第91話 出征、撤退、そして再会
出征から7日目、ローズは国境近くの森林地帯でオリヴィエ隊長が率いる部隊と合流した。
負傷者を収容する拠点の病床はすでに7割程が埋まっており、戦況の厳しさを物語っていた。肌を突き刺すような緊張感に包まれる。
「応援に参りました、軍医のロランです」
いずれ性別は分かってしまうだろうが、男性名のロランと名乗った。
幸いローズは背が高くスラッとしているため、サラシを巻いて膨らみを隠した胸と短く切りそろえた髪の毛とが相まって、黙っていれば少年に見えなくもない。
「ありがたい。一昨日の小競り合いで、かなり負傷者が出たんだ」
「症状別の負傷者数は?」
「今のところ――」
現状を把握したところで、足りない医薬品を確認し、補充していく。
「――そうすると、オリヴィエ隊長自ら、戦闘に参加しているんですか?」
「そうだ」
その時、緊急の救護要請が入った。「斥候部隊が攻撃を受けた。負傷者約10名、詳細は不明。現場での応急処置を頼む」とのことだった。
「私が行きます」
急いで必要な物資を詰めた鞄を手に持つ。衛生兵が3名、付いて来てくれた。
「軍医のロランです。現地まで案内してください。負傷者の容態は分かりますか?」
「助かるっ。今把握できているのは、負傷者10名のうち重傷者2名ということだ」
「重傷者の症状は?」
「一人は上腕に刀傷を負って、出血が酷い。もう一人は――」
「まず刀傷を負った方の応急処置を先に行います。皆さんは、他の重軽傷者の状態確認をして知らせてください」
「こっちです!」
地面に大柄な男性が横たわっているのが見える。どうやら左上腕を切りつけられたようで、自らの手で直接圧迫止血をしている。
見たところ、静脈性出血のようで、ひとまずホッと胸をなでおろす。
跪いて顔色、呼吸、脈拍を確認しようとしてローズは息を呑んだ。見知った顔だったからだ。
「っ、オリヴィエ隊長!! 分かりますか?」
「……ローズ? お前、来てくれたのか?」
「当たり前じゃないですか。さあ、みんなのところへ戻りますよ」
「……俺はいいから、他の隊員たちを診てやってくれ」
「隊長が一番重傷なんです。隊長が盾となって守ってくれたおかげで、他の隊員たちは軽症で済んだそうです」
先程、案内役の隊員から聞いた話を伝えながら、手早く傷口の洗浄と止血の応急処置をする。
「だが、俺はすでに血を流しすぎてる。助かる奴を優先してくれ」
「隊長。奥さん、何人お子さんを産んでましたっけ?」
「――3人だ」
「1回の出産でね、出血する量って普通でも500ミリリットルくらいなんですよ。酷い場合は1リットル近くにも。それにね、出産の痛みって、手指の切断にも匹敵するのに、無麻酔なんですよ? だから、隊長も頑張って」
「……カミさんには頭が上がらないな」
「そういうことです! とりあえず、後方の拠点まで搬送しますね。縫合は向こうでしますから」
「こちらの負傷者は左足首と右腕を骨折しています」
「骨折部の皮膚に傷がないか、転倒時に頭部を強打していないか確認を。なければ、骨折部をそのままの状態で固定。靴下と靴は脱がせて――」
無事に医療処置が施せる拠点まで戻って来た。
先程からローズはオリヴィエの切創の治療を行っている。
神経、血管、腱などの重要組織の損傷を確認した後、皮膚の縫合を丁寧に行っていく。アーサーが執刀する形成外科の手術に何度も立ち会わせてもらった経験がここで活きるとは思わなかった。
「隊長。縫合手術、無事に終わりましたよ。他に重傷者1名、軽傷者が8名いますが、死亡者はいません」
「……助けられたな。礼を言う」
「何言ってるんですか。日々、命を助けられているのは私達の方ですよ」
「っ」
「動くのはまだ無理ですよ。ベッドの上からでも指示はできますから。3日くらいは赤い腫れや痛みが生じると思います。あと2時間程で麻酔が切れますけど、痛み止めは必要最小限で良いですよね?」
「……相変わらず、容赦ないな」
「出産後の女性は、痛み止めすらもらえないんですからね。そんな中、徹夜で授乳するんですから」
「女には敵わんな」
「ちなみに、私、ここではロランで通してますから」
「お前っ、その髪……」
「髪はまた伸びますから。さっ、もう少し休んでください」
ローズは公爵家の領地の特産でもある、滋養強壮によい薬草を乾燥させて、たくさん持ってきていた。そこで、その日の夜はマクシミリアンに教えてもらった薬草粥を振舞った。
治療器具も薬も、マクシミリアンが十分な量を供給してくれた。このことは、暗い影を落とす戦場において、希望の光となった。
それでも、戦況はなかなか好転しなかった。死亡者こそ出ないが、毎日、誰かしらが負傷して戻ってくる。医療要員の間にも、日々の疲労が明らかに見て取れるようになってきた。
ローズは、救護拠点で負傷兵の手当をしながら、天気や拠点周辺の地形を把握することにも努めていた。いざという時の退去路の確認と、起こり得る自然災害に備えるためだ。
北の国境近くは、秋に局地的な大雨を降らす。備えるべき敵は、パルナス王国だけではない。天候もそうだ。雨に濡れることによる体力の消耗は軽視できないし、山脈地帯でもあるこの場所には、大雨による思わぬ災害が引き起こされる可能性もある。
元々は軍人だったマクシミリアンが領地生活の中で教えてくれた様々な知識が、こんな風に役立つとは、あの時は思ってもみなかった。
