第72話 深酒と後悔

――乾杯してから2時間。

 ローズはすでに3杯目のビアマグを手にしている。


「だーかーらー、ユーゴのそういうところ、詰めが甘いって言ってるの! もっと強引に攻めないと、後からきた奴にサクッと美味しいところ持ってかれちゃうわよ?」


 行儀悪くテーブルに頬杖を付きながら、ローズが騎士見習いのユーゴに何かを説いている。


「――あいつら、何の話をしてるんだ?」

「ローズさんって、酒を飲むと性格変わるタイプだったんですね……」

「まるで、姉御って感じだな。……でも、叱られてみたいかも」

「意外に、こっちが地だったりしてな」

「なんかでも、色っぽいですよね、今夜のローズさん」


 周りの隊員が、ローズの意外な素顔に色めきだした頃、クリストフがローズの腕を取って帰り支度を始めた。


「ロゼ、もう帰るぞ!」


「えー、せっかく楽しくなってきたのに。あんな浮気者がいる家、帰りたくないっ!」


「仕方ないだろ。俺だって酔っぱらったお前を連れて帰ったら、エミリアに要らぬ心配をかけるんだっ」


「クリス兄様……ようやくエミリア様と婚約まで漕ぎつけられたんでしゅものね。じゃあ、今夜はユベール先生のところに泊まるっ!」


「あっちは先週の雨漏りで、まだ住める状態じゃないだろ?」


「そうだった……。はぁー、どうしよう」


「とりあえず、なっ? 今夜は大人しくあいつんとこに帰れ。で、よく話し合え」


 無理やりクリストフがローズを帰らせることにしたせいで、しばらく不満を漏らしていたローズだったが、馬車の中で寝てしまった。


 ローズの眉間に寄った縦皺を、クリストフが笑いながら指でほぐしてやる。

「ロゼがこんなにも素直に感情を表せるようになったのは、あいつのおかげかもな……」


 フェルディナンの別邸に着くと、クリストフは目覚める様子のないローズを抱きかかえたまま馬車を降りた。


 心配顔の使用人達に混じって、フェルディナンが玄関先でローズを出迎えた。


「……色気が半端ないから、連れて帰ってきてやったぞ。ほら」

そう言って、ローズの身体をフェルディナンへ預ける。


「すまない。手間をかけた」


 フェルディナンが素直に謝罪する。


「――それと、ロゼとちゃんと話せ。本人は何ともないみたいに言ってたけど、ルイーズがお前の昔の恋人だって隊員たちが騒いでたから、多分……気にしている」


「……っ」

 フェルディナンがはっと息を呑む。


「あと、暫く酒を飲ませるのは自宅だけにしろ。周りの奴らが色香にやられちまう」


「……分かった」


「じゃあな、あとはよろしく!」


 そういうとローズの前髪を優しく撫で、額と頬にキスを落として帰っていった。


 2人の会話を聞いていた使用人達の冷ややかな視線がフェルディナンに突き刺さる。特に、ターニャの目が怖い。


(この屋敷の主人は俺のはずなんだが……いつの間にか皆、ローズに手懐けられている)


 フェルディナンはローズを彼女の寝室ではなく、自分の寝室の寝台へ寝かせた。お酒を飲んでほんのりピンク色に上気したきめ細やかな肌は、思わず吸い込まれる程に美しい。


「んん……っん」


 ローズの長い睫毛がゆっくりと上がっていく。まだここが何処だか分かっていない。ゆっくりと部屋を見渡したところで、ベットに腰掛けているフェルディナンの姿が目に入ったようだ。


「……起きたか?」

「ん……」

「今日はすまなかった」


 フェルディナンが潔く頭を下げる。

 半分寝ぼけた頭で、彼のこういうところ、善悪をきちんと判断できて、素直に謝れるところは好ましいなと感じる。


「水、飲むか?」

 フェルディナンがグラスに入れた水を差し出してきた時、彼の開いたシャツの襟元から、ふわっと知らない女の香りがした。


(これ、前に偵察から戻って来た時にまとっていたのと同じ香りだ……)


 頭痛と甘ったるい香水の匂いに、思わず顔をしかめる。

 ローズは寝台に横たわったまま片肘をついた状態で髪をかき上げ、グラスを手にしようとするが、思うように身体に力が入らない。


「ん……っ、起き上がれない。飲ませて……」

「っ!!」


 しばらく間があってから、顔に影が差したと思ったら、グラスの硬い感覚ではなく、柔らかく湿ったものが唇に押し当てられた。


「んん?」と声を出した途端に、冷たい水が口の中に入ってくる。


 酔っ払った頭で、口移しで水を飲まされていることに気づくが、案外、口移しで飲んでも水は冷たいままなんだ、なんてことを考えている自分がいる。


「まだ欲しいか?」


「ん。お願い……」


 また、口内に水が入ってくる。と同時に、厚くてぬるっとしたものを口内に感じ、驚きで思わず「ひっ!?」と声が出る。そのはずみで飲みかけの水がツツっと肌を伝ってこぼれ、洋服の胸元を濡らしてしまった。


 久しぶりの深酒とフェルディナンの熱に当てられたローズは、泥に沈むような感覚に陥り、そのまま重い瞼を閉じた。


「はぁー。……とりあえず、濡れた服を何とかしないとな」


 フェルディナンは器用にローズの服を脱がせていく。コルセットをしないローズの洋服は、背中の釦を外していくだけでよいので案外簡単に脱がすことができた。


 下着姿になったローズの身体をシーツで覆い隠すと、執務室へと戻った。


(クソッ。侯爵との約束だから結婚するまで手は出せないが……。何なんだ、あの無防備な色気はっ!! ……まだ18だぞ?)


 ローズが家出をしたと勘違いした翌日に侯爵家へ謝罪に行った際、別室で侯爵から嫌というほど絞られて、結婚するまで絶対に手を出さないと誓わされたのだが、すでにその誓いを守る覚悟が揺らぎ始めていた。



――翌朝。


「んんっ……」


 寝返りを打つと、頬に湿気のある温もりを感じる。

 なんだろうと思って目を開けると、フェルディナンの剥き出しになった胸板に体を預けていることに気づいて飛び起きた。


「えっ!? ――どうして?」


 シーツのヒヤリとした感覚を直接肌に感じて、恐る恐るシーツの中を見る。下着は身に付けているが、着ていたはずの服が見当たらない。


「……ローズ。昨日はすごかったな。乱れた貴女も可愛かった」

「っなっ!!」ローズの顔が青ざめる。


 フェルディナンの両腕が伸びてきて、あっという間に腕の中に囲まれる。


「えっ、えっ!? フェルディナン様?」

「フェル」

「ん?」

「フェルだ。昨日、俺に縋りながら、何度もそう呼んでくれたじゃないか」


「はへっ!?」びっくりしすぎて変な声が出る。


 日焼けした肌に、不精髭をたたえたフェルディナンは、朝からワイルドな色気を炸裂させている。「覚えてないのか? ひどいな」唇が触れ合いそうな近さで囁いてくる。笑うと白い歯がこぼれた。


 ローズは必至で昨夜の出来事を想い出そうとするが、居酒屋でオリヴィエ達と飲み始めて暫くしてからの記憶があやふやで、どこからが現実でどこからが夢なのか分からない。


(えっと……クリス兄様に連れ戻されて……知らない女の人の匂いがして、嫌な気持ちになって……それから……キス、した!?)


「くくくっ。心配するな。水を零したから、服を脱がせただけだ」

「なっ!!」


 ローズはもう金輪際、お酒で羽目を外すのはやめようと誓った。

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