第76話 秘密

 その日はアーサーが、ローズの務める診療所で他の先生が行う外科手術を手伝ってくれていた。アーサーは数か月前から王立医学アカデミーで非常勤講師を務めるようになり、ローズも彼の手術に立ち会い、その見事な手腕をたくさん見させてもらっている。


 ローズの受け持つ外来が一段落したところで、2階の台所でお茶を淹れ、手術を終えたアーサーをもてなすことにした。休憩時間に、台所の大きな窓のそばに腰掛けて中庭の風景を眺めるのが、ローズのお気に入りの過ごし方なのだ。


「もうあと3か月もすれば、卒業だな」

「早いね。アーサーはどうするの? やっぱり、いつかはお国に戻るの?」


「あぁ、そのつもりだ。ローズは? 婚約者殿とはうまくやっているのか?」

「うん。大事にしてもらってる。卒業したら一緒になれたら良いな、って思ってるんだけど」


「ローズがそう思ってるなら、そうなるだろう?」

「どうだろう。私たちの婚約には、その……色々と事情があるから」


「事情って?」

「……」


「ごめん、詳しくはいいや。何となく、察することはできる」

「……ありがとう」


「じゃあ、まだチャンスはあるんだな」

「え?」

「いや、何でもない。それよりさ、今日の外来はもう終わりだろ? 少し、散歩しないか? 庶民街のこの辺りって、あまり来たことがないんだ」


 庶民街の大通りから一本入った通りを、アーサーと肩を並べて歩く。メインストリートはもう観光済みらしく、もっとディープな街並みを見てみたいとアーサーが希望したのだ。


 日暮れ前だったけれど、アーサーの護衛が付いているから安全は保障すると言われ、応じることにした。


「へー、イーサン先生と娼館で働く女性たちへの検査も行ってるのか」

「うん。診療所でやってる炊き出しだけどね、花街で働くお母さんの子どもも何人かいるの」


「そうか……この仕事やってるとさ、世の中の色んな側面を知ることになるな」

「そうだね。普通に貴族の令嬢として暮らしてたら、一生、知らないままだったかも。あっ、この辺りからが、庶民街の住宅地だよ」


「へー。なんというか、思ったよりも平和な雰囲気なんだな」


 アーサーに王都の庶民の暮らしを紹介しながら歩いていたら、果物屋さんで買い物をしている親子が目に入った。


「お父さん、あれ買ってほしい!」

 元気な男の子が父親らしき人物に何かを乞うている。


「あぁ、いいぞ」

 そう答えた男性の声を聴いて、ローズは雷に打たれたようにその場から動けなくなった。


 聞き間違うはずがない。その声の主は、フェルディナンだ。


 黄味がかった緑色の大ぶりの果物を嬉しそうに受け取った男の子を、フェルディナンが慣れた手つきで肩車する。流れるような自然な動作が、そうすることが初めてでないことを物語っていた。

 お店の中から物腰の柔らかそうな女性が出てきて、2人の姿を見て幸せそうに微笑むと、そのまま肩を並べて夕暮れの街へ呑み込まれていった。



「……今の、ローズの婚約者じゃないか?」

「ん……そうだね」

「そうだねって……大丈夫か?」


「以前も違う女性と歩いてるところに遭遇したんだけど、その時は仕事だって。今回のは、ちょっと、仕事じゃないみたい……」

「……」


 アーサーも、信じられないものを見たような顔で彼等が歩いて行った方角を眺めている。


「追いかけるか?」

「えっ?」


「他に女がいるのなら、婚約の解消を迫れるだろう? こういうのは、ハッキリさせた方が良い」

「それは、そうだけど……でも――」


「じゃあ決まりだな。行こう?」


「えっ!? アーサー? ちょっと! 待ってよ!」


 慌ててアーサーについていき、フェルディナンに気付かれないように3人の後をつける。


しばらくすると、3人はある平屋建ての一軒家の前で立ち止まった。小さいけれど、家の周りには可愛らしいお花がたくさん植えられていて、綺麗に整えられている。その家の住人が、手間と時間をかけ、丁寧な暮らしを送っている様子が見て取れた。


 フェルディナンは男の子を地面に下ろすと、当たり前のように女性から残りの荷物を受け取って、楽しそうに3人で家の中へ入っていった。すぐに家の中にオレンジ色の優しい明かりが灯り、ローズたちは暗闇の中に取り残された。


 フェルディナンたちの姿を見失わないようにするので精一杯で気付かなかったけれど、とっくに日が落ちていた。


「……アーサー、帰ろっか」

「うん……」


 その後、2人は無言のまま診療所までもと来た道を戻って行った。

 2階の台所で、温かいお茶を淹れる。


「……あのさ、ローズ。こんな時にこういう事いうの、卑怯かもしれないんだけど、もし婚約が解消されたら、ナヴァル王国に来ないか?」


「え?」


「ちょうどさ、弟がローズと同い年なんだ。今年、騎士学校を卒業することになっていて、婚約者もまだいない。結構、お似合いじゃないかと思うんだ」


「……」


「優しくて良い奴なんだ。ローズの仕事にも、理解があると思う」


「ありがとう、慰めてくれて」


「そういうのじゃないよ。実は、今回こっちに来たのも、ローズに弟との結婚を打診する目的もあったんだ」


「え?」


「ローズ、本当にすまない。謝って済むようなことじゃないって分かってるんだけど……」


 いきなりアーサーが立ち上がったと思ったら、深く頭を下げた。肩が震えている。


「どうしたの? ……アーサー?」

 思わず立ち上がり、アーサーの顔を覗き込む。


「いつか話をしなければと、ずっと思っていたんだ。……居たんだ。ローズが背中に傷を負ったとき、あの場に。俺たち兄弟も、いたんだ」


「……どういうこと?」


アーサーは静かに、8年前の真相を話し始めた。

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