さらに、そんな彼の教えがフェルディナンから託されたものであったことなど、知る由もなかった。
――遡ること数か月前の日曜日の朝。
その日もローズはフェルディナンと手合わせをしていたが、あっと言う間に硬い地面の上に押し倒された。
また完敗だ。もう何回、同じパターンで降参してるんだろう。瞳が涙の膜を張りそうになるのを必死で我慢する。
「参りま……」
「くっ、降参だ!」
フェルディナンはそう言うと、ローズの腕を引っ張って上半身を起き上がらせた。
「え?」
「その顔は反則だろ……可愛すぎる」
「っ!! 真面目にやってください。そんなの、現場では通用しません」
「ローズ。もっと自分の土俵で勝負したらどうだ?」
「?」
「ローズの強みは、ここだろ?」人差し指で頭をトントンとする。
「敵と正面から対峙する力を付けることだけが、身を守る術じゃないんだ。それに、軍医として従軍するのは戦地に限らないだろう?」
フェルディナンは、ローズがいずれ心身ともに回復するであろうことを見越して、必要な教えを施すことを父に託していたのだった。
「ローズ、……いや、ロラン。ちょっといいか?」
「隊長!! 何か、戦況に変化が?」
「いや。泥沼化している。良い状況とはいいがたい。そろそろここも、安全ではなくなってきている」
「……拠点を後退させますか?」
「その準備をしておいてくれ」
「分かりました」
それから数日かけて、負傷者を後方に設けた拠点へと移していく作業が行われた。まだ移動に体が耐えられない重傷者3名はそのまま現状の拠点で手当てを受けている。軍医の中でも派遣されて日が浅く、若く体力があり、外科手術の腕が高いローズは、緊急事態に備えて重傷者とともにそこに残る選択をした。
怖くないと言えば嘘になるが、指揮をとってくれているフェルディナンが必ず事態を鎮定してくれると信じていた。いざという時のための退去路の確認も、事前にしてあったからなんとか踏ん張れた。
そうして無事に数日をやり過ごし、ようやく移動に耐えられるまでに回復した負傷者とともに新たに設置された拠点へ戻ったところで、オリヴィエ隊に撤退命令が下された。
それが戦争の終結を意味する撤収なのか、敗北を意味する撤退なのかは分からなかった。
撤退3日目は、途中の町で野営する予定だったのだが、急遽予定を変更し、騎士団の訓練所が併設されている宿舎で1泊することになった。
そう進言したのはローズだった。マクシミリアンから教えてもらった、雲の色や形から、豪雨になることが予想できたからだ。
久しぶりに風呂に入ることができ、屋根のある場所で寝られることで、みな明らかに表情に生気が戻ってきている。
ただ、この撤退の意味を把握しかねるところが、ローズの気持ちを落ち着かせなくさせた。敗北を意味するのであれば、指揮官であるフェルディナンの生死に直結してくるからだ。
窓を打つ雨音が、夜が深くなるにつれて大きくなっていく。
アルコールランプの薄暗い明りのもと、ローズは手術セットを机の上に並べた。
(独りで過ごす雨降りの夜は嫌いだ。背中の古傷が痛むし、孤独がいつもよりも一段と際立つから……)
寝ることを早々に諦めたローズは、硬く冷たく尖ったメスを、ランプの灯のもと一つひとつ丁寧に手入れしていく。この心の曇りも一緒に晴れていきますように、と祈りながら。
その時、雨音に混じって扉がノックされる音が響いた。
「ロランさん、夜遅くに申し訳ありません。今、大丈夫ですか?」
声の主は、騎士見習いのジルだった。小間使いとして召集されたのだが、こんな時間まで働かされているのだろうか。
「ジル? こんな夜更けにどうした?」
ジルがドアの隙間から顔だけ出す。
「あの……ロランさんに、お客様なんですが。お通ししても大丈夫ですか?」
「こんな時間に!?」
「――ローズ? 俺だ。入ってもいいか?」
静かに低音で響く、愛しい人の懐かしい声が聞こえてきた。
「!! っフェルディナン様っ!?」
慌ててメスを置きドアを開けると、雨に濡れたフェルディナンが立っていた。入室を促すと、ジルに男性用の着替えとタオルを持ってきてもらえるよう頼んだ。ジルは尋ね人が将軍だと知って飛び上がる程、恐縮していた。
「ローズ。久しぶりだな」
「フェルディナン様……っ、ご無事で、何よりでした」
お互い見つめ合うものの、思考よりも感情が支配して、言葉が出てこない。珍しく先に沈黙を破ったのはフェルディナンだった。
「っ、会いたかった」
そう言って、強く抱きしめてくれた。
ローズの短くなった髪の毛を優しく撫でながら、フェルディナンは少しだけ眉尻を下げた。こんなに弱気な顔をした彼を見るのは初めてだった。
ダークグレーの髪の毛は灰色に濡れそぼり、髪先からポタポタと水滴が落ちている。この雨の中、ここまで馬を駆けてきたのだろうか。
「……オリヴィエ隊長との話は終わっているんですよね? とりあえず、このままだと風邪を引いてしまいますから、お風呂に入ってください。後ほど、タオルと着替えもお持ちしますから」
戦況のことが気になって仕方ないのに、「敗戦」という決定的な言葉を聞く勇気が持てず、強引に浴室へと追いやってしまった。
土砂降りの雨の中、ここまで来てくれたという事実が、単純に嬉しかった。
たとえこの先の大戦で何があったとしても……今夜、彼の顔が見れてよかった。
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