第71話 昔の恋人?

 王立医学アカデミーの冬学期の成績表が届いた。

 スパイ容疑に動揺したり、怪我を理由にお休みをしたりしたが、無事に合格ラインを超えていたことを祝して、金曜日の夜、フェルディナンが食事に連れて行ってくれることになった。


 そして今、ローズは鏡台の前に座らされている。今日のターニャは一段と気合が入っている。それというのも、今朝のローズの言葉に端を発する。


「ローズ様。今夜は坊ちゃまとのお食事デートですね。楽しみでございますね」


「デート、なのかな。ねぇターニャ、フェルディナン様って綺麗系と可愛い系、どちらが好きなのかしら?」


「うふふっ。坊ちゃまが好きなのは、そのままのローズお嬢様です」


「気を遣わなくても大丈夫よ。あのね、騎士学校時代のご友人たちによると、フェルディナン様の好きなタイプは、私とは正反対の女性らしいの」


「ご友人達の戯言など、全く気にする必要ございませんよ!」


「そうは言っても……。せっかくフェルディナン様が誘って下さったから、今日は髪の毛もおろして、いつもとは違う雰囲気にまとめてくれるかしら?」


「もちろんです! お任せください」


 執事のティボーも、扉越しに二人の会話が聞こえてきて、ニヤニヤが止まらない。

「これは旦那様、喜びますね」


 ターニャは、いつもより華やかな雰囲気にするため、両サイドの髪を編み込み、耳上の高い位置から髪の毛を下ろしてハーフアップにすると、歩くたびにふんわり揺れるように、前髪とサイドの毛先をゆるくカールしてくれた。

 お化粧も、パール入りのアイシャドウで優しい品のある目元をつくり、唇には深みのあるボルドー色のリップをのせて大人っぽく仕上げてくれた。


 今日のローズはいつにもまして艶っぽく、20代前半に見える。


「それじゃあ、行ってきます」

 ニコニコ顔のターニャ達に見送られながら、公爵家の馬車に乗り込む。フェルディナンとは直接レストランで落ち合うことになっているのだ。


 茜色に染まった夕空が美しく、レストランまで歩きたい気分になったローズは、御者に頼んで途中の広場で降ろしてもらった。


(普段はひっつめ髪で過ごしているから、久しぶりにお洒落して髪を下ろした姿を見せたら驚かれるかな?)


 そんな甘い空想をしながら歩いていたら、あっという間に貴族街にある待ち合わせのレストランに着いた。名を告げると、申し訳なさそうな顔をしたマネージャーが奥から出てきた。


「本日はお越しくださいまして、誠にありがとうございます。実は先程、ヴァンドゥール卿の遣いの方が見えられまして――」


 差し出された手紙には、見慣れたフェルディナンの几帳面な字で、「急な仕事で食事会へ行くことができなくなった。近いうち必ず埋め合わせをするから、公爵家の馬車に乗って気をつけて帰るように」と書かれていた。


「急な仕事じゃあ……仕方ないわよね」


 ローズ自身も急患が入って予定をキャンセルせざるを得ない状況はあるから、フェルディナンの事情もよく理解できる。そもそも、今夜みたいに事前に約束する事の方が珍しいのだ。だからこそ、怒れない。怒れないから、感情の持っていき場がなくなって、不満が蓄積されてしまう。


「これは、良くないサインだわ。いつか彼にぶつけちゃう前に、発散させないと」


 大通りに出るが、公爵家の馬車はもう返してしまっため、代わりの馬車を探さないといけない。


(今夜はユベール博士のアパルトマンに泊まらせてもらおうかな……)


 そんなことを思いながら歩いていると、通りの向こう側から声をかけられた。


「よー! ローズじゃないか!」


「オリヴィエ隊長!?」

 隊員のみんなも一緒のようだ。


「お洒落して、今夜はデートか?」

「その予定だったんですけど、急になくなってしまって」


「はぁ? こんな良い女を置いてくなんて。ったく、仕方がない奴だな。俺が今度、説教しておいてやるよ」

「ふふっ、隊長、もう飲んでいらっしゃるんですか?」


「まだまだ、これからだ! そうだ、ローズも一緒にどうだ?」


 隊員のみんなが「賛成~!」と叫ぶ。

 女性の事務員たちも来るというので、参加させてもらうことにした。


「よーしっ、じゃあ、クリストフも呼ぼうぜ!」


 隊長はクリストフが私の叔父だと知っている。

 みんなでワイワイ言いながら彼らの行きつけだという庶民街にある大衆向けの居酒屋に向かっていたのだが――


「あれ? あれって……ドゥ・ヴァンドゥール将軍じゃないですか?」

「そうだな」

「いいなー、美女とデートかぁ」


「えっ!?」


 あり得ない話が聞こえてきて、隊員たちが見やっている方向を見ると、フェルディナンにしな垂れかかるようにして歩いている女性が目に入った。遠くからだし、薄暗いから表情まではよく見えないけれど、2人が醸し出すアンニュイな雰囲気は、まるで情事の後の恋人同士のようだ。


「ヒュー。確かあれ、将軍の昔の恋人だったルイーズさんだよな?」

「ああ。でも随分昔に別れたんじゃなかったか? ルイーズさん、既婚者だろ?」

「それが、最近離縁して国防軍に戻って来たらしい」

「へぇー。じゃあ、よりを戻したってわけか」


「お前らっ! くだらない話をしてるんじゃない。ほらっ、行くぞっ!」


 オリヴィエ隊長は、フェルディナンとローズが婚約していることを知っている。


(気を遣わせちゃったわね……)


 それにしても、とローズは思う。たとえ、……百歩引いて、スパイ容疑のかけられた仮の婚約者であったとしても、だ。あまりにも失礼じゃないかしら? 待ち合わせをしたレストランと離れているとはいえ、絶対にすれ違うことはないという自信でもあったのかしら? それとも、わたしに昔の恋人といるところを見せつけたかった?


「昔、の恋人なのかな。……今も続いてるってことは、ないと思うけれど」


 ローズは何だか胸がムカムカして、今日は思う存分お酒を飲んでやる! と息巻いたのだった。

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