第75話 甘雨
その日学校から帰って来たローズは、珍しく執務室で仕事をしているフェルディナンを訪ねていた。
「ところでフェルディナン様、想い人の捜索は進んでますか?」
「ん? いや……進んでないな」
「これ、ナヴァル王国の有名な似顔絵師の方の連絡先です。フェルディナン様の記憶をもとに描いた女性の肖像画をこちらの絵師へ送ると、現在の姿を推測して描いてくれますから、良かったら、連絡を取ってみてください」
「……ローズは、俺が彼女と再会して、恋に落ちたとしても構わないのか?」
「心に残る女性がいるまま結婚して、後から後悔するよりはマシでしょう? 彼女が理想の女性になってたらどうするの?」
純粋なローズの厚意が、フェルディナンの心を抉る。自分が長年探し続けてきた女性と再会することを、何とも思ってないようだ。
(過去の女性たちには嫉妬するのに、一体何なんだ?)
「はっ。嫉妬深い貴女がそんな鷹揚なことを言うとは、意外だな」
「フェルディナン様が彼女を忘れられずに今まで婚約をしてこなかったこと、色んな人から聞いてるから。そういう想いは、大事にした方が良いと思います」
「……普通、嫌だろう?」
「本音を言うと、嫌ですよ? でも、過去の想い人は美化されやすいから。ちゃんと再会した上で、私を選んでほしいんです。……できたら、ですけど」
「過去の想い人か、確かに妬けるな。ローズが結婚を夢見たという彼には」
「えっ? それをいうなら、フェルディナン様だって一緒でしょ? 長年想い続けて」
「俺の場合は、女除けのための便利な言葉として使っていたところがあるからな」
「別に、今さら気を遣ってもらわなくても大丈夫ですよ?」
「気など遣ってない。ほんとに――」
「わー、詳細は聞きたくないですから!」
本音を言うと、フェルディナンが長年想い続けてきた女性と再会するのを手放しで喜べるかと言うと、そうではない。それでも、彼女を探すお手伝いができるくらいには、彼との絆を信じられる自分になれたことを嬉しく感じていた。
――その日の夜。
夜半前から窓を打ち付ける雨音が一段と激しくなってきた。
「春の嵐かしら……まいったなぁ」
ローズの背中の傷は普段痛むことはないが、雨の日だけは、酷く痛むことがある。季節の変わり目は特にそうだ。
いつもより早めにベッドに入ったローズだったが、痛みに顔をしかめながらゴソゴソと這い出て、自分の執務室へ入って痛み止めを飲む。しばらく目を瞑り、ソファーの上で丸まって痛みが去ってくれるのをひたすらにやり過ごす。
一方、その日の夜半過ぎ。
フェルディナンはようやく仕事を終え、寝室に入ったところで外の雨音が激しいことに気が付いた。
(花冷えの一日だったな。たしか――季節の変わり目は、古傷が痛むんだよな)
しばらく逡巡したのち、思い切ってローズの寝室へと続く中扉をノックする。何度かノックしたものの、返事がない。うっすらと灯が漏れているから、まだ眠っていないはずなのにと訝しく思いながらドアのノブを回すと、扉が開いた。
「ふっ。相変わらず、鍵はかけてないんだな。……ローズ? 入るぞ?」
やはり返事はない。寝台の上にローズの姿はなく、乱れたシーツが無造作に床の上に落ちている。
「ローズ!? どうした? 大丈夫か?」
ローズの執務室へと続く扉が開いていることに気づき、大股で歩いて向かうが、そこにもローズの姿は見えなかった。浴室にもローズの姿がないことを確認してから、フェルディナンは急いで階下へ降りて行った。
深夜の屋敷は、驚くほど静まり返っている。使用人達は別棟で寝起きしているため、この邸宅には護衛を除きローズとフェルディナンしかいない。
ふと、厨房の方向から甘い匂いが漂ってきた。ローズが湯たんぽを作るためにお湯を沸かしながら、ミルクに薬草を煎じたものを入れ煮詰めていたのだ。
ローズは厨房の椅子に膝を抱えて座り、膝の上に顎を乗せて何やら物思いに耽っていた。
いつもは後ろで一つに束ねている髪の毛も、今は自然におろしている。少しウェーブがかった琥珀色の髪が、呼吸に合わせて上下に波打つ。
下がり気味の眉尻も、長い睫毛が縁どったパープルの瞳も、今夜はひどく不安気に見える。いつもはその堂々たる立ち振舞いから大人びて見えるローズだが、そこにいるのは、紛れもなく成人を迎えて間もない18歳の少女だった。
フェルディナンは着ていたガウンを脱ぐと、そっとローズの細い肩にかけた。
ビクッとしてローズが振り返る。
「すまない、驚かせたか?」
「フェルディナン様……まだ起きていらっしゃったんですか?」
「ああ。少し喉が渇いてな。……ローズは? 傷が痛むのか?」
