせを受け取った。
「っ、ローズ!?」
湯浴みを終えたフェルディナンが、首にタオルを掛けたままガシガシと豪快に髪を拭きながら寝室へ入ると、ベッドの上にちょこんと腰掛けているローズの姿が目に飛び込んできた。
「フェルディナン様。お帰りなさい。……夫婦の寝室、まだ出来てないから、こっちに来ちゃいました」
「っふ。そうか――。っ!! ローズ、その格好……」
「えへへ。クレマンス姉様からの贈り物、着ちゃいました。――使い方、合ってますか?」
「あぁ。……合ってる、な。とても、綺麗だ――」
その夜、ローズはフェルディナンと結ばれた。
いつもは大人の余裕を漂わせているフェルディナンだが、その夜は、まるで壊れ物を扱うかのようにローズの身体を気遣いながら、優しく丁寧に溶かすように導いてくれた。
ローズは、フェルディナンから与えられる圧倒的な存在感に、自然と泪が溢れて止まらなくなってしまった。頬を伝う泪を優しく拭いながら心配そうに瞳を覗き込んでくるフェルディナンに、これは幸せな泪なのだと、精一杯に微笑んだ。
――翌朝。
ローズが目を覚ますと、すでに軍服を着て一分の隙もない雰囲気をまとったフェルディナンがローズの右頬のえくぼに人差し指を当て、愛おしそうにローズの寝顔を眺めていた。
「……起きたか?」
「あっ、わたし……はっ、遅刻しちゃう!」
「くくくっ。ローズは昨日屋敷に戻って来たんだ。今日は休みだろう? ……昨夜のこと、覚えてないのか? ひどいな」
「あっ――」
ローズはフェルディナンの言葉にようやく眠りの世界から目を覚ますと、気恥ずかしさで頬を赤く染めた。
「俺の奥さんは、ほんとに可愛いな。身体は、辛くないか?」
「はい。たぶん、大丈夫……」
「あとでターニャを呼ぶから、今日はゆっくりしてるといい。見送りもいいから」
「すみません。フェルディナン様、行ってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくる。できるだけ早く帰ってくるから」
「はい」
フェルディナンはローズの頬に口付けを落とすと、離れがたそうに立ち上がった。それから、扉の前で振り向くと、照れくさそうに「ローズ。……愛してる」と初めてローズの前で愛の言葉を口にした。
フェルディナンと結ばれた夜から、ローズは眠る前に下腹部へ両手を当てるのが習慣となった。今この瞬間にも新しい生命が芽生えようとしているかもしれないと思うと、それだけで魂が震えるようだった。自分の身体が一層愛おしく、誰かの心に自分がいることが、自分の心に誰かがいることが、たまらなく嬉しかった。
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