第74話 朧月夜
そういうわけで2人は今、王都のメインストリートにある本屋に来ている。
最新の医学書が刊行されたと聞いて買いに来たのだが、専門書は案外に重たい。
そのため、フェルディナンが荷物持ちをしてくれると、正直助かるのだ。
「これか?」
踵を浮かせて思いっきり手を伸ばしてもギリギリ届かないところに配置されていた医学書を、何でもないふうにヒョイっとフェルディナンが取ってくれる。
ローズの背中越しにフェルディナンの高い体温が伝わってきて、胸がトクンと高鳴る。
(直ぐ背後に立たれているのに安心できる。こんな感覚、すごく久しぶりだ……)
パラパラと頁をめくっているローズの隣からフェルディナンが顔をのぞかせて、「随分、小難しそうな本だな」とつぶやく。この距離感に、たちまち心がこそばゆくなる。
「欲しいのはこれで全部か? 遠慮はいらないぞ?」
そんなふうに聞きながら、律儀に支払いをすませてくれる。
「ありがとうございます」
お礼を言って、メインストリートを連れ立って歩いていると、背後から耳覚えのある声で「閣下」と声がかけられた。
2人して振り向くと、そこにはいつかの王宮舞踏会で見かけた妖艶な黒髪の美女が魅惑的な微笑みをフェルディナンに向けていた。
「わたくし、来週王都を離れるのですが、その前に2人でお会いできないでしょうか? また朝までご一緒できましたら、と……」
物憂げに視線を落としたと思ったら、今度は甘えるように上目遣いでフェルディナンを見つめてくる。
今回のは完全に、直球で、寝所へのお誘いだ。どうやら、彼女にもローズの姿は視えないらしい。
ローズが気をきかせてその場を離れようとしたら、フェルディナンに腰を抱き寄せられた。
「いや。婚約者がいるんだ。彼女を大事に思ってるから、もう貴女と2人で会う事はできない。失礼する」
その後もなぜか、フェルディナンはローズの腰に腕を回したまま歩いている。
「閣下ぁ」
わざと鼻から抜けるような甘い声を出し、フェルディナンの反応を確かめてみる。
「真似するんじゃない」
「良かったんですか? あんなに冷たくあしらったりして」
「ローズが言ったんだろう? あれぐらい言え、と」
「うそ……いつですか? 全然、記憶にないんですけど」
「貴女は酔っ払っていたからな」
「うっ……。でも、『朝まで一緒に過ごしたのは、ローズだけだ』って、あれ、嘘だったんですね」
「違うっ! 本当にそれは、ローズが初めてだ」
「どぉーだか」
「――待て。どうしてその会話、覚えているんだ?」
「……何のことですか?」
「嘘が下手だな。酔っ払っている間のことは何も覚えていないんじゃなかったのか?」
「っ、時々は覚えてることも……あるんですよ」
「だったら、一昨日の口付けも、合意の上だったんじゃないか」
「っ!! だから、ほんとにそれは覚えてないんです! 私の中ではノーカウントですから。それに、話を逸らさないでください。……まさかとは思いますが、地域ごとに女性を囲っているとかじゃないですよね?」
「なっ!? そんなわけがないだろう? 私を何だと思ってるんだ!?」
「アドリエンヌ先生やロベール様から聞いた通りの方だと思ってますけど?」
「は? ……あいつら、何て?」
「さぁ?」
(アドリエンヌ先生やロベール様からは、たしかに学生の頃からフェルディナン様は女性に人気で、モテ男として浮名を流したけれど、一方で特定の恋人はいなかったと聞いている。実際には彼に嫉妬した男たちが、女をとっかえひっかえしていると、面白おかしく尾ヒレを付けて噂を流したのだ、とも)
「信じてくれないかもしれないが、これまで、特定の女性がいたことはないんだ。貴族令嬢とも、深い仲になったことはない」
「ふーん」
「信じないのか?」
「信じますよ」
「……っ、これでも公爵家の人間としての教育は受けてきているんだ。気軽に子をもうけるような愚かな真似はしない」
「ヘェ。ソウデスカ」
「はぁー。……ローズ、誓って言うが貴女との婚約話が出てからは――」
「あっ、ここですよ! 今話題のケーキが食べられるカフェ! 今日はフェルディナン様がご馳走してくださるんですよね? 早速、入りましょう?」
「おいっ、人の話を――」
「今日はお腹いっぱい食べちゃおっと。お義母様たちやお屋敷のみんなにも、お土産をたくさん買って帰ろうっと。ぜ~んぶ、フェルディナン様のお財布で!」
「はぁー。……俺の話、全然聞いてないな」
(ローズとの婚約話が出てからは、一切の女性関係を絶っているんだ。
とはいえ、18の彼女にとってはそんなこと、今さらだよな。過去が消えてなくなるわけじゃない。