「ほんの少し。ちょうどホットミルクを作っていたんですが、ご一緒に如何ですか?」
「そうだな。じゃあ俺は、こっちを頂くよ」
そう言って、お酒のボトルを手にもう一脚椅子を持ってきて、ドカッと隣に腰掛ける。
パラパラと、雨が厨房の窓を打つ音が響く。
「……雨って、色んな呼び方があるのをご存知ですか?」
「ん? 雨は雨だろう?」
「春の雨はね、
昔はね、好きだったんです、窓から雨を眺めるのが。雨上がりの、息を吹き返した草木の香りも。でも今は、ちょっとだけ、辛い……」
そう言って、おでこを膝にくっつける。横髪がサラサラと落ちて、彼女の哀しそうな表情を隠してしまう。
フェルディナンが知る限り、ローズがここまで正直に弱音を吐いたことはなかった。横髪を優しく耳にかけてやると、不安気に揺れるラベンダー色の瞳と目が合った。
フェルディナンはローズの肩をそっと抱き寄せると、こめかみにチュッとキスを落とし、そのまま、古傷がある背中から腰にかけて、何度も優しく撫でた。
「……代わってやれたら良いんだけどな」
「え?」
「傷の痛み。……辛いよな」
「っん……」
「……そろそろ寝るか」
「フェルディナン様は先にお休みください。私は、もう少ししてから戻ります」
「湯たんぽか……。ならもう用意してあるから大丈夫だ。一緒に戻ろう?」
ローズは意味が分からず首を捻るが、「大丈夫だから」と半ば強引に連れ戻された。
「寝る準備が出来たら、俺の寝室へ来てくれ」
「え? はい……」
ローズが寝支度を済ませてフェルディナンの寝室へ入ると、こっちへ来いと言われる。ベッドのシーツをめくり、中へ入れという。
「ん?」
どこに湯たんぽがあるんだろうと思ってモゾモゾしていると、後ろからフェルディナンに抱きしめられた。
「へっ?」色気も何もない声が出る。
「俺は、人より体温が高いんだろう? 雨の日は、俺を湯たんぽだと思えばいい」
ふっと笑ったフェルディナンの吐息が首筋にかかってくすぐったい。
「……そんなこと言って。雨降りのたびに寝室に忍び込んじゃっても知らないですよ?」
「それは嬉しいな」
「襲っちゃうかもしれませんよ?」
「意味、分かって言ってるのか?」
「花街のお姉さま方に、色々教えてもらってますから」
「はっ!?」
「昨今じゃ、『旦那様に全てお任せします』なんていうのは、古いらしいですから」
「はぁー。……俺の寝室には鍵をかけておくことにする」
フェルディナンは前髪をくしゃっとして額に手を当てながら、呆れたように寝室の天井を眺める。
「その方が良いですね。スパイの婚約者に弱みを握られちゃう前に」
「そうだな」
「――まだ、晴れそうにないですか? 私の容疑」
身体ごとフェルディナンに向き合って、真剣な眼差しで問う。
「晴れそうにないなぁ。貴女は、思いのほか重要人物との接触が多いから」
フェルディナンはローズの髪の毛を少しだけ手に取ると、指にくるくると巻きつけて遊び始める。
「……公爵家には、ご迷惑をおかけしますね」
フェルディナンがピクリと眉毛を動かし、大げさに言う。
「ローズを側で監視し続けるのも悪くないんじゃないか? そのうち、可愛い子供も生まれるかもしれないし……そうしたら、両親も喜ぶ」
「……添い寝をしたって、子どもは出来ませんよ」
「そうだな」
冗談ぽく笑って、指に絡めていた髪の毛を解くと、ローズの頬を親指の腹で撫でて、唇にチュッと可愛いキスを落とす。
「ローズのことは、俺が守るから」
「それは、嬉しいです。とっても。……とってもですよ?」
「あぁ」
そう言うと、フェルディナンは再び唇を重ねてきた。
だんだん口づけが深くなっていてく。
「ちょっと、フェルディナン様。待って――」
「待たない。……ずっと待ってたんだ。ローズに男として見てもらうの。だからもう待たない」
「そんなっ――」
「ふっ……こんなので戸惑ってたら、大変だぞ?」
「何が?」
「結婚したら」
「どういう意味ですか?」
「ん。……今は知らなくていい」
「何それ――」
それ以上の質問は、フェルディナンに阻まれて聞けなかった。
フェルディナンから女性として扱われるのを嬉しく感じる反面、一歩進んだ関係になるのが怖くもある。今の関係でいることが心地よくて、あえて未来のことは考えないことにした。
後ろから抱きしめながら背中を温めてくれているフェルディナンの吐息が耳元にかかってくすぐったい。けれど、安心感の方がそれを上回っていつの間にか眠りに落ちた。
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