どうしようもないけれど、10代後半から20代前半までは特に、年の差は経験の差につながるんだ。あと20年もすれば、そんなもの気にならなくなるんだろうが。
嫉妬するローズは見ていて可愛いが、彼女を傷つけたくはないんだよな。年の離れた婚約者がいる男は、こういう時どう切り抜けているんだ? 今度、ロベールに聞いてみるか……)
先程から8つも年下のローズに振り回されてばかりのフェルディナンだったが、最近はそれすら心地よく感じ始めていた。
――その日の夜。
ローズはこれまでお守りのように肌身離さず持っていた小袋を、そっと木箱の中に仕舞った。それから両手で、願うような気持ちでしっかりと蓋を閉じた。
就寝前、久しぶりにベランダに出たローズは、柔らかくかすむ春の月を眺めていた。
リョウへ会いに夕日の見える丘に行ってからというもの、ローズの周りで不思議なことが起こっている。
リョウの顔を思い描こうとしても、思い出せなくなってしまったのだ。どんな髪瞳の色をしていて、どんな声をして、どんなふうに笑う人だったのか……。
エドワード殿下を描いたデッサン画を見ても、それがリョウに似ていると感じることもなくなってしまった。
一緒に見た景色も、一緒に過ごした日々も、すべての記憶がだんだん薄くなっていって、過ぐる新月の夜、ついに消えてしまった。
コン、と背後で音がして、びっくりして振り返る。
「……ローズ?」
「っ、フェルディナン様? フェルディナン様の方から来てくださるなんて、珍しいですね」
「あぁ。驚かせてしまってすまない。……寒くないか?」
「平気です。夜風が心地良くて」
「もう春だな。…………ずっと気になっていたんだが、前にローズを郊外の丘に迎えに行ったときがあっただろう?」
「はい」
「あのとき、誰かと対話していたのか?」
「え?」
「供物……大切な誰かを亡くしたように見えたから」
「……大切な人、でした。もう、いないんですけどね」
「今でも会いたいか?」
「え?」
「ローズは今でも、彼が恋しいか?」
ローズは静かに、でもはっきりと首を横に振った。
「……今ではもう、そう思うこともなくなりました。多分、フェルディナン様のおかげ。えへへ」
「そうか」
「あの日は、彼とさよならをしてきたんです」
「……そうか」
フェルディナンがほんの少し眉尻を下げた顔で微笑むから、思わず泣きそうになってしまった。泣きたくなんてないのに。
「俺のおかげということは、俺は貴女に憎からず思われていると考えて良いのか?」
「えっ?」
いきなり直球の質問をされて戸惑い、こくんと頷くので精一杯だった。
「だったら、王命とかスパイ容疑とか関係なく、ローズが自分の意思で結婚を考えるときがきたら、俺をその候補の中に入れてくれないか?」
「え? ……でも、私のこと、愛してはいないんでしょう?」
いつもは大人の余裕を感じさせるフェルディナンが突然そんなことを言うから、驚いてしまってうまく言葉が出てこない。ようやく出てきた言葉も、なんとも可愛げがない。
(だって、今朝の稽古の時、即答してくれなかったんだもん)
「正直、愛がどういうものかよく分からないんだが――心が満たされるんだ、貴女といると」
「……」
「ローズはどうだ?」
「……私も、フェルディナン様といると心が満たされます」
それは、間違いなくそうだと言える。この時にはもう、フェルディナンを恋い慕う気持ちは、明らかだった。
「そうか。じゃあ、今のは予約にしておいてくれ。時機がきたら、きちんと求婚するから。だから俺のことを、一人の男としてみてほしい。……兄は、嫌なんだ」
「っ……分かりました」
「熟れた林檎みたいに真っ赤だぞ?」
「っ、リンゴって……」
全然ロマンチックじゃない! と思って、抗議の瞳でフェルディナンを見上げる。
「くっ。ふくれっ面も、可愛いな。貴女が可愛くて――かわいくて、仕方ない。ローズ……口付けをしても?」
ローズがこくんと頷くと、フェルディナンはゆっくり顔を近づけてきて、ローズの顔を包み込むように触れると、重ねるだけの口付けを落とした。
それから、約束だからなとでも言うみたいに、その柔らかな温もりをもう一度、ローズの唇に押しつけた。
照れて俯いたままでいるローズを逞しい腕の中に引き寄せると、優しく抱きしめて頭を撫でてくれた。触れるだけのキスだったけれど、その温もりが、幸せな余韻となってずっとローズの心に残った。
――リョウは、大切な人だった。
けれど、春夜に浮かぶ朧月みたいに、リョウの記憶がぼんやりと霞んで消えていくのを、もう寂しいとは感じなくなっていた。
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